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大谷翔平の対戦選手を遡って行くと、最短何人で野球創生期の選手まで行き着くのか?

大谷翔平と王貞治、どちらがすごいのか?
時代が違うから比較をすることはできないのですが
ある時、プロ野球選手のYouTubeを見ていてあることに気がつきました。

山本昌なら大昔の選手と大谷翔平の比較ができたりするのではないだろうか?

FLASHの取材で世界最速ラジコンを持つ山本昌

山本昌は古くは「山本浩二」「衣笠祥雄」、新しいところでは「鈴木誠也」との対戦経験があるとのことです。

大谷ともオープン戦か何かで対戦したことがあるらしいです。
すごいですよね、衣笠祥雄から大谷翔平って…

ここでまた気がついたんですが、
衣笠祥雄は金田正一と対戦してます。

つまり大谷翔平から2人挟めば金田正一まで行き着くんですよね。

だからなんなんだと言われればそれまでなんですが、これなんかすごくないですか?

この調子でやっていけば1936年の野球創成期の選手まで意外と簡単に行き着くのではないでしょうか?

面白そうなのでちょっと調べてみました。

大谷さんから「中年の星」へ

大谷と対戦したことがある一番のベテラン選手を探すために、大谷のルーキー時代から見ていきます。

最初に書いておきますが、二軍戦やオープン戦は古い情報は調べきれないと思いますので、一軍公式戦のみを対象といたします。
日本シリーズやプレーオフは試合数が少なく調べることも可能かと思いますので対象に含めます。
オープン戦はなしなので、山本昌は対象外とします。
公式戦で対戦した選手のみで遡ります。
※特別な例を除いて基本ネット情報なので100%正しく遡れるとは限りません。


大谷翔平のデビューは2013年、
高卒ルーキーの年からいきなり二刀流として活躍。

野手として77試合に出場し打率.238、3本塁打、20打点、OPS.660
投手として13試合に登板し11先発、61回2/3を投げて3勝0敗、防御率4.23

すげぇ

野手としても投手としても高卒ルーキーなら相当凄いのに二刀流って
何だこの化け物

これだけ試合に出てますので、そこそこの人数の選手と対戦しています。

しかも2013年と比較的最近なので、ネット上に情報も結構落ちております。
ヌルデータ置き場というサイトで、しっかりと対戦成績が掲載されておりました。

11年前だけあって結構懐かしい名前が多いですね…

打者としてドジャースの大先輩の斉藤隆
投手として名球会の松井稼頭央に宮本慎也

残念ながらやはり山本昌は公式戦では対戦はありませんでしたが、
もう一人の中日のラジコンマニアと対戦しておりました。

この年引退した、39歳で本塁打王を獲得した中年の星「山﨑武司

公式ホームページより引用、どの写真も同じポーズだけど腕組むの好きなのかな

大谷の対戦打者の中でも圧倒的に入団が早い選手です。
1986年入団ですから、昭和です、昭和。

対戦した日程も検索すれば簡単に出てきました。
なんせこの試合は大谷翔平が初勝利を挙げた試合です。

大谷は先発投手、山﨑は7番指名打者で出場
1打席目はデッドボール、2打席目はレフトへのツーベースと
引退間近の山﨑がルーキー大谷を圧倒したようです。

やるじゃん山﨑。


大谷から山﨑武司まで遡りました。
もっと遡っていきましょう。


中年の星から「第一次長嶋巨人を支えた左腕」へ

山﨑武司は1986年にドラフト2位で愛工大名電高校から中日ドラゴンズに入団。
初出場は1989年9月7日のカープ戦。
同9月10日のヤクルト戦でギャオス内藤から初安打を記録しています。
この当時は捕手でしたが、盗塁王を狙う正田耕三に日本記録となる1試合6盗塁を決められたことでも有名ですね(翌年コンバート)。

©中国新聞 盗塁を決める正田とショートを守る後の素晴らしい監督

さっきまで大谷の話をしてたのに急に正田とかギャオス内藤とか出てきて一気に隔世の念を感じます。
平成元年の話ですからね。

それでは山﨑武司の対戦相手について調べていきたいんですが…
残念ながらNPBの公式サイトで試合の細かい記録が残っているのは2005年までで、1989年の記録は残っていません。

ただ、当時の試合を全部記録しているとんでもないサイトならあります。

なんとこのサイト…
1936年からすべての試合が記録されています。
とんでもないデータ量です。
何年かかって作り上げたんでしょうか?やばすぎます。

こんなサイトがあるので、試合の記録を一個一個見ていけば山﨑と対戦した最古の選手が見つかるはずです。

ちなみにこれが先ほどの正田が6盗塁を決めた試合です。
対戦したのは金石昭人(PL学園)と津田恒美(炎のストッパー)
どちらも有名な選手ですが1980年代入団なので、もっと古い選手がいそうです。

