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「ボストン・ポップス ジョン・ウィリアムズ トリビュート 10/7(昼)」と「京都音楽博覧会2023 2日目」〜角野隼斗氏の新たな表現性への考察〜

※12/30 末尾に<追記2>としてXの埋め込み
※11/29 <京都音楽博覧会>末尾にリンクを追加、末尾に<追記1>を記載
※11/3 別記「手拍子」に補足を追加。

<はじめに>
この2つの公演はわずか中1日で行われましたが、この間の角野隼斗氏の変化は余りにも大きく、最初は一体に何が起きたのかわからないほど。。。
しかも、コンディション状の問題や楽曲楽曲の類ではなく、明らかに不可逆的な変化、音楽・表現性そのものの変化だったことが感じられました。
noteの内容としては各催しの角野氏以外の感想も併せて記載していきますが、最後にその変化の経緯や要因となる可能性をある程度想定した内容を記載します。
ただし、その「想定」はあくまでも可能性の一つであり正誤を問うものではありません。
正誤を問わないのに(確証もないのに)なぜそれを記述するかというと、それらを想定する事が表現の意図を読み取る試みとなり、結果として鑑賞の輪郭があらわれてくるからです。
ここで正誤にこだわりすぎるとつまらない学術論文の様になりますし、論拠もなく言い切れば無責任な発言でしかなく、いずれも芸術への対峙になりません。

この様な前置をくどく書く理由は、私が「芸術の聖域を侵さない」という事に拘っている(何度も他のnoteで宣言している)からで、「これらの表現はそう考えると納得できる」という個人的視点によるもの、「表現者がそう考えて行動した結果とは異なる」という事をご承知おきください。
ただしその一方で、表現者が必ずしも意図したことが芸術表現ではないということ、受容者の誤解も含めて結果として現れる表現こそが芸術であることも併せて書かせて頂きます。

※「ボストンポップス〜」「角野氏の新たな表現性への考察」「別記」については、角野氏ファンの方にとって一部不快と思われる内容を含みますのでご注意ください(飛ばして頂くかご承知の方のみお読みください)。



コンサート前

<ボストンポップス>
事前にボストン・ポップスHPで告知されていた曲を予習で聴いていましたが、多くが知っている曲ばかり!
今回、私がすごく嬉しかったのは「オリンピックファンファーレとテーマ」が入っていたこと。
ついつい懐かしくなって検索してみると、そのものずばりはオリンピックの公式サイトからの登録を必要としたものの、YouTubeでは開会式の映像に音楽を当て込んだものがありました。

この放送をテレビで見ていた時、子供心についにSF的未来がやってきた!と驚いたものです。
いわゆる「ロケットマン」といわれているリュックの様なジェット噴射機を背負って人が空中を飛ぶパフォーマンスを実際の人間で初めてみたからです。
全く予想もしない所から人が飛んでくるのがどれほどの驚きだったか!
(1分25秒位からロケットマン)
あの感動を生で味わえる!と、とても楽しみでした。

コンサートの演奏曲の中にはいくつか映画を観ていない曲もあったものの、ストーリーは大体知っているものが多く、曲はその映画のイメージ通り!
ところが、「サブリナのテーマ」だけが恋愛コメディ路線だというのに冒頭ピアノソロが少々SFっぽいというか妙にミステリアスなのです。
唯一、これだけは映画を知らないと曲がわかならない…と観てみたら。。。
なるほど、この冒頭のピアノの意味は理解できました。
本人の意思とは別に恋心が動いていく不思議さとか、本人自体も嘘か真かわからなくなる感覚をミステリアスに表現していると感じられ、とても納得できるました。
が、空気が読めない主人公は少々不敬で、ご都合主義の展開。本家サブリナ=オードリー・ヘップバーンのような特別な美しさも感じられず、いろいろとツッコミどころが満載でした。苦笑
もしステリアスな音楽の美しさがなかったら、もっとご都合主義に感じていたかもしれません。

事前にはジョン・ウィリアムス氏のインタビュー等も公開されていましたが、なかでもキース・ロックハートマエストロのインタビューはとても興味深く、鑑賞の参考になりました。


<京都音学博覧会2023 >
京都音楽博覧会(以下音博)へ角野氏が出演されるという情報に同時掲載されていた「Tigran Hamasyan」の文字を発見し、これはもう…行くしかない、と即決!笑
ハマシアンの曲は角野氏がかてぃんラボで紹介された直後から大好きで聴いていましたが、今回は最新アルバムの“StandArt”名義なので、ソロではなく何かしらのユニットでご参加だろうと予測していました。

10/4には主催者「くるり」のニューアルバムのリリース情報が入ってきたのですが、この作品「感覚は道標」を聴いてみたら「ええ??デビュー時の音のイメージに近い!」と。
調べてみたら、岸田繁氏、佐藤征史氏に、今回は森信行氏というオリジナルメンバーで制作されたとのこと。
そうなると、2021年角野氏がMCをされたNHKラジオ「RadioCrossOver」に岸田繁氏がゲスト出演されたことの意味がものすごく大きく感じられます。
当時の記憶だけで書いているので誤っているかもしれないのですが、逆に言えばその部分だけが強く印象に残っている…ということでご了承ください。

角野氏「くるりのスローな曲のグルーヴが凄く良い、かっこいい!どうやって出せるのかわからない」
岸田氏「くるりはドラムが変わっているし人によってグルーヴが違うから」
「いつの頃?」
角野氏「初期の頃」
みたいな内容。
そのやりとりの直後の岸田氏は、ちょっと口籠っているような、正面から角野氏の質問に答えていないような感じがしました。
それまでのやりとりがとてもストレートな応酬だったので違和感があり、「そんなのわかっているけど、できない(森氏がいない)じゃん!」みたいな、モヤモヤを誤魔化す様に話題を変えられた感じがしたからです。

くるりのことは全く知らないのですが、音楽プロデューサーの故佐久間正英氏の最晩年に、それまでのプロデュース人生の中ではくるりとのレコーディングを特別だったと度々話題にされてた為、氏が関わられた頃の音源だけを10年前にいくつか聴いていました。
なので、ラジオでの角野氏の発言に「そうそうそうそう!!!!!」と、一人でうなずき、岸田氏のその微妙なニュアンスがずっと気になっていたのです。
で、アルバムを聴いた翌日、旧アカウント(サークル使用)で下記のような投稿をしました。

昨晩「感覚は道標」を聴いたら故佐久間正英氏の事が思い出されて泣きそうに。くるりの事は余り知らないのですが、感覚は古い新しいを超えてずっと繋がっている…と。9日の #音博 では2013年以来10年ぶりにくるりのライブを観る!(↓アルバム名に関わるだろう佐久間氏の言葉)
※リンク補足:私が10年前に観た佐久間氏とくるりが出演されたライブ概要
https://www.club-quattro.com/shibuya/schedule/detail.php?id=2723

P3「『感覚は道標』って(中略)自分の感覚を信じてください」ということかもしれないですね。あるいは、(中略)みんなが普段信じている情報とか、(中略)バイアスがかかっているわけだから、それを簡単に信じ込んではいけないっていうか。」
※リンク補足:『感覚は道標』に関するくるりのインタビュー
https://realsound.jp/2023/10/post-1452360.html

サークルでの投稿のため埋め込みではなく引用 10/5

このライブのちょうど十年後の今、オリジナルメンバーでくるりのバンド音楽を聴くけること、しかもそれがリアルな今の音楽シーンで十分に意味を持っていることがとても嬉しかった!
私は佐久間氏の最晩年しか知りませんが、毎日Twitterで更新されていた「おやすみ音楽」を聴いき、時にはシニカルにでもユーモアを忘れず、どなたにもフラットな姿勢で慈愛のあるコメントをされる氏のTwitterが大好きでだったのです。

このnoteを書いている最中も、くるりに関しての情報は新しく出ていているのですが「くるりの映画」に関する佐渡監督へのインタビュー日刊スポーツのweb記事「「くるりのえいが」佐渡岳利監督「何で、上質な音楽を作っていると感じるのか僕も知りたかった」のP1後半では、下記が記されていました。
佐藤氏「4、5年前から、森さんがいた当時から作っていたような曲をレコーディングする機会が増えてきた。いろいろ巡って、そういうもんが、いいなと思える時しか出来ないことやと思う。」と。
たぶん…2021年末(ラジオ収録当時)の段階において、岸田氏にとっては森氏のドラムが「いいな」と思える状況にあったようにも感じます。
角野氏の2021年の予定はすでに決まっていのかもしれませんし、それが原因だとは思わないのですが、去年でも来年でもない今年のご出演にはご縁を感じてしまいます。


ボストン・ポップス ジョン・ウィリアムズ トリビュート 10/7(昼)


ここからはようやく東京国際フォーラムホーAで行われたコンサートの感想です。
当日の演奏曲目はボストン・ポップスサイト内の「Schedule & Ticket」に掲載されています。

●スーパーマン・マーチ
今日のコンサートが始まる!!という高揚感に完全に持っていかれたました。
ピッタリ合っているのに躍動感とドライブ感があって、ホーンもすっごくカッコいい〜〜!!音のメジャー感があるというか、まさにハリウッド!みたいな。
一曲目から大興奮で思いっきり拍手してしまったので、なんと曲名が書いてあるプログラム&チラシを下に落としてしまいました。
段差が大きい2階の遠方席、下に手を伸ばしても届くはずものなく…初っ端から大失敗でした。
まあ、それ位大興奮だったという訳です。笑

