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大学を卒業してしまう

まだまだやらなきゃいけないことはあるけど、若干落ち着いたところで、話題を探したら、3月21日に卒業することに気づいた。

大学に入ったきっかけなど、些細なものではあるが、実に良い時間を送れたと思う。それも、ともに学んでくれた仲間や、私の好奇心に応えてくれた先生方のおかげである。簡単ではあるものの、大学生という特権的な立場に身を置いた期間の備忘録をのこしておきたい。

大学1年

実は、1年のときはこれといった特徴的な出来事はなかったんですよね~。
高校と同じような態度で講義に出席して、バイトして、冬には免許取って。あんまり、日常に面白味を感じることもなく、無難に過ごしていました~。

人生史上一番長い春休みも、なんとなくゴロゴロして過ごしてました。あまりにも暇すぎて、Twitter見てたら、内田良先生という、当時金髪の大学教員を見つけました。内田先生は、教員の労働環境の改善に取り組んでおり、「そういえば」と、自分の記憶から中学校の先生を思い出して、先生って大変な職業なんだなぁ、と思い、内田先生のお話を聞いてみたいと思うようになりました。


大学2年

1年次の内田先生のお話はまだ続きます。
6月くらいに、東京で内田先生が登壇するイベントがあることを知りました。

関東ということで、場所も近いため、即申し込みました。ここで、この講演会を主催しているTeacher Aideという学生団体を初めて知ります。このころ、共同代表のじんぺーさんが、showroomでライブ配信をし始めた時期で、行く前に少し知っておこうと思って、ちょっと覗いてました。

すると、じんぺーさんはニュージーランドでのワーホリ経験があることを知りました。私は2年次にニュージーランドに留学することが決まっていたので、その情報収集も兼ねて、じんぺーさんとつながりを作っておくのは良いと思って、けっこうわくわくしながら当日を待ち望んでいました。

当日、財布を忘れました。
イベントには参加できるけど、懇親会は諦めようかな、と思っていたら、じんぺーさんがお金を貸してくれました(翌日LINE Payインストールして返しました)。ここで帰ってたら、また違う道を歩んでいたかもしれません。

そして、ほどなくして、ニュージーランドへと旅立ちます。私はハミルトンというところで、ホームステイしてました。語学などの話は割愛しますが、とにかく、自然にあふれて、全ての人の生活が保証されている国だと感じました。
全ての人の生活が保証されている、とはどういうことか。終バスが5時過ぎです。店の閉まりもほとんどの場所は日本のように10時過ぎまで開いている店はほとんどありません。というか、10時になったら、ホストマザーに寝ろと言われる始末。笑
大学の図書館が日曜日に開いていないのはさすがに困りましたが、何にも追われない、人らしい生活をさせてもらったと思います。

12月1日は、ニュージーランドで先生をしている、やんしん先生とお話させていただきました。初めてニュージーランドの電車に乗って、日本からニュージーランドに移住したやんしんさんのお話を聞く前に、日本語学校の運動会を見学させていただいて。帰りのバスで死ぬほど眠るくらいアグレッシブな1日を過ごしました。

大学3年生

ニュージーランドから帰ってきて、この流れに乗ってもう少し留学しておきたいと思ってカナダに行こうと思ったら、コロナでかないませんでした。
ただ、あんまり人と話すこともせず、このころはひたすら本を読んでいました。ニュージーランドに行ってる間に、漠然と大学院に行きたいと思うようになり、社会学や教育社会学周辺をうろちょろしてました。

思えば、このころから、教授と話し始めたような気がします。オンラインだから、定期的にオフィスアワーを開催してくれたので、予定に組み込んで遊びに行ってました。
このころに、merry atticでアルバイトを始めて、かなり長いこと自らの研究関心はどこにあるのか、を自己分析してたと思います。

秋冬では、Teach For Japanでインターンをしてました。学校教育の中で、子どもたちにどうキャリア意識を持たせられるのか、といったことを考えながら、イベントをデザインしていました。

TFJのインターンは、超おすすめです。みなさんもぜひ

そして、この時期にlightfulにジョインしました。

大学4年

大学院目指して勉強してました~。
教育学との出会いがこの年の全てです。
残りの割合は数%しかないですが、それは全て未来次第。

そして、この年は様々な縁を感じる年でもありました。
言葉にできないほど愛おしい時間です。

サポートしてくれたらうれしいです