気の遠くなる作業ですが、いつか見つかるでしょう。
とりあえず1989年の中日の試合を一個一個見ていって、調べていきます…
9月7日が初出場なのでそれ以降の試合をすべて見ていきましょう。



おーん…

とりあえず一番ベテランっぽいのは1989年9月26日に出場していたヤクルトの尾花高夫(PL学園)でしょうか?
尾花さんは1978年入団でこの時は31歳。
正直もっとベテランの選手がいそうな気がしますが、この時代ちょうど過渡期に入っているのかなかなかベテランの選手と対戦していません。

この時代のベテラン投手には1969年入団の新浦壽夫投手(大洋)、1972年入団の加藤初投手(巨人)などがいるのですが、1989年はどちらとも対戦をしていないようです。
他にも尾花さんより入団の早い投手は何人かいるようなので、1989年だけでなく1990年以降も調べていきましょう。

しかし、この山﨑武司。絶妙に毎年打席に立ってるので調べるのは結構骨が折れます。
代打出場が多いから本当に一試合ずつ見ていかないといけないんですよね…
上記の新浦壽夫が1992年にヤクルトで引退してるので、とりあえずそこまで調べてみます。



あっ!

これ新浦と山﨑、対戦してない!?
対戦打者数から計算すると多分してる!でも新浦が中継ぎ登板の関係で対戦してないかもしれない!どっちだこれ?


気になったのでGサーチという新聞記事検索サイトで調べてみました(僕は有料会員です)

このサイトは与信調査などに使われるサイトで
過去数十年分の新聞記事を検索することができます。

ここにこの情報を入力すると…
出ました!1992年9月9日の日刊スポーツ!


ヤクルト中日(24)試合結果(テーブル)
1992.09.09 日刊スポーツ 3頁 (全2,185字) 
中日が、落合博の2打席連続アーチでヤクルトの息の根を止めた。初回、大豊、山崎の適時打で3点を先制して、先発高野をKO。3回には落合博の18号、5回にも落合、大豊のアベック弾で突き放した。中盤、ヤクルトは2点を返したが、中日はリリーフ与田が8回以降1安打に抑えて逃げ切った。ヤクルトは今季6度目の3連敗。
 ◇8日 ナゴヤ◇開始18時21分◇観衆35,000
 24 ヤクル打 安 点  通算率 1 2 3 4 5 6 7 8 9
 (中)飯 田4 1 1 .290三振……四球……三振……遊安……遊ゴ
 (左) 城 3 0 0 .234三振……三振…………遊ゴ…………
  投 増 田0 0 0   --…………………………………………
  打 八重樫1 0 0 .273………………………………三併……
  投 新 浦0 0 0 .167…………………………………………
  投 石 井0 0 0   --…………………………………………
 (捕)古 田4 1 0 .317投ゴ……三ゴ…………左安……二飛
 (一)広沢克4 1 0 .278……一ゴ……左安……二ゴ……二ゴ
 (三)ハウエ4 3 2 .333……左本……一併……左安……中2
 (遊)池 山4 0 0 .281……三振……三振……一直……三振
 (右)西 村0 0 0 .111…………………………………………
  右 橋 上2 0 0 .246……遊ゴ…………四球……二ゴ……
  打 荒 井1 0 0 .277…………………………………………三ゴ
 (二)パリデ4 1 0 .241…………遊ゴ……中飛……右安……三ゴ
 (投)高 野0 0 0 .235………………………………………………
  投 小 坂1 1 01.000…………三安………………………………
  打 角 富1 1 0 .164……………………中安……………………
  投 中 本0 0 0 .000………………………………………………
  左 土 橋1 1 0 .262………………………………右2…………
  打  秦 0 0 0 .262…………………………………………四球
 ----------------------------------
   計  3410 3 .263  残塁7 併殺0
 ----------------------------------
ヤクルトヤクルト 3= 0 1 0 0 0 1 1 0 0
    15勝9敗 中日   7= 3 0 1 0 2 0 1 0 X
 ----------------------------------
中日 打 安 点  通算率 1 2 3 4 5 6 7 8
 (二)立 浪5 1 0 .309遊飛中安……二ゴ…………遊ゴ三振
 (遊)種 田4 2 0 .237中安右安…………三ゴ……右飛
 (中)パウエ3 1 0 .320左安右飛…………右飛……四球
 (一)落合博3 2 2 .294三振……左本……中本……四球
 (左)大 豊3 2 3 .249右2……遊ゴ……左本……四球
 走右 山 口0 0 0 .275……………………………………
 (右)山 崎4 1 1 .222右安……遊ゴ……三振……三振
  投 与 田0 0 0 .100……………………………………
 (三)前 原4 0 0 .266三振……三振…………三振……三振
 (捕)中 村4 0 0 .248……三ゴ……中飛……遊ゴ……遊ゴ
 (投)山本昌3 0 0 .191……三振……三ゴ……三ゴ…………
  左 清 水0 0 0 .238……………………………………四球
 ----------------------------------
   計  33 9 6 .252  残塁6 併殺3
 ----------------------------------
  勝 敗 S試合 回数 打者  球数 安三 四 死 失 自 通算防御
 ●高 野
  7 5 018  1  7  33 42 0 0 3 3 4.75
  小 坂
  0 0 014  3 12  52 32 0 0 1 1 3.22
  中 本
  2 1 331  1  5  16 21 0 0 2 2 3.50
  増 田
  0 0 0 3  1  3  14 01 0 0 0 0 7.20
  新 浦
  1 2 010  1  6  32 01 3 0 1 1 6.56
  石 井
  0 0 0 5  1  4  16 02 1 0 0 0 9.64
 ----------------------------------
 〇山本昌
 11 8 025  7 29 120 96 2 0 3 3 3.24
  与 田
  1 51531  2  8  34 11 1 0 0 0 3.64
 ◇勝利打点 大豊(5)(1回)
 ◇本塁打 ハウエル29号(105メートル=山本昌)
      落合博 18号(110メートル=小坂)
      落合博 19号(125メートル=中本)
      大豊   8号(100メートル=中本)
 ◇失策  山本昌(5回)
 ◇盗塁死 角富(5回)
 ◇暴投  高野(1回)新浦(7回)
 ◇時間  3時間16分
 ◇審判  谷(球)森、鷲谷、井上(塁)

