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「恐るべき緑」ベンハミン・ラバトゥッツ


《(ヘルマン・ゲーリングのスーツケースのなかには)お気に入りの薬物二万錠以上、すなわち第二次世界大戦末期のドイツで製造されたその薬の残りほぼすべてが入っていた。彼の薬物中毒は例外ではなかった。実質的にドイツ国防軍の全兵士が、配給の一部としてメタンフェタミンの錠剤を受け取っていた。ペルヴィチンという名で商品化されていたそれを兵士たちは服用し、何週間も眠らず、完全に正気を失い、躁状態の興奮と悪夢のような意識朦朧とを行き来し、過労から多くの者が抑えがたい恍惚の発作に襲われた。》(9−10頁)

《今日知られているように、メタンフェタミンはドイツ軍のとどまるところを知らない電撃戦を支えた燃料であり、多くの兵士が口中で溶ける錠剤の苦味を感じながら精神病の発作に見舞われた。それにひきかえ第三帝国の幹部たちは、(中略)侵略軍には焦土しか残さぬよう領土内の価値あるものはすべて破壊せよと総統が命じたとき、それとはずいぶん異なるものを味わった。完全なる敗北を目の当たりにして、自らが世界に呼び起こした恐怖のイメージに打ちのめされた彼らは、手っ取り早い逃げ方を選択し、シアン化物のカプセルを噛んで、その毒が放つアーモンドの甘い匂いのなかで窒息死を遂げたのだ。》(10頁)

《現代の窒素肥料を発明した科学者(注:フリッツ・ハーバー)は、第一次世界大戦の塹壕戦に投入された大量破壊兵器である塩素ガスを初めて生成した人物であるという。その緑色のガスによって何千もの人々が命を落とし、無数の兵士たちが、肺のなかでガスが泡立つあいだ、自らの痰と吐瀉物に溺れながら喉をかきむしったが、いっぽうで、彼が大気中に含まれる窒素を抽出して作り出した肥料は何億もの人々を飢餓から救い、今日の人口爆発を促すことになった。(中略)エジプトのファラオたちの墓は、金や宝石ではなく、ミイラや一緒に埋葬された何千人もの奴隷の骨に隠された窒素を狙った盗賊たちによって荒らされたのだ。》(178−179頁)

《ついこの間、夜の庭師から、柑橘系の樹木がどんなふうに枯れるか知っているかと訊かれた。干ばつや病気に耐え、疫病や菌類や害虫の無数の攻撃を生き延びたとしても、老齢を迎えると、過剰さによって滅びてしまうのだ。ライフサイクルの終わりに差しかかると、木は最後に大量のレモンを実らせる。最後の春を迎えた木に花が咲き、巨大な房となって、ニブロック離れたところでも喉や鼻を刺すほどの甘い芳香であたりの空気を満たす。実は一斉に熟し、その重みで枝ごと折れ、数週間後には周囲の地面が腐ったレモンの実で埋め尽くされる。不思議だね、と彼は言った。》(185頁)

《本書は現実の出来事に基づくフィクションである。フィクションの度合いは本書全体を通じて次第に増していく。「プルシアン・ブルー」では一段落のみがフィクションだが、それ以降の章では、そこで示される科学的概念に忠実であることを心がけつつ、より自由を行使することにした。「核心中の核心」の登場人物のひとりである望月新一の場合が特にそうで、アレクサンドル・グロタンディークの精神に分け入るために望月の研究のいくつかの側面から着想を得たが、彼の人物像や経歴や研究内容について、ここで語られていることの大半はフィクションである。》(謝辞)

《人物の評伝というスタイルを採用しつつも、情報の圧縮と純然たるフィクションによる拡張を加えることで出来上がった密度の高い物語、とでもいうしかない新しい小説がここにはある。》(訳者あとがき)

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