見出し画像

「通り過ぎゆく者」コーマック・マッカーシー


《どうなんだろうね、ボビー。世界には善というものがあると信じたいじゃないか。自分の手を動かして仕事をすれば世界に善いものを差し出せると信じたいじゃないか。そんなふうに思うのは間違いなのかもしれないけどそれを信じなかったら生きてる甲斐がないよ。それでも生きてると言うかもしれないけど。ほんとに生きてるとは言えないよ。やれやれ。聞いてて呆れるだろう。あたしはどんどん馬鹿になっていくよ。

 今のは馬鹿なことじゃないよ、エレン祖母ちゃん。》(254頁)


《きさまが嘘つきのくそ野郎でないならイエスなんぞおらんのだろうよ。

 ちょっとごめんね、と祖母は言った。

 椅子を後ろに押して立ちあがり居間への入り口まで行った。ロイヤル、悪態を吐きたいなら好きなだけやればいいけどこの家で神様の冒瀆だけはやめてちょうだい。それだけは我慢ならないから。

 ロイヤルは返事をしなかった。》(255頁)


《ほかには。

 さあて。電子的な通貨の登場ですかね。これもわりと早く実現します。

 そうか。

 現物の貨幣はなくなります。取引があるだけです。どの取引も記録上の問題になります。最初から最後まで。

 みんなそのことに文句を言わないだろうか。

 じきに慣れるのです。政府はこれで犯罪を撲滅できると説明するでしょう。麻薬取引とか。通貨の安定性を脅かす大規模な国際的裁定取引とか。あなたもいろいろ思いつくはずです。 

 何を買うのも売るのも記録だけで行なわれると。

 ええ。

 ガム一枚買うのも。

 そうです。》(420-421頁)



《世の小説の多くが“人間と人間の関係”を描くのに対して、マッカーシーの小説は“世界と人間の関係”を描く。ここで“世界”というのは哲学的な意味のそれだが、科学的に見ればそれは“宇宙” ということになる。本作と『ステラ・マリス』では科学的な立場での真理の探求や宇宙と人間の関係が初めて表に出てきたというわけである。

(中略)

 ざっくり言うなら、マッカーシー作品の提示する世界観は、“世界”は人間の“理性”や“理想”や“善意”を斟酌してくれないということになるだろう。『すべての美しい馬』と『平原の町』のジョン・グレイディの熱い純真も、『越境』のビリーの素朴な善良さも、『ノー・カントリー・フォー・オールド・メン』のモスの清しい豪胆も、『ザ・ロード』の父子の正義感も、この“世界”の非情さにぶち当たることになるのだ。》(訳者あとがき)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?