1992.09.09 日刊スポーツ

これもだいぶ見づらいですけど、これは対戦してます!
新浦がパウエル、落合、大豊に三者連続四球を出した後に山﨑を三振に打ち取ってます!

それにしてもメンバーがなかなかすごい…
山本昌与田のリレー、立浪種田の二遊間に4番落合5番大豊、古田広沢池山、新浦の後に投げてる石井って石井一久ですよ。
後の監督が何人も…それにヤクルトの先発の高野光って自殺した人か…
さっきまで大谷の話してたのに後の監督の若手時代にぶち当たってしまうなんて。


というわけで、山﨑武司から新浦壽夫につながりました。

©ベースボールマガジン社 巨人時代の新浦投手

山﨑は新浦壽夫から大谷翔平まで対戦した打者ということですね。
山本昌もすごいけど山﨑もだいぶすごい。


続いて新浦投手からさらに遡っていきましょう。


第一次長嶋巨人を支えた左腕から「連敗記録保持者」と「中日の1番センター」へ

新浦壽夫は1968年ドラフト外で巨人に入団。
甲子園で大活躍し注目されたものの、在日韓国人で韓国籍であったために当時の規則ではドラフト指名対象ではなく、争奪戦に発展。その結果高校を中退して巨人が獲得したためにドラフト制度が変わるきっかけになった投手だそうです。
もうエピソードからして時代を感じます。
1968年といえばケネディ暗殺や3億円事件が起こった年です。少年ジャンプの創刊もこの年。
さっきまで山﨑武司の話してたのにもう激動の昭和の世界に突入しました


新浦の初登板は1971年(昭和46年)4月13日の中日戦。
初勝利は4月29日の阪神戦です。
1971年ともなってくると僕が知らない選手も増えてきます。

闇雲に探しても時間がかかるので、NPBのサイトを参考にいたします。

初出場の年まで書いてくれてるありがたさ

NPBのサイトでは、年度別で在籍選手の一覧が出てくるのでこちらを参考にすればこの時代の最もベテラン選手が簡単に見つかります。
めっちゃ楽じゃん、最初から使えばよかった。
画像にも名前が入っていますが、新浦が投げていた時は王貞治がまだバリバリの現役です。
ようやく王貞治の名前が出てきましたが、新浦壽夫も巨人の選手なので対戦はありません。


NPBの選手検索を見る限り、この時代の最も古い選手は阪神の権藤正利(1953年初出場)であることが分かりました。
28連敗というプロ野球記録を持つことで有名な人ですね。権藤権藤雨権藤は権藤博なので別人です。

とりあえず1971年の新浦が登板した阪神戦を見て権藤と対戦してるか見ていきましょう。


はい、一瞬で見つかりました。
今度はあっさり見つかりました。

1971年4月29日の新浦壽夫初勝利の試合の相手先発が権藤正利
どちらも先発で投球イニングを見る限り確実に対戦しています。
3番藤田平に4番遠井吾郎、どえらい時代ですね。
他にもこの試合は投げてませんが江夏豊もいます。