●『ジョーズ』のテーマ
音源では冒頭が弦だけの音に聴こえていたのですが、ステージの一番後ろに置かれてピアノの音が微かではあるものの聴こえてきました。
ハープの音もとても良く聴こえ、これは明らかにPAが入っているだろうと。(マイクはステージにあっても、録音の為のものか会場でPAが使われているかは実際に音を聴いてみないと判断ができないので、聴いてからの判断)
そのバランスがとても好みだったので、今日のコンサートには期待大!と思って楽しみでした。
私は適切にPAを用いることには大賛成なので。(後に問題が生じてくるのですが…)
演奏は、ズンズン・ズンズンとジョーズが進んでいくコントラバスが不気味で超クール!
ですが、それだけではない一曲としての音楽的展開も感じられて、改めてウィリアムズ氏はすごいな…とも。

●『タワーリング・インフェルノ』メイン・タイトル
映画は観ていないのですが、冒頭がETとオリンピックテーマが混ざった様な曲…と密かに思っていました。笑
実際に聴くと、ティンパニーやスネアドラムにシロフォン(たぶん)等のパーカッションが効果的に使われています。
ですが、変にドラマティックにならない緊張感が続き、予習で聴いていた音源とは印象が違いました。
コンサート後に確認したら、事前に聴いていたのはサントラ版ではないボストンポップスとしてのコンサートの演奏。改めてYouTubeの映画版と聴き比べると…今回の演奏は断然映画に近い!
小さな火災から段々と危険が迫ってくるような…そういう緊張感です。
曲として独立している以上は必ずしも映画音楽時の解釈に縛られる必要はないと思いますが、今回は映像とともに行われるコンサートということで、オリジナル解釈に近かったのかもしれません。

●『未知との遭遇』より”未知との遭遇”
冒頭にウィリアムズ氏ご本人による「交信シグナルの音はなぜ5音なのか」というお話がとても興味深いものでした。
ウィリアムズ氏はメロディーとなる7音を希望されたのに対して、スピルバーグ監督はメロディと信号の間をイメージされていたようで、5音がいっすと主張されたようです。
たしかに、パルスとメロディのまさに中間的な記号性を実現していて、映画冒頭の意味不明な「不気味な音」と、宇宙人との交流時に感じられる「音楽」とが全く同じであることこそが、この映画の核だと思われるからです。
で、演奏なのですが…実はほとんど記憶がありません。苦笑
というのも、流れていた映像のイメージと音楽とが完全に一致しており、「未知との遭遇」という映画を1本観たかのような感動と充実感を味わってしまったからです。
もう、音楽がどうこうという次元ではなかったのです。本当に素晴らしいかった!!!!
で、改めてロックハートマエストロのインタビューを思い出し…もしかして、スターウォーズだけでなく「未知との遭遇」もロックハート氏が編集(原案)をされたのでは?と思ったりしました。
とにかく、映像(映画のダイジェスト)と音楽の一体感が過去に経験したことがないほど表現として結実していて、最初の不安なドキドキ覚から宇宙人と心を通わせる驚きと喜びまで…音楽だけや映像だけとは異なる大きな感動でした。

●『サブリナ』のテーマ/『E.T.』より”Over the Moon”
『サブリナ』のテーマま、予習時どの様に演奏されるのか期待していましたが、角野氏はミステリアスな雰囲気を持たせず、とても可愛らしく演奏されていました。
また、サントラで使用されている曲はヴァイオリンがメインなのに対し、この日はピアノがメインになる編曲が施されていました。(プログラムにも記載はない)
で、ここからが問題なのですが…
角野氏のピアノの音がマイクに入りすぎて、本当に興醒めでしかなかったのです。
補助のためのPAではなくて、ピアノの音だけを大きく聴かせる為だけにボリューム調整された音。
視覚では中央に置かれているピアノに意識しているのに対し、またオーケストラの音もステージから響いてくるのに対して、ウィリアムズ氏のインタビューや映画のワンシーンと同じステージ脇のスピーカーからピアノが大音量で聴こえてくるので、知覚として生理的な違和感も発生します。
しかも、ピアノの音を拾っていたマイクは小さいもピンマイクのようなもので、ピアノ内部に設置されていました(モノキュラーで確認できたのは2つ)。
ピアノから広がる響きまでも全てマイクで集音する音響設計だとは思えないのです。
私の憶測でしかありませんが、ピアノの集音に小さいマイクを用いたということは、繊細な打鍵直後の音だけをマイクで拾って会場に響かせる音は生音を生かす音響設計だったのではないでしょうか。
そう思えるほどに、オケのピアノやハープはPAを通したと思われながらも繊細で美しい音が聴こえてきます。
なんというか、東京オリンピック開会式みたいな、現場を無視してでチャチャを入れた方の存在を勝手に感じてしまい悲しくなりました。
実は販売されていたプログラムも、冒頭の文章は直訳では?と思われる程に日本語が酷く、それ以外に読む箇所はほとんどありません。
直前に行われていたソリストのボストン公演の写真を入れておけば売れるだろう…みたいな酷い出来だったこともあり、「ピアノの音を大きくしておけばファンは満足するだろう」みたいなことを想像してしまったのですよね。
これはも…本当に偏見とういか、私が勝手に想像しているだけですが、昨年のPromsもそういう酷い対応が感じられたので、まあ…日本の広告代理店が絡むと有りがち、みたいな。。。
まあ、自分の不満を偏見で語っているに過ぎませんので、戯言だと思ってください。
ということで、角野氏の演奏を聴きに行ったのですがピアノに関する感想はほとんどありません。

●『ハリー・ポッターと賢者の石』より”ハリーの不思議な世界”
ピアノが入らない曲にホッとする…という状況。。。苦笑
音楽が始まると摩訶不思議な感じと可愛らしさと美しさが混在するとても素敵な演奏に満たされました。
ヴァイオリンの空間を広げていく感覚と小動物が飛び出てくる様なフルートとか、あらゆるものが絶妙なバランス。
さまざまな音楽要素、短調や長調や優しさと逞しさも含めて全てが何の違和感もなくとても楽しめました。

●『インディ・ジョーンズ』 より”レイダース・マーチ”
冒頭のトランペットからものすごくカッコよかったのですが、実は遠くで鳴り響いているように感じられました。
ところが、演奏が進むにつれてその後進がズンズン目の前にやってくるではないですか!!!
すご〜〜〜〜い!!!!
モノキュラーで確認しましたが冒頭でミュート器が使われている訳でもなく、完全に奏者の音量コントロールでした。
しかも、強弱の問題ではなく奥と手前という様な立体的・時間的な表現を感じたのです。素晴らしすぎる!
管楽器の華やかな音色ともに、大団円で前半が終了しました!

●ジョージ・ガーシュウィン:ピアノ協奏曲より第3楽章
休憩が入ったので、マイクのセッティングを変える可能性やマイクを通さない可能性に期待していたものの…残念ながらセッティングはそのまま。
角野氏のピアノだけが別のスタジオで演奏しているかのような、録音音源を合成しているような、なんともまあ…表現しようもない残念さ。
繊細な表現がピアノの聴きどころだった「サブリナ〜」や「ET」とは違い、「in F」第3楽章にピンマイクで拾った音をスピーカーからガンガンに流されたら…アンサンブルなんて無い様なモノです。
が、それだけではない疑問も。。。
このnoteの感想が書くのが極端に遅れた理由は、実はそこにあります。
一つ目は、秋田で感じた様な角野氏の情熱、パッションみたいなものが全く感じられなかったこと。
二つ目は、オーケストラの方もトランペットはなぜかミュート器を使う部分があったほど。
第2楽章ならわかりますが、第3楽章でなぜ????と。
この曲の構成はオケとピアノのパートがくっきり分かれて感じられるので、演奏によっては二つがバラバラに聴こえてくる場合があるのですが、これまでの角野氏の表現性はそこをピアノのグルーヴで一つにつなぐような方向性にあったのです。
が、これまでとは異なり情熱的にオケに絡むような質感は感じられません。
後に詳しく書きますが、私が聴いた秋田の読響との「in F」は明らかにボストンでの表現と地続きなのですが、この日の表現性ではそれが感じられず、何が起きているのかさっぱり不明。。。
前述した様に、興行側の「見えない圧力」みたいな存在も感じてしまったので、れに対する抵抗とか?
もしくは、そういう次元ではなく全く新しい表現性への試みとしても有りえますから。。。

●(ソリストアンコール)ジョージ・ガーシュウィン:アイ・ガット・リズム
うーーーん、やはり何かが違う。
ピアノのソロなので、スピーカーからの音だけではあっても違和感は減少しているのですが、どうにも腑に落ちません。
全然リズムに乗っていない感じ。
いえ、リズムに乗っているのですが、角野氏特有波打つようなウネリを抑えて演奏されている感じだったのです。。。
ノっていないのか、それとも何かノリとは違う別の目的があるのか…頭の中が??????で一杯。
スタンディングオベーションで応えていらっしゃる方々も多かったのですが、どうしても立ち上がる気になれず、その場で静かに拍手をしていました。

●オリンピックファンファーレとテーマ
今回のコンサートで最も聴きたかった曲!!
冒頭のウィリアムズ氏の解説で印象に残ったのは「スポーツは高貴である」という言葉でした。
冒頭のファンファーレには鳥肌!!!演奏は子供の時に聴いたあの時のワクワクや驚きが蘇りました。
ですが…画像は冒頭から北京オリンピックの開会式で(蔡國強演出だったのでしっかり観て記憶している 苦笑)、全体も冬季オリンピックの日本人フィギュアスケートが多いし、、、
ライセンス上ロサンジェルスオリンピックの映像が使えなかったのでしょうが、だったら無理に映像なんていらないと思うのです。
「スポーツは高貴である」というウィリアムズ氏の言葉とは反してる「後からのこじつけ」みたいな映像が並んでいます。
流れる映像は、素晴らしいものと最悪なものの差が激しすぎるので、穿った見方ですけど…これは日本の代理店が制作したものでは?と。
(日本人選手が妙にたくさん映っていた)

