好きな人が読んだ本 (2019.4.27の下書きを抜粋)

「母はよく私に言っていました。後に悔いを残したくなかったら、言うべきかどうか迷ったことは何も言わずにおくべきだ、と。
でも私は、こうも思うのです。たとえ愚かなことを口にしてしまったと嘆くような結果になったとしても、あの時ああ言っておけばよかったと悔いるよりは少しはましなのかもしれない、と。後悔することを恐れて口を閉ざしている人は、私の知る限り、不幸に見舞われることもない代わりに、幸運に出会うこともなかったように思います。」
「直美さんは自分の気持ちを隠し切れない人だった。とても頭のいい人だったけれど、それ以上に感情の人だった。本当に、いまにも爆発してしまいそうな感情の持ち主でね。それが彼女の一番の魅力だった」
「ええ、正直に言うと、ずっと似た人を探していたんです。でも、あの人はほかの誰にも似ていなかった」「ほかにいないんだから、好きにならずにいられないよな」

当時、彼は私を不安にさせるようなことを何一つ口にしなかった。それは、言うべきか迷ったことは言わないほうが関係が上手くいくことことが往々にしてあることを心得ていたからだと思う。波風立てない紳士な振る舞いだった。対照的に、最後の日には、彼は私に伝えるべきことをしっかり伝えてくれた、と思う。彼に悔いはあまり残っていないんじゃないかとも思う。

本を読むとその人の価値観の一端を垣間見れるような錯覚に陥るから、誰かが読んだ、といった本は魅惑に満ちている。少なくとも私にとっては、好きな人が読んだ本は麻薬同然の効果を持つ。

冒頭で引用した文章は、私が心底好きだったある人の部屋の本棚にあった小説の一部である。別れてしばらく経ったある日、東京に住む叔母から送られてきた段ボール詰めの古本の中に紛れ込んでいたそれと目があった。蓮見圭一のベストセラー「水曜の朝、午前三時」との再会である。

これはあくまで私の推測に過ぎないが、彼はその瞬間ごとに言うべきこと、言わないでおくべきことをしっかりと分別し、私との関係を保っていたのだと思う。この小説を読んで、それをひしひしと感じた。
彼は、当時の私が感じることができた以上に器が大きく、私よりもずっとずっと大人だった。私は、絶対的に自分が”子供っぽい”ということを自覚しているつもりだったが、それでも相対的に見ると益々自分が幼かったことに気付かされる。彼は本当に偉大な人だった。

私は当時の自分とは変わった部分もあるし、全く変わらない部分もある。当時の気持ちを思い出すことは難しい。回想することはできても、瑞々しいあの感情の羅列を抽出することができない。時間は、幸福だった思い出さえ薄めて行く。嫌な思い出だけ消えてなくなってしまえばいいのに。そう思うこともあるけれど、悲しい思い出があるからこそ、同じ失敗を繰り返さぬよう学習することができる。だから嫌な思い出は抹消され得ぬのだろう。

私が薦めたあの小説を、彼は今も持っているだろうか。そして、思い出してくれるだろうか、私という人間がいたことを。

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