ものすごく簡単に見つけてしまいました。
さっき新聞記事検索までしたのに。

©ベースボールマガジン社 阪神時代の権藤正利、当時の監督と不仲で有名

というわけで権藤正利で遡っていこうかと思ったのですが…
権藤正利さん、投手です。
対戦の記録としては間違ってないのですが、なんかちょっと違う気がします。やはり対戦というからには投手対野手でないと。

ここは一応野手でも探してみましょう。
先ほどのNPBのサイトによると野手で最もベテランなのは中日の中利夫(1955年初出場)選手のようです。
中日の監督にもなった大選手ですね。残念ながら去年亡くなられました。

もう一度新浦の1971年の登板を見ていきましょう。
新浦自身がそこそこ投げてるのですぐ見つかりそうな気がします。


はい、見つかりました。

1971年6月1日の新浦壽夫2勝目の試合の相手1番打者が中利夫(当時の登録名は中暁生)でした。
他にも高木守道に谷沢健一とすごい選手がいますね、当たり前ですけど。

なんてあっさり。
初勝利と2勝目で見つかるなんて。
さっきは新聞記事検索までしたのに。

というわけで、新浦壽夫が対戦した野手で最も古い選手は中利夫さんでした。

©ベースボールマガジン社 俊足巧打の1番打者として活躍

新浦壽夫から権藤正利、中利夫の二人につながりました。

権藤正利は投手なので一旦置いておいて、中利夫で続けたいと思います。


中日の一番センターから「川上監督の懐刀」へ

中利夫選手は1955年に県内トップの進学校である前橋高校から中日ドラゴンズに入団。1960年に盗塁王、1967年に首位打者を獲得するなど中日の主軸として長く活躍しています。
1978年には中日監督に就任。初の生え抜き監督として注目されたようです。
2023年に亡くなられて、2024年3月17日のバンテリンドームのオープン戦で追悼試合が予定されています。
(1番センターとして長らく活躍したようですが、新聞表記だと中(中)というような表記になっていたんでしょうか?

ちなみに1955年は55年体制で自民党が誕生、TBSが開局し、広辞苑の初版が発行された年です。

中利夫の初打席は1955年4月12日、9回裏に本多逸郎の代打として出場、大田垣喜夫の前に凡退(wikiより)だそうです。
すみません勉強不足で本田逸郎選手も太田垣喜夫選手も存じ上げません。

この時代は知ってる選手となると金田、稲尾、小山、別所、杉下などの超有名選手になってきます。
野手であれば川上哲治あたりもまだギリギリ現役で、吉田義男小鶴誠なんかも現役です。
逆にそれ以外の選手よく知りません、前述の太田垣投手なんかはこの年13勝してるんですが本当に初めて知りました。

とりあえずまた、先ほどのNPBのサイトで検索をしてみます…

どうも1930年代から続けている選手のほとんどが野手で、その当時の投手はほぼ引退しているか野手に転向しているようです。

当時の投手は選手生命が短い上に、沢村栄治ように戦争の影響も少なからずあるのでしょうか?

この当時もっとも古い投手は無国籍で戦争に行かなかったスタルヒンなのですが、残念ながらこの当時はパリーグのトンボユニオンズに所属していて対戦がありません。

セリーグで唯一1930年代から続けているのが巨人の中尾碩志投手、杉下茂別所毅彦など1940年代からの投手であれば何人かいるようですが、とりあえず中尾投手との対戦を調べていきましょう。

1955年は中利夫のスタメンは3試合しかなく合計で19打席しか立っていないので対戦がなかったのですが、中が1番に定着した1956年の試合を見ていけばすぐに見つかりました。

1956年5月16日の試合で対戦しております。
中利夫は1番センターで先発。中尾投手は先発なので確実に対戦してますね。

こちらもあっさり見つかってしまいました。
古い記録の方が見つからないと思っていたのに、この時代になると完投も登板数も多いので投手から見ていけばすぐに見つかるんですね。
もう二度と使えないと思いますが、新たな発見でした。

現役時代の中尾碩志、出身校が同じで沢村2世と呼ばれたらしい

また巨人の左腕ですか…
スタートが大谷翔平なのでもう少しパリーグ寄りになるかと思ったんですが、まさかの中日⇒巨人⇒中日⇒巨人というループ。
出来れば次は中日以外の球団であることを願います。