●『シンドラーのリスト』のテーマ
映画のサントラよりも情感を抑えた知的さを感じるコンサートマスターのヴァイオリンソロが本当に素晴らしかったです。
慈愛を感じるのですけれど感情に流されないような…なんだか「追憶」味を感じるというのでしょうか。。。
ソロヴァイオリンも明らかにPAを通していると思われるのですが、とにかくピアノ以外の音のバランスは本当に素晴らしいのです。
ハープの音も繊細に美しく聴こえてきますし。
現場のエンジニアさん、無念だろうな。。。泣

●『イーストウィックの魔女たち』より”悪魔のダンス”
冒頭にあったウィリアムズ氏のお話が演奏者に対するリスペクトを込めたもので、5日かかって作曲したものを演奏者は初見のわずか10分でそれを音楽にしてしまう、という様なものでした。
作曲と演奏の表現性を分離したうえで、その二つが結実する奏でられた音楽の素晴らしさを語たれたようにも思います。
タイトルはダンスなのですけど、イメージはマーチで、まさに「死の舞踏(絵画)」。これもダンスであり行進ですから。。。
曲としては全然違いますが、小曽根氏「My Witch's Blue」の軽やかなスウィング感と一致していました。
音楽は後半にどんどん盛り上がっていくのですが、「ガーン!」というようなダイレクトな強さにならず、フワッとした綿菓子みたいなものが常に全体を包んでいる様で、それが非現実感・軽やかさにつながっている様でした。
木管楽器やハープや弦の残響か…
音の発生時にダイレクトに聴こえる部分ではない音が印象的というか。。。
タンバリンもトライアングルの繊細なも素敵に聴こえてきましたし、鉄板をワンワン鳴らす様な楽器(?)があったり…パーカッションの皆様があちらこちらに移動されながら大活躍の演奏でした。

●『スター・ウォーズ エピソード5/帝国の逆襲』より”ダース・ベイダーのマーチ”
いや〜〜〜もう、冒頭のフレーズが聴こえてきただけで会場全体の興奮が感じられるほど。
とにかくトランペットがカッコ良すぎる!
ですが、生のコンサートだとホルンやフルート等の音もしっかり印象に残るのですよね。
メッチャ興奮しました!(それしか言えない)

●『スター・ウォーズ エピソード5/帝国の逆襲』より”ヨーダのテーマ”
冒頭のハープからホルンの壮大であたたかな光のような音楽が会場を包み、そこにチラチラと煌めくグロッケン?やハープの音が現れてきました。
曲は転調やテンポの変化が他の曲より大胆に行われているのですが、とても自然でヨーダの広い世界観を感じさせてくれます。
しつこい様ですが、繊細なハープもグロッケンも、広い東京国際フォーラム ホールAの2階席で違和感なく素敵に聴こえてきてPA最高!

●『スター・ウォーズ エピソード7/フォースの覚醒』より”レイのテーマ”
冒頭にキャラクターをイメージする特徴的なフレーズがくり返され展開していきますが、私が知っている3,4,5の音楽とはイメージが違っていました。
エピソード7は観ておらずレイがどういう人物なのかはわからないのですが、少々エキゾチックな印象も。
逆にこの演奏からスター・ウォーズの後のシリーズを観てみたくなるほど。

●『スター・ウォーズ』 メイン・タイトル
最後はコレ!
バーンと始まったら…もう、大興奮!
というか、ただただ素晴らしかった!という記憶しか残っていません。笑
角野氏の演奏(特に「in F」)を目的に足を運びましたが、ボストンポップスの演奏を聴くことができたことが本当に素晴らしい体験で、それだけで十分大感動!!
ソロアンコール時にはスタンディングはしませんでしたが、心からの拍手とスタンディングオベーション!!!(2階では私の前方にどなたも立っていらっしゃらなかったですけど…)

●(オーケストラアンコール)『スター・ウォーズ エピソード IV』新たなる希望より "酒場のバンド"

うわ〜〜アンコールが超絶ヤバかった!!!
チャールストンかディキシーランド・ジャズかは私にはわかりませんが、まさにオールドジャズ。
その伝統のあるオールドジャズスタイルを、アメリカの本場のビッグバンドが演奏するとこうなるのか!!!!という感嘆しか出てきません。
全員がピッタリ合っているのに、スウィング感・躍動感が半端なくて、本当にカッコいい!
これと比べてしまうと、この日の角野氏のアイ・ガット・リズムって何?みたいな感じ。。。(すみません。後の音博につながっていきます)
この選曲は角野氏に対する挑戦なのかプレゼントなのかはわかりませんが、とにかく「本物」を見せつけられて観客としては「ヤられた」感が大きかったです。
曲名がわかってから音源を調べてみましたが、この日の演奏の方がよりJazzyでスウィング感満載!
これほどの演奏を日本で聴くことは不可能だと思われ、これだけでもものすごい体験となりました。本当に感謝!
当然、この後も2階は一人でしたが…スタンディングオベーションをがんばりました。。。
(一人だと私でもさすがに挫折しそうになったのですが、暗かったことと、とにかく本当にその演奏に感動&感謝が大きかったので)


京都音楽博覧会2023 2日目

ここからは、京都梅小路公園で10/9に行われた京都音楽博覧会20232日目の感想です。
前日昼まで雨の予報だったのですが、なんと前夜に曇りに代わり…当日朝に雨が上がった状態でした。
前日には思わず下記の投稿を。。。

くるりの皆様とファンの皆様の音博への想いみたいなものをSNSで感じていたので、当初の目的であるハマシアン氏と角野氏だけではなくフェス全体を良いコンディションで鑑賞したい!と、午前中早めから並びました。
角野氏ファンの皆様の投稿からは、完全防備の長靴で行った方が良いのか悩まれているご様子も(ぬかるみは残ると思われたので、私は防水シューズ)。
そして、良席ゲット!

京都音楽博覧会2023 開演前
音博シート

[Ototoyの公式レビュー&セットリスト

秦基博氏
これまで特に秦氏の曲を意識して聴いたことはなかったにも関わらず、最初から耳にしたことがある曲ばかりでさすが〜!
ただ、12時開始のトップバッターという事もあり、ちょっと高音が上がりきらない感じ。
苦しそうにはされてはおらず、音楽的な伸びやかさが保たれているのがプロの技!と改めて感心してしまいましたが、やはり少し残念。。。
隣接の水族館イルカショープールの方とのやりとりもすごく微笑ましかったです。
休日の公園という日常と非日常/都会と自然の中間にある、寄り添う素敵な音楽で、ゆったりと身を任せることができました。


Saucy Dog
全く知らないバンドだったのですが、前の若い女性の方々がファンらしく、リハの段階から盛り上がっていました。
冒頭「東京」、ボーカルの石原慎也氏は空気感のある歌い出しから王道ロック系との変化を見事に表現されていて、今の時代にこういうロックバンドが若い方々にも受け入れられている事に驚き、とても嬉しかったです。
が、15年前位にインディーズロックを聴いていた時、彼ら位に良い歌を作って演奏していた素晴らしいバンドに沢山出会っていたので、売れるかどうかの境目がどこにあるか本当にわからないな…と少々感傷的に。。。
ところがところが、、、
次の「メトロノーム」からのアップテンポになった時の秋澤和貴氏のベース、ドライブ感がカッコいい!
3ピースだからベースがよく聴こえてくるのですが、所々にうねりを入れたり、弾いた後のミュートも効果的で、聴くほどにベースにやられました!笑
手首を完全に固定して指弾きするフォームは、ロックだと勢いが出ない様にも思われるのですが(実際、指弾きでパワーが足りないと指摘するポストもありました)だからこそ微妙なタイム感がコントロールできるとも言え、私はとっても好き!
その手首から肘に施された鮮やかなタトゥーの美しい事!
また、ドラマーのせとゆいか氏の女性コーラスも新鮮に聴こえ、なるほど〜〜!と思いました。
ちなみに、帰宅してYouTubeで調べてみたところ、秋澤氏はピック弾きもされていて、音楽・ベースに対する真摯な姿勢を改めて感じました。


sumika
sumikaはバンド名だけ知っている感じだったのですが、初めての曲でもすごく楽しめました!!
観客をのせること、観客と一緒に盛り上がるライブスタイルが完璧なのです。
私は観客の手拍子や一緒に歌うコーラスが好きではないのですが、それは音楽の本来の質感を損なうからです。
本来の音楽を損なわなければアーティストと一緒に盛り上がりたい人も音楽を聴いて味わいたい人も同時に楽しめる訳です。
sumikaとファンの皆様が見事なのは、絶対に縦ノリの曲しか手拍子をしないこと。
複雑な変拍子にリズムチェンジがある曲でも、縦ノリであれば一緒にクラップを楽しみ、単純なリズムでも横ノリ系は絶対に手を叩かない!
曲中にリズムが大きく変化する曲があってもこの法則が崩れることは無く、とにかく応援スタイルが完璧です。
また、大きなフェスならではの厚みを感じる音で、でも低音だけが妙に突出して耳が痛くなる様なこともなく、本当に素晴らしい音でした。大満足!!!


