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心を研ぐ

人にはそれぞれの精神安定剤みたいなものが一つか二つはあるものだと思う。

それは自分が育ってきた環境や境遇のなかで培われた、言うなれば処世術みたいなものだろうか。

それが僕の場合は”研ぐ”という行為だ。

幼いころから姉の化粧ポーチを開けては爪研ぎセットを取り出し、爪の表面をよく研いでいた。

何が面白くてそんなことを熱心にやっていたのか今では思い出せないが

磨くたびに自分の指先を見ては近所の駐車場に停められていた大切に扱われているであろう車のボンネットを思い出した。

それでも数日で光沢が消えていく。

それからしばらくたってふと思い出したようにまた爪を磨く。

さすがに思春期の男がそんなことをしていると気持ち悪がられるだろうと高校に入るころにはやめていたが、上京して飲食店で働きだすとまた”研ぐ”という行為に没入するようになった。

それは包丁だ。

包丁を研いでいると、自然と誰も話しかけてこない。その行為にだけ集中できるのだ。

一人になりたいときや、何も考えたくないときにはちょうどいい。

砥石と金属のこすれる音が一定のリズムで響くことで没入しやすくリラックス効果があるのではないか

なによりも刃先が、砥石によって無駄なものが削ぎ落されていく感覚がそれだけで意味がある行為なのだからなおさらいい。

意味のあることをし続けることはとても苦痛だが、意味があるかないかわからないことをし続けるのはとても不安だ。

だから包丁研ぎはちょうどいい。

思えば子供のころに爪をピカピカに研いでいたのももしかすると安息が欲しかったのかもしれない。

僕は昔から落ち着きがないとよく言われていた。

落ち着きがないことで恥ずかしい思いを何度となくしてしまったことは今では思い出に過ぎないが、毎日のように心が穏やかでなかったのだろう。

子供の頃の僕はくすんだ爪からピカピカの光沢のある爪へと変化させるという行為で安息を求めたのかもしれない。

それが今でもずっと続いているのだからやはり僕にとって”研ぐ”という行為は生きる上での処世術なのだろう。



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