中尾碩志投手からさらに遡っていきたいと思います。


川上監督の懐刀から「巨人軍創立メンバー」へ

中尾碩志は1939年に東京巨人軍に入団。1年目から39試合に登板し12勝を挙げノーヒットノーランも記録。
若いころはノーコン投手としても知られていて、ノーヒットノーラン時も四球を10個出すなど典型的な速球派ノーコン投手だったそうです。
引退後は川上監督の懐刀としてV9を支えたことでも有名で、巨人軍の負の歴史である湯口事件の中心人物の一人でもあります。

1939年ですから、当然1リーグ時代ですね。
時代的にはノモンハン事件とかポーランド侵攻とかのあたりです。
国民徴用令が施行された年でもあるので、もはや戦前ではなく戦時中と言ってもいい時期かもしれません。

NPBの歴史は1936年からですので、このあたりになってくると遡るも何もって感じはしてきますが、最古の選手との対戦を調べたいので1934年の大日本東京野球倶楽部(のち巨人)創立メンバーから探していきましょう。

また巨人ですが、これはもう仕方ありません。最初の球団が巨人ですから。
結局野球は巨人なんです。

それでは1934年の大日本東京野球倶楽部創立メンバーを見ていきましょう。

©ベースボールマガジン社 1935年のアメリカ遠征メンバー

メンバーは以下の19名(Wikipediaより)

投手:沢村栄治 青柴憲一 スタルヒン 畑福俊英
捕手:久慈次郎 倉信雄
内野手:永沢富士雄 津田四郎 三原修 江口行男 水原茂 苅田久徳
外野手:二出川延明 矢島粂安 中島治康 堀尾文人 新富卯三郎 山本栄一郎 夫馬勇

伝説の投手の沢村栄治に300勝投手スタルヒン、初代三冠王中島治康
三原監督や水原監督も初代メンバーなんですね。
二出川延明さんはのちに審判員になって「俺がルールブックだ」で有名になった人ですか。

このメンバーの中で、中尾投手と対戦したことがありそうなのは
セネタースに入団した内野手の苅田久徳選手と、阪急軍(現オリックス)に入団し大阪タイガース(現阪神)に移籍した外野手の堀尾文人選手。
イーグルスに移籍した畑福俊英と太陽ロビンスや大映ユニオンズに移籍したスタルヒンも対戦してそうですがピッチャーなので除外しましょう。

この当時は試合数も少ないのですぐに見つかりそうです…


やっぱりすぐ見つかりました。
セネタースの方は1939年5月21日、苅田久徳は1番打者、中尾は先発投手として出場しています。
相手先発は大投手野口二郎、巨人の方は川上哲治千葉茂なんかも出てますね。

©ベースボールマガジン社 苅田久徳選手、守備の名手で天才的な走塁センスもあったらしい

苅田久徳選手はNPB入団選手の第2号(1号は三原脩)
もともとは遊撃手でしたが、東京セネタース移籍時に二塁手に転向。
日本における近代野球の二塁守備は、苅田から始まる」と言われたほどの守備の名手として知られているらしいです。
セネタース⇒太陽軍⇒大和軍⇒川崎いすゞ(社会人野球)⇒東急フライヤーズ⇒毎日オリオンズ⇒近鉄パールス
と所属を変え、引退後は1952年から56年までパリーグ審判員。その後はトークの面白さから解説者としても人気になったそうです。
2001年に91歳で死去。プロ野球創設時の選手の最後の生き残りだったそうです。
調べてみるとかなり面白い人のようですが、さすがに書ききれません。


続いては堀尾文人選手。
1939年10月15日に対戦。堀尾文人は2番センター、中尾はやはり先発投手として出場しています。
相手先発はこちらも大投手の若林忠志、3番は伝説の二刀流選手景浦将ですか。
それにしてもこの試合、明らかに負け投手中尾なのになぜかそのあとを投げたスタルヒンに負けがついてます。この時代は記録の混乱がよくあったようですが、特に修正はされていないようです。

©時事通信 堀尾文人選手、日本初のスイッチヒッター

堀尾文人選手の本名はジェームズ・フミオ・ホリオ(藤子不二雄みたいな響き)、通称はジミー堀尾
両親は広島出身の日本人ですが、ハワイ生まれアメリカ国籍の日系人であり、NPBにおける外国人選手第一号(スタルヒンは無国籍だったので扱いは一応日本人)。
当初は日系人初のメジャーリーガーを目指していたらしいです。
ロサンゼルスで日系人のセミプロ球団に所属して、日本の大学野球部との対戦では圧勝。その後は全日本チーム結成の話を聞き監督に手紙を送って全日本に合流し、MLB選抜チームとの対戦で活躍してメジャー契約を勝ち取ろうとしたそうですが、メジャー契約を勝ち取るには至らず
その後もAAのパシフィック・コーストリーグで活躍するもやはりメジャー行きはならず、創設間もない阪急軍に誘われ1936年に阪急軍に入団。
阪急では三拍子そろった外野手として活躍。3打席連続三塁打というレアな記録も持ち、長打力と華麗な守備で活躍したそうです。
その後、ライバル球団の阪神に移籍したことでもともとあまりなかった人気はさらになくなり、罵声を浴びせられることもあったとか。
1941年に日米関係の悪化によりハワイに帰国。真珠湾攻撃の日は自宅の上空を日本海軍の飛行機が飛んだそうです。
その後は日本の地を踏むことなく1949年に亡くなっています。