坂本真綾氏
リハーサルの時からジャジーなバック演奏が聴こえてきて期待大!
その際、音量が低めだったので「リハーサルだから?」かと思っていたら…あらら、、、本番もsumikaの8割位のボリュームなのです。
さまざまなジャンルが演奏されてもボリュームの中央値は合わせるはずなので少し意外に思ったのですが、ウッドベースや軽やかなドラムのニュアンス、坂本氏の繊細でやわらかな声のバランスを考えてみると、たしかにこれがベストかも…と納得してしまいました。
それ位、バックの演奏と歌とが一つになる独特の質感が素晴らしく、また、キーボードの方がノリノリで楽しげに演奏されているのも印象的でした。
最後には岸田氏が曲を提供された「菫」を岸田氏と一緒に披露され会場全体がとても盛り上がりました。


Tigran Hamasyan “StandArt”
この日の目的の一つでもある、ティグラン・ハマシアン氏のライブ!
とても良い席だったので、当初はスタンディングに行かずに観ていようと思ったのですが(PAを通した音なので逆に前に行きすぎない方が満遍なく音が聴こえて良いと思われた)、日本人アーティストに比べるとスタンディングエリアの人数が少ないのが寂しく、前に行くことにしました。
リハーサルの時の音は小さめだったため生のピアノの音が聴こえていたのですが、本番ではやはり音量が大きくなったので、ちょっと残念に。
とはいえ、これだけ大きな会場に音を伝えるのだから仕方がありません。
事前に佐藤氏がハマシアン氏を紹介され(日本人ではないので知らない方が多いという前提かと思われる)「1人音博みたいな人」と、様々な音楽性を取り込んでいることを説明されていたのですが、いや〜〜私にとっては、どんな音楽でもハマシアン!にしてしまうという感じでした。
今回の選曲は、アメリカスタンダードジャズのカヴァーという事なのですが…いやいや、結局は全て「ハマシアンスタイル」になっているのです。
変拍子・シンコペーション等複雑なリズムのなかでのリピートから生まれるグルーヴ、低音に弾く不思議な和音とトリルがなんとも言い難い魅力です。
特にハマシアン氏の場合、トリルが装飾ではなくメロディとして感じられるるというところが特別です。
「未知との遭遇」でのパルスかメロディか問題ではないですが、同じ音でも扱い方によって印象が変わるという事なのでしょうね。
何度も他のnoteに書いている様にモダンジャズ系のスタンダードはどうにも苦手なのですが、ハマシアン氏の手にかかると全くその苦手感が消え去るから不思議です。
聴いていると、どんどんトランス状態に沈んでいくように陶酔…体が揺れていきます。
すぐ後ろの男性も曲の合間に「すげーーー「すげーーー」」と小声で連発してました。笑
たぶん3曲目、ワルツ系の曲で和音とメロディとの組み合わせが美しくて美しくて。。。
複雑な変拍子にベースもドラムもユニゾンで合わせている曲もあって、どれもが超絶かっこいい!!!
音に合わせて揺れていると、意識すら朦朧としてきます。
その一方、曲の合間には熱気を表に出すべく私もヒューヒュー!と歓声を上げたりしていて大興奮、なんかもう…すごい状態でした。笑
後ろの男性は最後に「すごかった!すごかった!」と何度も何度もご自身で確認するように呟かれていましたが、改めて本当に素晴らしい体験となりました。
そう、聴くというよりも体験の方がしっくりくるステージだったので。
改めて音響のことを考えてみると…身体の全体が音に包まれているような感覚が必要なので、電気的な印象が強まってもやはりそれなりに音量は必要だ!という結論に至り、PAさん・エンジニアさんは本当に本当に素晴らしい仕事をされている!と改めて思いました。


角野隼斗氏
ハマシアン氏の演奏の後、アップライトピアノが運ばれてきたことに小躍りしポストしている間、グランドピアノもヤマハからスタインウェイに変えられた様なのですが…演奏が始まるまで全く気づかずにいました。
まさかグランドピアノをアーティストによって変えるなんてコンクールではないのですから想像もしておらず、演奏が始まって(モニターにスタインウェイのロゴが映って)ビックリした、という訳です。
いやはや、音博の「アーティストファースト」の本気を見た気がします。

「ショパン:英雄ポロネーズ」
最初の一音が演奏された時に、えええ???と驚愕。
冒頭のダン!という音、これまでとは全く違う印象。
音はそれなりに大きいのですが、叩きつけるような強い印象ではないのです。
その後のフレーズもこれまでに聴いたことがない程に端正で美しく品格に溢れ、パッションやグルーヴに身をまかせないような抑制が働いています。
大きな音を出すために、立ち上がったり体重をかけて鍵盤を叩くようにされる事もありますが、そういう類の表現性は一切見あたりません。
「FUJI ROCK FESTIVAL’22」の、アクシデントを力技で切り抜けた演奏とは全く違いますし、コンサートホールで演奏されていたこれまでの表現とも異なるのです。
ピアノはどう見てもフジロックと同じ古いものだと思われるのですが、全く違う音にしか聴こえません。
PAを通したにも関わらずスタンディングエリアでは生音が確実に聴こえている状況で(坂本氏やハマシアン氏の状況を顧みれば)スピーカーからの音量を下げていることも明らかです。
これで遠くの方は聴こえるの??と、一瞬自分の意識を後ろに向けると、野外フェスとは思えない程の静寂が会場を包み、観客皆が息を呑んでその一音一音に集中しているのが感じられました。
もしかしてボストン・ポップスでの「in F」は、こういう演奏を試みたかったということ???と、突然私の頭に閃きました。
フジロックでは、若者が一人で広いステージに立ち向かう情熱やアクシデントを跳ね返す気迫溢れる「英雄」だったのですが、今回の演奏を説明するにはちょっと説明するのに言葉が詰まってしまいます。。。
一体何が起きているのかさっぱりわからず、音は瑞々しさに溢れ、とにかく圧倒的に絶対的に美しい。
ただそれだけとしか言えませんでした。

演奏後「正解はないので自由に聴いて欲しい」という旨のMCが入ったのですが、後々、それが少々問題になる場面も出てきます。。。

「角野隼斗:大猫のワルツ」
この曲は、ショパンの子犬のワルツのオマージュでもありパロディでもあるはずです。
YouTubeで観ていた時には、ショパンのクラシック曲に対して、ある種ポピュラー化された若いYou Tuberとしての表現として聴いていたのですが、この日の演奏はショパンの作品と同等の品格を感じるもの。
同曲でこれほど印象が変わったことはありませんでした。
転調箇所もゆったりとおおらですし、ジャズテイストも時折感じられ最後も弱音で可愛らしく終わるものの、クラシックの品性を損ねない質感・品格が常に一定にコントロールされています。
これまでの角野氏の表現は、クラシックの中にジャズテイストを入れ込むことで、その質感変化を表現のアピールとしていたのに対し、質感と音楽性(ジャンル的な音楽の特徴)とが、別々に自在に扱われている感覚と言えば良いでしょうか。
こんなことできる人がいるの?!みたいな驚きなのです。
(まあ、これまでもそういう感嘆ばかり書いてきましたが、、、)
とにかく目の前で起きていることに理解が及ばず、素晴らしい音楽に陶酔するというよりも、ただ????とドキドキするばかりです。

「角野隼斗:胎動」
やはり、この曲も最初の左手の音がこれまで聴いたことがない様な美しく芯のある音で、右手は人が鍵盤を演奏しているというよりも、まさに水の流れそのままに感じられるほどに自然ででした。
指を弦に滑らせるようなハープの様な、縦に打鍵しているのに、横に弦を流しているかのような質感です。
グリッサンドのように隣接する音だったらまだ理解がおよびますが、アルペジオは音は隣接していませんから、どうしてこうなるのか????
その水の流れのようなものが、人間の胎動というよりも、自然・生態系の循環=胎動という感覚になりました。
あまりにも演奏が神々しくて、なんだか人間の次元を超えていたのです。

「角野隼斗:追憶」
この曲は当然、アップライトで奏でられました。
最初の強固な(力で打ちつけたるという意味ではなく「力」がこもる音)低音が響きとして広がるその中に、雫が滴るかのような高音の繊細な音が落ちてゆく様に鳥肌が。。。
この繊細な音は遠くの方にまで届いているのだろうか…と一瞬不安が頭をよぎるものの、背中からは熱い「気」みたいなものが迫ってくるように感じられ、あああ…やはり届いているのだ!と確信しました。
途中、ブランク(無音)に近いふっと抜けたような瞬間があったのですが、とてもナチュラルで「擬人化した音楽」が息を吸った瞬間のようにも感じられました。故意にブランクを設けるとか溜めるような感覚とは全く別物、もう、なんと言って良いのかわからない。。。
さらに驚いたのは、後半にはフェルトによる音の曇り・混ざりを利用しているのか、ラジオから流れてくるような不思議な音にすら聴こえてきて、過ぎ去った時間を懐古する映画のように感じられたのです。
ちょうど夜の帳が降りる時間帯ということもあり、非現実感に包まれました。

「バッハ: パルティータ第2番 カプリッチョ(抜粋)」「バッハ: イタリア協奏曲 第3楽章(抜粋)」
※この2曲は演奏時に把握できておらず、どの箇所で曲の切れ目だったかすらわからないので同時に感想を記載します。
そして内部奏法に・・。
ミュートをリズムの中で効果的に取り入れるなど、これまでよりも多様な音の響かせ方や鳴らし方など、さらにバリエーション豊かに感じました。
そして、バッハ(バッハであることだけは聴いている時にわかった)も明らかにソロツアーの表現とは違うのです!!!!!
やはり、「英雄〜」で感じたようなグルーヴに頼らないというか、ノリの良さで押しきらないというか。。。
かと言って単調な訳でもなく、この新しい質感・感覚が何なのかがわからず、演奏を鑑賞するという本来のスタンスから大きく逸脱していたかもしれません。
なぜなら、普段なら割と環境音との関係性に敏感な方なのですが、聴こえていたにも関わらず(他の方の感想を拝読して「そういえばそうだった」と思ったのにも関わらず)、鑑賞時の意識からは全く抜け落ちていたからです。
抽象度が高いバッハの曲は、曲のイメージよりも音・ノリの質感の違いの方が印象が強くなりがちで、その疑問がより大きくなってしまった様です。
ですが、やはり理解のヒントはバッハに有った訳で…それは別項で後述します。