なんですか、この人は。
今まで知らなかったけどすごい人じゃないですか。
NPB初の外国籍選手でメジャーリーグ目指してたなんて…
大昔の選手なのにWikipedia充実しすぎだし…

大谷翔平から始まってとんでもない選手に行きつきました。
いや誰がスタートでも行きつくんですけど
それにしたってこんな面白い選手たちに出会えるなんて思ってもみませんでした。

改めて野球の歴史の深さを感じました。

ただまだこれで終わりではありません。
先ほど一旦置いていた権藤正利が残っています。

一度権藤正利まで時代を進めて、改めて遡っていきましょう。


連敗記録保持者から「初代ミスタータイガース」へ

権藤正利は1953年に大洋松竹ロビンス(現DeNA)に入団。ドロップを武器に15勝を挙げ新人王を獲得。
しかし、次第に勝てなくなり、1955年7月9日から1957年6月2日までなんとプロ野球記録の28連敗。7月7日に完封勝利で連敗を止めた際にはチームメイトから胴上げをされたそうです。
阪神時代は監督の金田正泰と確執が生じ、ファン感謝デーで監督を殴ってそのまま引退。
引退後は野球界には関わっていないようです。

何とも不運な投手です。
通算防御率2.78で117勝154敗というのも負けすぎですしね。

権藤正利投手の初登板は1953年3月29日、記録見る限り1アウトも取れず連続四球でサヨナラ負けしてます。
初勝利はその3日後の4月1日の広島戦、9回1失点で完投勝ちしています。

1953年の選手を調べると、もっとも古い選手は阪神の藤村富美男氏になるようです。
この年、藤村富美男さんは全試合に出場しているようなので阪神戦を見ていけばすぐに対戦が見つかるでしょう。


はい、ありました。
1953年4月15日の大阪タイガースと洋松ロビンスの一戦で対戦しております。

©文芸春秋 物干し竿と呼ばれる長いバットで有名

この時もう37歳なんですけど、打棒は健在でこの年ホームランと打点の2冠王も獲得しています。
さすが初代ミスタータイガース

あっさり1936年まで遡ってしまいました。
藤村富美男さんは42歳までプレーイングマネジャーとして現役を続け、沢村栄治の時代から長嶋茂雄のルーキーイヤーまで現役を続けた偉人です。

もう遡る選手いないと思いますが、NPBの歴史は一応1934年から始まってますので、一応まだ見ていきましょう。


初代ミスタータイガースから「本当の意味での初めてのプロ野球選手」へ

藤村富美男は1936年に大阪タイガースに入団。
大正中学校(現呉港高等学校)時代に甲子園で大活躍し、甲子園の申し子と呼ばれたそうです。
卒業後に大阪タイガースの熱心な誘いを受けて入団。最初の公式戦の開幕投手として登板し、完封勝利。
戦後は球界屈指の強打者として大活躍しました。
長嶋茂雄があこがれたプロ野球選手として初代ミスタープロ野球と呼ぶ声もあるとか。

再び1936年まで遡りました。
本来はこれ以上遡れないはずですが、先ほどの大日本東京野球倶楽部創立メンバーの19人の中にちょっと気になる経歴の選手がいました。
それがこの方。

©朝日新聞社

山本栄一郎選手。

恥ずかしながら僕はこの人の名前を全く知らなかったんですが、三原脩よりも沢村栄治よりも、はるかに「日本初のプロ野球選手」と呼ぶにふさわしい方でした。

この山本栄一郎選手、日本プロ野球機構および日本野球連盟より前に存在した日本初のプロ野球チームにして日本初のプロスポーツチーム。
日本運動協会の初代主将として活躍された方だそうです。