「ガーシュウィン(角野隼斗編曲): 10 levels of "I got rhythm"」
この日はリズムや抑揚が抑制されながら、音自体にクラシカルな格が維持されていました。
ボストン・ポップスでも同曲を聴いていることもあり、あの時点からこの表現性を目指されていただろうことを改めて実感します。
これまでの"I got rhythm"は、レベルとしてそれぞれの編曲に特性を持たせ、それに合わせた演奏をされていたのですが、たぶん、レベルの扱われ方も変わっているようなのです。
「英雄」「大猫〜」でも感じた音楽の全体性が貫かれ、曲調変化だけを表現の糧にしていない曲への全体性と美への確固たるスタンスを感じるのです。
曲調が変わることこそがこの編曲意図そのものであるにも関わらず!
フィンガースナップもなく、これまでのノリを最重視してきた演奏からは異なる音楽への捉え方を感じました。
こういうポピュラー&ジャジーな曲ですら前述しているような質感を感じられたので、角野氏の表現が「変わった」のは間違いないと思いました。
その演奏を言葉で説明することは本当に難しいですし、それが何なのかを言い表すことはできないのですが、きっと新たな表現性が加わることでそれらを実現させているのでしょう。
単純に言えば今まで聴いたどんな "I got rhythm"よりも、最も素晴らしかったということです。

「くるり:JUBILEE」
最後の曲となり、事前にXでコラボの可能性をやり取りされていた岸田氏ステージ招かれました。
「大好きな曲」という紹介とともに、先日まで角野氏がウィーンに滞在されていたことに絡みウイーンで録音された「JUBILEE」曲を選ばれたとのこと。
冒頭はピアノソロで始まり、岸田氏の歌もしばらくはピアノだけだった記憶。。。
途中から音を響かせないようなギターが入っていったと思うのですが、とにかくそのアンサンブルの美しさに心を奪われてしまい歌を全然聴いていなかったという、、、
ピアノとベースは相性が良いと言われるのに対してピアノとギターは余り相性が良くないと言われるのですが(互いに弦楽器として音が重なり濁りやすい)、この時の演奏はピアノとギターだからこそ!という演奏に感じられました。
岸田氏は角野氏のピアノの響きを濁らせない様にリズム的にギターを弾かれていて、角野氏はたぶん…岸田氏の歌をピアノで底から押し上げるような表現されていたのだろうと思われます。
「たぶん」「思われる」と書いたのは…私が歌詞・歌を音楽全体でほとんど聴けていないから。
ですが、ピアノとギターの表現からは、実は角野氏がラジオで「初期のゆったりした曲のグルーヴが好き」とおっしゃっていた、そのグルーヴと同質のものが感じられました。
(リリース音源はもう少し行進っぽい印象)
最後に向かってはカオス的な(方向性を持たない)希望のようなものが満ちていきます。。。
この「満ちる」という質感は、音楽としての調和・圧が一定に保たれていることにも起因します(これこそが正に今回の一番大きな変化)。
ピアノソロ/ピアノ+歌/ピアノ+歌+ギターという変化があっても、音楽性に凸凹が感じられず一定の圧が維持されたままでどんどん上昇していく感じです。だから、潮が満ちた様な感じということです。
帰宅してからmilet氏との「Ordinary days」も確認したのですが、歌の伴奏の時は引っ込みピアノソロの時は前に出てきます。
楽器ソロはそういうものなのでこれまで不思議に思ったことはなかったのですが、この時の演奏はそういう類のものではありませんでした。
唯一、似た質感感じたのは松井秀太郎氏のカルテットでの小川晋平氏のベースです。
ソロとそうでない時と全くテンションが変わらないのに、ソロとしての表現がしっかり伝わってきたことに驚き、感想を残していました。

9/30 サントリーホール ARKクラシックス「ARK JAZZ スタンダード・ジャズの魅力」
松井秀太郎カルテット のパブリックビューイングでの感想より抜粋

いずれにしても、そういう楽器による演奏表現にばかりに意識が行きすぎて、全然歌を聴いていませんでした。。。
もっと歌をしっかり味わえればよかった〜〜〜と後悔しきり。
私には、この「JUBILEE」を全体として鑑賞するのは自分にとってキャパオーバーだった様です。
テレビ放映までにはしっかり歌も予習して、音楽全体を味わえるようにするぞ!と心に誓ったのでした。
でも、本当に素晴らしかった、最高の最高でした!
出演者の皆様の感想最後に岸田氏のポストを貼り付けているのですが、角野氏に対してだけ敬語で謝意を述べられている岸田氏。。。
一覧で並べてみると、角野氏へコメントが特別であることが際立ちます。
(Saucy Dogの方より角野氏の方が若いのに…)

10/15のラジオ「FM802 BINTANG GARDEN」では、「こんなに歌っていて楽しいことは長年音楽をやってきて初めてやったくらい楽しく歌わせて頂きました」とおっしゃっていました。

私は余りの興奮で「最高」しか書けませんでした。笑

凄い #京都音楽博覧会2023 さっきアップライトをポストしている時にグラントピアノもハマシアン氏のヤマハからスタインウェイに変えていたらしく、演奏が始まってびっくり
とにかく音響も演奏も岸田氏とのコラボも最高でした!
#角野隼斗

サークルでの投稿のため埋め込みではなく引用 10/9


くるり
くるりの音楽性の豊かさ・多様さを実感した選曲で、最初はラップのような曲だったり(後に中国で角野氏が上海蟹のストーリーズをあげられた際に使われていた「珀色の街、上海蟹の朝」)
素朴っぽいミディアムテンポの曲なのに、石若駿氏のドラムが超カッコいいこと!!
最新アルバムの曲は森氏のドラムでノリが異なり、まさに初期のあの感じ!
実は昔から能のノリにすごく近いと思っていたので(笑)…この感覚を生で味わえて最高!
特にゆったりした曲調と力の抜けたボーカル、独特のチルっぽい雰囲気が魅力的で「California coconuts」は、野外でのコンサートにピッタリでした、
「世界はこのまま変わらない」は、世相を皮肉った韻を踏みまくった曲で、なんだかハッピーエンドっぽい流れも。。。
公開されていたプレイリストで音源を確認してみると、その時々のくるりの興味が変化することでバラバラな音楽性という気もしないでもないのですが、会場で聴いていた時は一つのバンド音楽として、石若氏の時も森氏の時もくるりの音楽でした。
観客も皆で一つになって音楽を楽しんでいて、それは手拍子とか一緒に歌うという次元ではない「気持ちが一つになっている」という実感をともなった感慨でした。
音楽の多様さと一体感が同時に実現できるところが、きっとくるり独特の素晴らしさであり、この京都音楽博覧会もそれが実現されるフェスなのでしょう。
しかも、最後の最後まで近隣の方々への配慮・感謝を述べられていて、地域に愛される素晴らしいフェスとして今後もずっと継続されていくことを確信しました。

角野氏に関するXのご感想も読ませて頂きましたが、初めて角野氏に出逢われた皆様の多くが純粋にその音楽を楽しまれるのと同時に、音博でしか得られない音楽への出会いを常に楽しみにされていることが書かれていました。
くるりへの信頼と音楽そのものに対する広い視野と温かな眼差しが感じられます。
そういう皆様の懐の深さがあるから、くるりのファンではなくとも最後までアウェー感なくこのフェスを楽しめたのだと思われ、感謝しかありません。
大きな会場にも関わらず音響が本当に素晴らしく、映像もリアルタイムにも関わらず素晴らしい編集が施されていてプロの仕事にも感服です!
この一年、私のコンサート体験の中では角野氏のソロツアーを超えてたぶん一番だったと思います(個人的には佐久間氏への想いも+αで含まれますが)。
本当に最高の最高!笑
ありがとうございました。

※思い込みだけで感想を書いているため、「音博」を配信でご覧になったら「全然違う〜!」と思われる方がいらっしゃるかもしれません(もしかしたら、私自身そう思うかもしれませんが‥)。
ですが、それはそれ、仕方がないのでご了承ください。笑
どうして感じたのか、ということに対する責任(理由)はしっかり書き留めておく必要があるとは思っていますが、感じ方が変わること(他者との違い、自分でもその時によって)に対しては無責任でOK!常に自由でありたいと思っているので。。。



角野氏の新たな表現性への考察

さて、冒頭に書いたように「仮の想定」として角野氏の表現変化を考察してきます。
実際にどうなのかという問題ではなく、言葉では説明が難しい音楽の表現性を実感するための便宜上の試みだと思ってください。

7日のボストン・ポップスのコンサートを聴き、どうしてこのような状況になったのか本当に謎過ぎて。。。
角野氏のピアノのPAが酷すぎたので(音量が大きすぎたので)、下記の可能性を考えました。

A:弦に近い場所にあるピンマイクのみの集音による大音量なので、広い会場であっても逆に音を抑制する必要がある
B:本来の音響設計とは違う音量に変更されたことで、モチベーションが下がった

ですが、トランペットがミュート器を使っていたことからは、勢いと情熱だけで駆けで抜けるような表現とは異なる、何かしらの意図が隠れている可能性をも同時に感じていました。
「I got rhythm」も、何かしらの抑制が働いているというか、変化に乏しいというかわざとノリが抑えられているとうか…ちょっと今までとは違う方向性が感じられましたし。。。

ボストン・ポップスのコンサートがあった10/7の夜、NHKで角野氏に関わる番組が2つ放送されました。

特に「ニュースウォッチ9」で放送されていた二つの「in F」は、とても興味深いものでした。
一つはボストンで行われたボストン・ポップスとのコンサートでのもの。
もう一つは自室スタジオで練習として弾かれているもの。
ボストンでの「in F」には、アメリカデビューへの想いも込められていただろう溢れるばかりの情熱が感じられたのですが、日本での演奏ではそれが感じられません。
この日のコンサートでの「in F」の演奏は、どちらかといえばNHKのニュース9で練習として一音一音確認するかのように丁寧に演奏されていたものにとても近かったのです。
オーケストラの音楽と高揚するパッションのようなものがほとんど無く、一音一音確認するように、極めて丁寧に演奏されている質感というのでしょうか。