©ベースボールマガジン社 1923年の日本運動協会

詳しくは以下の記事を参照してください。

ここに一枚の写真がある。挑むようなまなざしを向けるユニホーム姿の選手たち。後ろの客席に和服や軍服姿の観客が見えるのが、興味深い。これは大正時代、日本初のプロ野球チーム「日本運動協会」を撮影したものだ。
 「芝浦協会」とも呼ばれるこの球団ができたのは、今からちょうど百年前の一九二〇(大正九)年秋。野球殿堂博物館の資料によると、早稲田大学野球部OBの河野安通志(あつし)、押川清、橋戸信らが発起人となり、設立された。
 明治時代に米国から伝わった野球はこの頃、すでに学生を中心に全国で大流行していた。だが、河野らは米国ではプロである大リーグが繁栄していることを指摘。「日本でも職業野球を作らないと、将来は衰退してしまう」と野球のビジネス化を志した。
 帝大出身の初任給が三十五円の時代に月給十五円で選手を募った。島根商の山本栄一郎投手ら十四名を選んだまではよかったが、ここでつまずいた。対戦相手が見つからない。野球を金もうけの道具にするとは何事だと猛反発を受けた。「野球の芸人」とやゆされたこともあった。
 それでも彼らはあきらめなかった。合宿や地方の球団と実戦を積み、チームを強化。二二年九月九日。ついに早大と芝浦球場で本拠地初試合にこぎつけた。結果は延長戦の末の0−1で惜敗するも、「あの早大と好勝負をした」と話題に。その後はさまざまなチームと対戦を開始した。
 しかし、運命は残酷だった。二三年九月一日。関東大震災に見舞われた。マグニチュード7・9。死者・行方不明者十万人という大災害に芝浦球場は使用できなくなった。元々、赤字経営だった球団は二四年一月、解散を宣言。こうして日本初のプロ球団は短い歴史に幕を閉じた。
 野球殿堂博物館・関口貴広学芸員はこう評価する。
 「彼らの解散から十年後の三四年に巨人の前身の大日本東京野球倶楽部ができ、その二年後の三六年に今のプロ野球である日本職業野球連盟ができました。日本運動協会の単体での球団事業がうまくいかなかった反省を生かし、日本経済界を巻き込んで七球団によるリーグを作ることができたのは、彼らが先行したからではないでしょうか」
 ちなみに、日本運動協会は解散後、関西の阪神急行電鉄(現阪急阪神ホールディングス)に引き取られ、「宝塚運動協会」と名を変えたが、やはり対戦相手に苦労し、二九年に解散している。
 それでも、宝塚運動協会は「阪急」と名を変えて再出発した。日本運動協会の監督だった押川清は、後に中日ドラゴンズの前身である名古屋軍の創設に関わった。彼らが今のプロ野球の礎になったというのは言い過ぎだろうか。

2020年9月25日 東京新聞

1934年の巨人軍結成の14年も前に日本初のプロ野球チームが存在しました。
記事の中にもしっかりと山本栄一郎の名前が書かれています。
このチームがあることはなんとなく知ってましたが…所属選手がその後、日本野球連盟に所属していたことは全く知りませんでした。

関東大震災の影響で活動が停止し、宝塚運動協会と名前を変えるも1929年に解散。
色んな歴史的な出来事を見てきましたが、とうとう関東大震災まで出てきましたか。

宝塚運動協会の運営が阪急ということは、巨人より先に阪急が球団を持っていたんですね。
さっき「野球は巨人」などと書いてしまいましたが、違いましたね。

ちなみに巨人は2番目のチームというわけでもなく、1921年から1923年にかけて天勝野球団というプロ野球チームもあったそうです。
奇術師・松旭斎天勝の夫で、「天勝一座」の支配人で野呂辰之助が作り上げ、日本運動協会とも対戦しているそうですが、1924年に一座のアメリカ巡業の前に解散しているそうです。


さらにこの日本運動協会に所属し、のちにNPB入りした選手は山本栄一郎氏だけではありません。
セネタースとイーグルスに所属した大貫賢氏も所属していました。
芝浦の日本運動協会時代は山本栄一郎の控えでしたが、宝塚運動協会では怪我で山本栄一郎が退団したため大貫賢がエースとして活躍していたそうです。
ただ大貫賢氏は1923年に参加ということなので、歴史をさかのぼるのであれば山本栄一郎氏の方が適切です。

©朝日新聞出版 この中の誰かが大貫氏なのでしょうか?