その後、かてぃんチャンネルでボストンでの「in F」が5分だけ公開されたので貼っておきます。

その謎を抱えたままに「音博」になるのですが…
最初の「英雄〜」を聴いた時に「あああ!!!
ボストン・ポップスのコンサートで聴いた「in F」の先にこれがある!!」と確信しました。
これまでとは全く別のアプローチで「in F」を試みたと思われるのです。
それが未完成だったのか、PAの影響で観客に伝わらなかったのかは私にはわかりませんが、たぶん両方ではないかと。。。
ですが、「英雄」を聴いた時に「角野隼斗は新たな武器を手に入れた」とファンファーレが鳴り響いたのです!!!!笑
一体、その間に何が起きたというのでしょう。。。

実は、ボストン・ポップスの前日10/6にヴィンキングル・オラフソン「J.S.バッハ:ゴルトベルク変奏曲」のアルバムが発売されていました。
配信では8月に先行リリースされていたのですが、その情報は認識できておらず、12月の来日コンサート情報との絡みで直前に情報を知った状態です。
ボストン・ポップスの前日ということもあり、適当に一度仕事中に聴いただけで記憶には残っていませんでした。
ところが、またもや不思議なシンクロニシティと言うべきことが。。。
オラフソン氏のコンサートがある12/5に別の予定が入ってしまったのす。
コンサートには行けないことになり、「ゴルトベルク変奏曲」を改めてしっかり音源を聴いたのです。
すると、、、「ええええ?!、もしかしてもしかして、この音楽的解釈と同じ方向性を音博で試みられたのかも?!!!」と、メッチャ興奮!!!
別スケジュールのオラフソン氏のコンサートチケットを買い直しました。笑

銃器はYouTubeのアルバム再生リストなので全曲聴けます。
レビューとしては、Apple Musicが素晴らしくて、まさにオラフソン氏にとってもターニングポイントだと思いました。
というのも、それまで聴いていた氏のバッハとは違っていたからです。

また、17日にはインタビューも発表されましたが、表現に対する芸術家としての信念が感じられ、もう…それだけでも大感動!
以前もオラフソン氏のTweetを引用したことがありますが、ご自身の表現に対しては強い意志で貫かれるのに対し、観客の受容に対してはその可能性を最大の広さで受け入れていらっしゃるのです。
芸術家としてのアイデンティティがこれだけ確立している日本人音楽家はいらっしゃらなのではないのではないでしょうか。
(私は日本の音楽教育のことは知りませんが、海外のクラシック音楽家は美学の基礎教育を受けられていることが伺えるのに対し、日本の方々からはほとんど感じません)
インタビューでは「いまがその時」という言葉も書かれているのですが、今年のツアー予習時にオラフソン氏のバッハやラモーを聴いていても、正直惹かれるものは少な買ったのに対して、以前とは全く違うバロック表現に聴こえてきましたから。

これらの私の実感を安易に関連付けた場合(実際そうである可能性には論拠がない)、ボストン・ポップス直前にこのアルバムからインスピレーションを受けられた後、角野氏は独自解釈で新たな表現を試みた、ということになる訳です。
が、アーティストの行動と表現変化への関連性を探ることや事の成り行きを明らかにする事は目的にしていません。
「音博」で感じた角野氏の演奏はオラフソン氏のこのアルバムを聴くことによって理解が深まる、解像度が上がる、変化の報告性がわかる、ということを言いたいのです。
「確証がないから語らない」というスタンスが学術論文で、「確証もないのに無責任に語る」のが感想です。
学術論文スタイルでは解釈や鑑賞の記述を部分的にしか行えず(実証されたものだけを用いる為)、感想の気楽さのまま表現者の行動に言及すれば無責任にになってしまいます(表現そのものに関しては自由だと思っていますが表現者の行動やそれに基づく思考過程は論拠なく語ることはNG)。
私は両者の間にある自分の思考過程を明らかにすることで、鑑賞時の実感を書き残しておきたかったのです。
その位に「不思議」「感動」が大きかったということです。

ここで、角野氏の「音博」前・後の変化がわかり易い事例も紹介します。

上はYouTubeに発表されたオリジナルの演奏で、下記は音博後の香港での 「I got rithm」。
以前はの強弱・グルーヴは、部分的(フレーズ単位)で波の様に現れていたのに対し、香港版では全体的な統合性のなかで成立していることがわかります。
この違いは一期一会の演奏の違いというよりも、全体性と個別性の同時認識というような、音楽の捉え方に違いがあると感じられるのです。
「音博」での変奏としての推移も、個々の曲調の違いというよりも「ゴルトベルク変奏曲」のような全体を通底する「幹」のようなものがあるのです。
それは、表現性が全く違う「英雄〜」「大猫のワルツ」「JUBILEE」等でも一貫していました。
角野氏とオラフソン氏の違いは、バッハ以外の音楽性においてもその質感や技術が援用されているところで、それに独自解釈を感じました。

前回のnoteにはPalermoのボレロの身体性が素晴らしいと書きましたが、同時期にアップされていたこのバッハも素晴らしいグルーヴで、身体的躍動感が見事に表現されています。
改かてぃんラボ(有料メンバーコンテンツ)「全国ツアー2023 "Reimagine" 全曲解説」でバッハに関しての発言を改めて確認したところ、プログラムにバッハを取り入れた理由として「バロックのビート・グルーヴに対し自分の表現が活かせないか(と思った)」と語られており、「ビート&グルーヴ=ご自身の得意な表現」という自覚を持たれてたことがわかります。
Palermoのバッハは最も得意とされる演奏だったと言えるでしょう。
それに対し、関西フィルハーモニー管弦楽団 第341回定期演奏会リハで演奏されたストーリーズが、前後の比較対象としてはまさに!という感じだったのですが…残念ながらもう消えてしまいました。。。
ですが、行かれた方々なら、たぶん実感されていらっしゃることと思います。
今、それら(「音博」以降の変化)にもっとも似た質感としてあげられるのが、唯一、ラフソン氏「ゴルトベルク変奏曲(リンク先はno,1のMV)」しかないという事なのです。
それがこの考察の動機であり、言葉で説明できない音楽表現の変化をあくまでも一例・仮説として示した理由です。
実際に角野氏が何を思い、何をインスピレーションにして「音博」の表現変化に至ったのかは、私が知るところではありません。
ちなみに、オラフソン氏の2018年リリースのアルバム「Johann Sebastian Bach」では感じ得ない質感であることも重要で、オラフソン氏の表現や角野氏の表現からは、2023年という現代における新たなクラシック音楽への捉え方のようなものが共通で感じられるのです。

掲載している動画や話とは前後するのですが、私なり納得できる答に辿り着いた後にボストンでの「in F」がYouTubeで公開されました。
ですが、「音博」の演奏の後においては、すでに過去の「in F」という認識でした。
もちろん、これは本当に素晴らしい演奏だとは思うものの、角野氏はもう次のステージに上られた、次のフェーズに移られたという想いの方がずっと強かったのです。
(アカウントを引越ししたので埋め込み可能になりました)

私自身が長年拘り続けていた「in F」のピアノへの想いもここで一旦一区切りと言えるでしょう。
来年演奏される時には、たぶん私がこれまでイメージしていたものから異なるものが提示される可能性があります。
長年抱いていた理想の「in F」に関しては、ピアノ以外にトランペットの問題もあるのですが(苦笑)、それも松井秀太郎氏に出会ったことで、いつかきっと満足できるはず!と勝手に思っています。
が、そのトランペットにおいても、単に自分が求めているイメージだけが可能性の全てではないことを、今回のことで教えて頂いた気がします。

話はさらに遡りますが、9月のボストンでの演奏をご覧になった方へのリプで、私は下記の投稿をしていました。
そう、これはもう「夢」ではないという事なのです。

「I got rythm」も入っている映画「巴里のアメリカ人」では、売れないピアニスト・作曲家のアダム(オスカー・レヴァント本人)が成功する夢として描かれたのが「in F 第3楽章」なので、これ自体がピアニスト兼作曲家としての成功に直結するイメージ
映画好きの聴衆の方はきっとご存知だったはず!

サークルでの投稿のため埋め込みではなく引用 9/24

再度、角野氏の表現性についてもどります。
一見、話が変わる様で…実は繋がっている内容です。
NHK交響楽団のチャンネルから、第124回 オーチャード定期「ショパン:ピアノ協奏曲 第1番」が、10/23に公開されました。

「民俗性とモダニズム解釈〜」では、この演奏について否定的に書いており、改めてこの動画を視聴しましたが…やはり私が感じた事は思い違いではなかったと感じました。
ファンの方にはとってはとても不快と思われる内容のため、小文字で記載します。
飛ばして読んで頂いても後の意味は通じると思われます。

この演奏では「音博・前」に得意とご自身も認識されていた身体的なグルーヴが尾高マエストロによって封印されています。
角野氏は統制された尾高マエストロとN響の音楽に抗うように、全体のタイム感(流れ)には影響が出ない小さい単位で装飾的にテンポを揺らすのです。しかも大袈裟に。
ノリは個々の音で生まれますがですがグルーヴはまとまった集合体の為、グルーヴ的な効果を求めれば、角野氏の持ち味である「自然なノリ」を超えた作為的なものになってしまうのです。
なんというか…尾高忠明マエストロと角野氏の「おしくら饅頭」。。。
さらにには、この協奏曲での感覚がソリストアンコールの「ラモー:雌鳥」にまで悪影響を与えていて、テンポの揺らぎが大き過ぎる上にトリルもワザとらしく感じられます。
かてぃんラボ「全国ツアー2023 "Reimagine" 全曲解説」では、ご自身でも「トリルでグルーヴを出す」とおっしゃっているので、コンチェルトでのこだわりを引きずった結果だと考えられるのではないでしょうか。
私は、角野氏以外の(特に年齢が高い方の)クラシックピアノにおけるノリやテンポ変化に対し「作為的」「故意」「恣意的」とどうしても受け入れられない感覚を持っているのですが、同様の質感を角野氏の演奏から感じてしまったという事なのです。。。
とはいえ、この直後に同じ奏者・演目によって郡山でもコンサートが行われ、二つの公演をご覧になった方のご感想やその直後の角野氏のお話からは、尾高マエストロと角野氏が互いの表現性において最適解を導き出されただろう事が伺えます。

これらの感想は私個人の感覚や好みに則したもので、この演奏を素晴らしいと感じられた方々の鑑賞や価値観を否定するものではありません。
私はこれまでクラシックを苦手として生きてきましたが、角野氏のファンの方々には元からクラシック音楽ファンという方々も大勢いらっしゃり、私が苦手としていた質感を苦手とされてはいないはずなのです。
そういう方々にとっては素晴らしいと評価ができる演奏のはずです。
角野氏の魅力は私が惹かれた部分にだけに存在する訳ではなく、私が気づかない(クラシックを長年聴き続けた方しかわからない)素晴らしい表現性も多く存在しているはずです。
単に「私の好みではない」「私が好きな角野氏の表現性だけがごっそりまとめて抜け落ちている」というだけのことです。
N響のオーケストラとのアンサンブルには他の演奏には感じられない魅力を感じる方がいらっしゃって当然で、それは全く否定していません。
ただ、このnoteは私が感じたことを自由に書くnoteなので(公的なレビューではないので)、個人として思った通りのことを書かせて頂いたということです。

ちなみに、先日相互フォロワーさんが池谷裕二氏の「考えをあらためるということ」というとても興味深い「日刊ほぼイトイ新聞」のコンテンツを紹介されていました。
第2回が「偏見を持たずに思考できない」「考えることというのは、偏見を持つことと一緒」とあります。
私というフィルターを通した考えをここに記しているので、それはもう…偏見の塊な訳ですが、それがなければ思考したことにならないということで、すみませんがご了承ください。

この事が、なぜ今の時点で関係があるのかというと…
コントロールされた全体性と自然な身体性とを成立できる今の角野氏の表現であれば、この様な状況であっても同様の事態には至らないと思われるからです。
従来のクラシックファンの方も私のような好みが偏っている聴衆も、きっとどちらも納得し得る表現性が見える気がするのです。
もちろん、思考も消え去りグルーヴにただ溺れるような陶酔感も角野氏の魅力の大きな部分です。
それが表現からなくなったということではなくて、全体性とともにそれらを自在にコントロールするメタ的な表現性を獲得された、ということです。
「新たな武器を手に入れた」と書いたのはそういう意味です。

そもそも、ショパンコンクールでの「ショパン:葬送」の感想を私は下記の様に書いています。

クラシック音楽のことはわからないので、今回書くに当たりこの曲についていくつか調べてみたのですが、曲自体が様々な要素から成り、それらを後でまとめた構成になっているのだそうで、統一感を持って美しく弾くことも重要なのだとか。
(ネットで転がっている解説は鵜呑みにできませんが、この文章を書くに当たり改めて反田氏の演奏も聴いてみると、確かに全体の調和・曲全体を通したコントロールのようなものが感じられます)

ですが、様々な感情や感慨がその時々にフッと思考の外から現れる感覚こそ、実際に親しい人の死を目前にした送る側の気持に近いのです。
しかも、その演奏の音が瑞々しく発せられることで、感覚が自分に湧き起こるようなリアルさにつながりました。

特に、故人を送る事で自分が生きている事の意味を噛み締めるような感覚は、他では感じた事がありませんでした。(具体的にはなかなか説明が難しいのですが…)

高木正勝氏「Rama」と角野隼斗氏「葬送」について-お二方のラジオ共演に舞い上がった本当の理由-(追記有)

曲全体としての調和よりも、音楽の中で揺れるリアルな身体感覚こそが好ましいと思っていた訳です。
この時点では、角野氏は自身の解釈を放棄された「無」のような演奏を志されていたように思っています。
約一年後のNOSPRとの「ショパン:ピアノ協奏曲第1番」では、改めて「解釈」を取り戻されたように感じたのですが、解釈を放棄していたスタンスから再度取り入れる移行期の極めて稀な表現性が立ち顕れていたと言えば良いのでしょうか。。。
詳しくは「表現の発生プロセス〜」に記載)
これはオルソップ氏やNOSPRとの関係性から奇跡的に成立した質感だと思っています。
今回はそれと同様とは言わないまでも、曲全体を制御する調和と奏者に存在する無為な身体性とが再現可能な技術的表現として獲得されたと感じられたのです。
まさに内側と外側の同時認識であり対角からの同時アプローチ。
概念として書くのは簡単ですが、実際にそれが成立するとは…いやはいや。。。
「音博」では、わずか数日での変化という驚きと今まで味わったことのない感動にヤラレテしまった訳です。


別記

<手拍子について>

私は以前から手拍子は好きではないと度々書いていますが、「10 levels of "I got rhythm"」ではlevel1から手拍子が始まりました。
それについては「自然発生的に始まった」「角野氏が皆の手拍子を待っていた(もしくはそういう手拍子を望む合図をされた)」というニュアンスの記載をみかけています。
その手拍子に対する評価も、好意的に(盛り上がって楽しかった!というニュアンスで)記載されているのですが、実際にはリズムがノリ始めるlevel 3で消えてしまいました。
もし本当に自然発生的であれば演奏の最初から始まる訳はありませんし(有料FCイベントのコンサートでは実際に自然発生的に手拍子が始まりましたが、level1の頭からではなかった)、ノリが出てくるlevel3位が盛り上がるはずなのにそこで消えています。
前述したように、これまでとは違い手拍子を叩くよう音楽性ではなかったので、「観客と一緒に手拍子で盛り上がる」という図式を事前に想定した上で実行しなければ手拍子は起こらないと思われるのです。
かてぃんピアノでのスタインウェイにおけるファンサービス等、過去に角野氏が言動不一致だった事がある以上、氏が手拍子を求めたとおっしゃる方のご意見を否定しませんが、「自由に聴いて欲しい」という冒頭の言葉からは反する行為であることは明確です。
なぜなら、手拍子→音楽が聴こえづらくなるほどの強い手拍子は、演奏された音を遮断してさえもその音楽に同期することを優先する行為であり、他者の「自由に聴く」行為の阻害でしかないからです。→これは、私が聴いていた状況における評価のため、必ずしもそうではない状況聴かれていた方々も。詳しくは補足へ
この言葉の「自由」とは、フェスでクラシックを聴くという珍しいシチュエーションのなかで型にとらわれずにその音楽を楽しんで欲しいという氏からのメッセージです。
角野氏の演奏を初めて聴かれただろう方々は、その言葉通り音楽に集中し各々が自由に楽しまれていました。
それに対し、前方で手拍子を始められたファンの皆様は「フェスは皆で盛り上がるもの」という思い込みをお持ちだったのではないでしょうか。
「角野氏のステージが盛り上がって欲しい」「角野氏のステージを盛り上げたい」といファンの想いから始まった手拍子の様に感じられました。
ファンの皆様の「想い」を頭から否定するつもりはないのですが、好意的意見しか見かけなかったこともあり、ここで何も書かずにいると「フェス=手拍子で盛り上がった」という実態を伴わない美談になってしまいます。
音を表現とする場ではガサゴソさせる雑音だけが音楽を阻害する訳ではないという事、角野氏を想うファンの気持ちが、一方では「自由に聴いて欲しい」という角野氏の希望に反する行為になっていた可能性があるのです。
そうではない反対の見方がある、ということを一例として書かせて頂いた次第です。

ですが、、、
sumikaの手拍子は本当に素敵だったのです。
縦ノリの音楽にバッチリ合っていて、その場に初めて参加したファンではない私でも手拍子を楽しみました。
Penthouseのライブでも「音楽の質感と合う手拍子」だったら楽しめるのに…と考えたのですが、どの曲なら合うのかと考えた場合、現状では「無い」という結論に至りました。
というか、そういう単純な縦ノリの曲が無いからこそファンなのですけど、だからこそライブからは遠のくということでもある訳で、まあ…色々難しいということです。
決して、観客が一緒にその音楽に同期・同調する手拍子という行為そのものを否定している訳ではありません。

(補足)
ご意見を頂いたことで、私が聴いていた状況と好意的に手拍子をとらえていた方々とは、その場の状況が違う可能性が高いことがわかりました。
文中にもこの補足への誘導を記載していますが、個別の手拍子がそこまで激しくなく音楽を妨げない音量で満遍なく聴こえてくる状況であれば、「阻害」とまで強い言葉で書かなかった可能性が高いです。
ですが、自分の周囲で一部の方が強く手拍子を叩かれている状況を基にこの意見は書いています。
聴いている状況は皆が同じではない、ということも含めてお読み頂ければ幸いです。
そうは言っても、私は普通の方以上に「手拍子は好きでは無い」という元来の「好み」を持っており、その感覚はその他の(手拍子を好意的に感じられた方々と)は、大きく異なっていることも事実です。
個人的にバイアスがかかっている意見であることと、単独の演奏においての「自由に聴いてほしい(「楽しんで」ではなかった)」という事前メッセージがあった条件も含んだ上での意見です。
N響との演奏をとても評価されている方々を否定していないのと同じで、「反対意見の提示」だとお考えくだされば幸いです。
その感覚がマイノリティーである事は承知しております。
そして、角野氏の「自由」という言葉に、私が勝手にもともと手拍子が苦手マイノリティーである人間ですらも自由に鑑賞できる理想的環境を求めてしまった、ということなのでしょう。
ダイバーシティ的な自由とは、少しずつ皆が不快感を抱きながらも認め合うことに他なりませんので、そこが欠けていたと思われます。
とはいえ、書いた事に関してはその時に思ったことのため、そのままにさせていただきました。