大貫氏の経歴に関してはプロ野球審判員名簿に詳しく載っています。
Wikipediaより全然詳しく載っております。

日本野球の黎明期からプレーし、日本運動協会、宝塚運動協会ではエースとして活躍した。職業野球開始の1936年に東京セネタースに入団し初代主将を務め、38年はイーグルスに移籍した。戦後の47年に国民リーグで審判員を務め、50年にパ・リーグ入局。若い頃に京都のマキノ・プロで「大貫憲」の芸名で俳優活動もしていたことから、審判帽子の形にもこだわりを持っていたという。

俳優やってたから帽子の形にもこだわりを持っていた、などというこぼれ話もしっかり書いてくれるのが審判員名簿。
国民リーグでの審判歴も書いていますが、この国民リーグは1947年に誕生したもう一つのプロ野球リーグで、1年で解散したものの、のちの2リーグ制の礎になったといわれています。
京都のマキノ・プロというのは日本初の映画監督・牧野省三の作ったプロダクションですね。

大貫さんは日本運動協会および宝塚運動協会、日本野球連盟および日本野球機構、国民リーグと3つのプロ野球組織に所属してたんですね…
流石に東京ドラゴンズ(グローバルリーグ)には絡んでないみたいですが。
マキノ・プロも含めて歴史の生き証人みたいな人ですね。とっくに亡くなってますけど。


前置きが長くなりました。
藤村富美男の話でしたね。

山本栄一郎氏の方が先に日本運動協会に入団しているので、山本栄一郎氏だけでもいいかと思ったのですが、せっかくなので今回は二人との対戦を見ていきましょう。
山本栄一郎は「自称プロ野球初の球団」こと東京巨人軍、
大貫貫は東京セネタースに所属していましたので、その2球団との対戦を見ていきましょう。


ありました。
2人とも日本野球連盟に入ったときは野手なのですが、藤村富美男が投手として登板していたためちゃんと対戦しております。

山本栄一郎は1936年11月23日の巨人戦
大貫貫は1936年の5月4日のセネタース戦で対戦しています。

見事に遡ることができました。

出来ればここからさらにアマチュア野球まで手を伸ばしアメリカで日本初のプロ野球選手になった三神吾朗日本に野球を伝えた平岡凞まで遡れればうれしかったのですが、さすがにそこまでになると国会図書館で当時の新聞や雑誌「野球界」をあさったとしても不可能だと思うのでまたの機会にしておきましょう。

第一回早慶戦ぐらいまでなら新聞で遡れるでしょうか?
本当に時間があったらやってみたいですね…


大谷翔平から5人で日本運動協会の選手にまで遡れました

はい、というわけで本来の目的である「大谷翔平の対戦選手を遡って行くと、どれぐらいで野球創生期の選手まで行き着くのか?」という問いの答えを出すことができました。

・パターンA
大谷翔平VS.山﨑武司(2013年6月1日 札幌ドーム)
山﨑武司VS.新浦壽夫(1992年9月9日 ナゴヤ球場)
新浦壽夫VS.中利夫(1971年6月1日 後楽園球場)
中利夫VS.中尾碩志(1956年5月16日 中日球場)
中尾碩志VS.苅田久徳(1939年5月21日 阪神甲子園球場)
    VS.堀尾文人(1939年10月15日 後楽園球場)
※苅田久徳と堀尾文人はともに1934年の大日本東京野球倶楽部の創立メンバー

・パターンB
大谷翔平VS.山﨑武司(2013年6月1日 札幌ドーム)
山﨑武司VS.新浦壽夫(1992年9月9日 ナゴヤ球場)
新浦壽夫VS.権藤正利(1971年4月29日 阪神甲子園球場)
権藤正利VS.藤村富美男(1953年4月15日 阪神甲子園球場)
藤村富美男VS.大貫賢(1936年5月4日 阪神甲子園球場)
     VS山本栄一郎(1936年11月23日 阪神甲子園球場)
※山本栄一郎と大貫賢はともに日本運動協会に参加。山本栄一郎は1921年の結成メンバー

5人で大日本東京野球倶楽部の創立メンバーにも日本運動協会の創立メンバーにも遡ることができました。
意外と少なかったですね。
それだけ長くやってる選手が多かったってことですか。
山﨑武司も新浦壽夫も40超えても現役でしたからね。

いやー、それにしてもメンバーが渋い。
完全な偶然ですけど、金田正一とか鉄人衣笠とか王貞治とか出てこないんですね(スタメンに名前は出てたけど)。
山﨑武司から新浦壽夫に行っちゃいましたから。
運よく名前は知っているけどよく知らない選手ばかりが出てきたことで、調べる楽しさも味わうことができました。


日本運動協会から数えれば100年以上の歴史があるプロ野球の世界。
気まぐれでちょっと調べてみただけですが、様々な発見と驚きがありました。
野球の合間に俳優が挟まってる大貫賢、ハワイでメジャーリーガーを目指したジミー堀尾、連敗記録の権藤正利、ノミの心臓と馬鹿にされた新浦壽夫
色んな選手の記録が現代のプロ野球につながってるんですね。

時には過去を振り返ることも大切ですね。

次は2024年の新外国人から初代外国人であるジミー堀尾まで何人で遡れるかをやってみたいと思います。
在籍期間が短い外国人なら相当数出てくるはずです。

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。



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