<音響について>

「音博」では相互フォロワーさんとのやり取りの中で下記のポストをしていました。

音響はボストンポップスより素晴らしかった! 楽器もそうですが、ミュージシャンに合わせた最良のコンディションを提供する、みたいなエンジニアさんの心意気を感じました。たしか、日比谷の時も野外なのに驚きましたが、そういう驚きです。

ボストンのPAは聴衆(角野氏ファン)におもねる感じ、角野氏のピアノの音だけがスピーカーからガンガン聴こえ興醒めでした。今日、ハマシアン氏よりも音量は低く野外なのに近くはギリギリ生音が楽しめる音響。後ろの方もそれまでとは違って一音聴き逃がすまいと静寂に包まれて驚きました。

サークルでの投稿のため埋め込みではなく引用 10/9

私が「ボストン・ポップス」の音響に抱いた不満は、広いホールではピアノを聴くには適さないとか、ボストン・ポップスのホーンセクションの音は強く華やかでピアノが聴き取りづらくなる、というような会場条件に対するものではありません。
角野氏の遠くに音を飛ばす技術と、微かに聴こえるだろう音に耳を傾ける観客の「聴く力」が、ここでは信用されていなかったと感じたからです。
ピアノ内部のピンマイクだけが施されているのですから、エンジニアの方はホールに広がる生の響きを利用するつもりだったと思われるのに。。。泣
それに対し、「音博」ではピアノからの生の音・響きが尊重され、可能な限りそれらを損ねないようなステージングが施されていました。
後ろの方にとっては他の演者に比べてボリューム低かったと思われますが、だからこそ会場中が静寂に包まれ、誰もが一心に角野氏の演奏に集中することができたとも言えるのです。
そして、野外の環境音とも相まって更なる素晴らしい鑑賞となったはずです(私には感じる余裕がありませんでしたが)。
人間が耳で聴き取る音量は一定ではなく、どれだけその音に意識が向けられているかによって変わってきます。
その人間の「聴く力」を、現場のエンジニアの方はご存知のはずです。
それを信じられない人が「ボストン・ポップス」では最終判断を行っただろうと思われる事が、私にはどうしても受け入れられなかったのです。

<カスタムアップライトピアノについて>

今年のツアーで使用されたスタインウェイのカスタムアップライトが「アップライトプロジェクト」として貸し出されることが発表された際、下記の2つの可能性を考えていました。

A:次のツアーの前には貸し出しは終わり再度このピアノを使用する
B:今後カスタムアップライトを用いる時は別のピアノを使用する

ただし、サインを入れられた事を考えるとBの可能性が高いと考えられます。
なぜなら、楽器そのものに「かてぃんピアノ(アップライトピアノプロジェクト)」の文脈が付加されてしまうと、演奏中に常にサインが見えている状態は音楽に関係のない文脈が音楽のノイズとなって、常に観客に示されてしまうからです。
ファンクラブイベントやアニバーサリーイベントであれば相乗効果となり得ますが、通常のコンサートでの使用は難しくなります。

そしてBには、さらに二つの可能性が考えられます。

B-1:別のピアノを角野氏が購入する
B-2:通常のコンサート機材と同じ貸出ルートができた

で、「音博」のステージにカスタムアップライトが出てきた時に、答えは「B-2」だ!と確信した訳です(おニューのピアノを野外のリスクある会場で使うことは考えられない)。
本文でも「アップライトピアノが運ばれてきたことに小躍りして」と書いていますが、この事は演奏だけではない社会的・文化的にとても大きな意味を持っているからです。

そもそも、日本でのカスタムアップライトの使用は角野氏よりも江崎文武氏の方が早く、ご自身の様々な表現に用いていらっしゃいました。
個人名義のコンサートを数度拝聴させて頂いた際に伺ったお話でしゃ、このアップライトはYAMAHAの倉庫で管理され演奏時の調整もYAMAHAの方がされているとのこと。
江崎氏がカスタムアップライトの素晴らしさをその音楽やお言葉で広めたとしても、ノウハウはアーティストとピアノメーカーにだけに蓄積され、社会的に一般化されるまでには時間がかかるのです。

ちなみに「一般化」には、2種類の方向性があります。
一つ目は、一般の方々にとっても「素敵な音」という認識が広く普及すること。
二つ目が、演奏者が「使いたい」と思った時に自由にすぐ使うことができる「ルート」があること。
一つ目のうち、音楽・音に興味のある層へのアプローチは素晴らしい演奏で広がるもので、その中に当然江崎氏の表現活動も含まれます(もちろん角野氏も)。
素人が実際に接することで感じる魅力や親近感なども一般化にさらに重要な要素の一つとなるので、「アップライトプロジェクト」の効果は特に大きいでしょう。
二つ目、通常のコンサート機材と同じ貸出ルートに組み込まれるという事は、アーティストが開発した(角野氏の場合は調律師の桉田氏とご一緒とのことですが)ノウハウもまた、貸し出し機材とともに一般化・普及するという事に他なりません。

一般化の事例で考えてみると、レコードを聴くだけだったレコードプレイヤーからスクラッチという楽器的使い方が生まれ、特定の音楽コミュニティに広がり、多くの聴衆に受け入れられて一般化しました。
この「広がり」はアーティスト側へのものと聴衆におけるものと両面で自然に展開されています。
受容者側展開アプローチ(=アップライトピアノプロジェクト)とともに、表現者側の展開アプローチが同時に行われるならば、一般化に必要な時間が自然的なものより格段に早くなるはずで、その可能性をB-2に見出せる訳です。

「音博」ではフジロックと同じグランドピアノが使われていましたから、高木クラヴィアの機材という事になります。
同サイト内を検索したら……ありました!

他のアーティストの方にアップライトのカスタムメイドをアドバイスされている事が書かれています。
素人として驚いたのは、通常のピアノとスタインウェイのピアノではカスタムの方法が異なるということ。
しかもそのノウハウは、すでに高木グラヴィアを通して他のアーティストにも広がっているという事実!
私がここで断定することはできませんが、角野氏が桉田氏と作り上げたとおっしゃっていた事を考えれば、高木グラヴィアがノウハウを独自開発したというよりも角野氏・桉田氏からの情報提供・共有があった結果と考える方が自然です。
つまり、プロのピアニストがカスタムアップライトの音色を自由に用いることができるルートがアップライトプロジェクトとほぼ開拓されていたということです。
この先、一般的なミュートピアノの音としてDTMの音源や電子ピアノの音色の一つとして発売される事や、カスタムし易いモデルが発売される可能性も考えられるでしょう(角野カスタムとして発売されたら販促素材となってしまうので、でここで書いている意味とは異なる)。
個人の音楽表現にとどまらず、鍵盤楽器そのものの可能性を広げるアプローチになっているのです。

角野氏が、広義の芸術、文化的な意味での表現者として存在しているところが、私がファンになった大きな理由なので、上記の可能性が会場で感じられた際に「小躍り」してしまった訳ですね。笑
音楽の純粋芸術の分野で社会的なアプローチをされる方はほとんどいらっしゃらないのに対して、大衆音楽の分野・文化的音楽分野の方々は、佐久間氏も坂本氏もくるりも亀田誠治氏他…多くの方々が社会との関わりの中で音楽を模索されています。
ただし、音楽+社会活動という組み合わせになってしまうとちょっとニュアンスが違っていて、音楽表現そのものに社会性がある、ということです。
上記の方々の場合、その音楽が常に大衆や社会とともにあるので可能ですが、それをクラシックの純粋音楽の分野で実現することは極めて難しいと思われます。
けれど、だかこそポピュラーミュージックの音楽家よりも造形系の芸術家の表現に近いようにも感じるのです。
ファインアートの分野では純粋芸術として社会との関わりを提示し続けていますから。
角野氏は音楽のジャンルだけでなく、芸術・文化・社会という境界をも鮮やかに超えて(「越」ではない)行かれるのです。

<繋がっているバトン>

これはちょっと個人的な思い入れが強いことなので…
果たして本当にそのバトンがつながっているかはわかりません。
が、くるりの「感覚は道標」をきっかけに、私の中にあった佐久間氏の記憶が一気に蘇ってきたことと、なぜか同じタイミングで佐久間氏が語られていたメッセージにつながっていると感じられたので、それを自分の想いとして記させて頂きます。



ASIAN KUNG-FU GENERATION 後藤正文氏の対談。
上記の音楽で生活できなくなるミュージシャンの状況と、音楽の文化的な価値をお金で換算しない自由な視点。


角野氏のAIの進化と音楽に関するインタビュー。
佐久間氏のインタビューの中で「すごい手彫り職人」という比喩で用いられているのが、まさに現代のAI。
また、当時から著作権権利に対し拡大した解釈で思考されており、それがAIによる自動生成物に対する思考につながっていきます(そこから結論が見出せるという類ではなく、思索する視野を広げるという意味)。
現在の状況とは違っていますが、将来に向けたより広い視野をお持ちだったことを改めて実感しました。
音楽家にとって、一方では未来は明るいとは言いきれない中に、だからこそ自由に楽しむという姿勢が共通の様に感じられました。


<追記1>

11月28日に海外エージェントLiu Kotowとの契約が成立した様です。
話題としては直接関係はありませんが、この時のステージで感じた「次のステージに上られた、次のフェーズに移られた」事が、世界的音楽マーケットにおける角野氏の「新たな一歩」に繋がったと思われたので、記載させて頂きます。

We are thrilled to announce our latest collaboration with the exceptional artist, Hayato Sumino - Cateen! Hayato...

Posted by Liu Kotow International Management & Promotion on Tuesday, November 28, 2023



<追記2>

※鬼籍に入った歴史的人物は敬称略

■追記も含めたnoteの更新記録はこちらからご確認ください