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私のターニングポイントは電子辞書である。

私は子供の頃、医師になりたくなかった。画家かデザイナーになりたかった。一日中飽きずに絵を描いたり工作をしたり裁縫をしたり、とにかくに何かを作ることが好きだった。自分の手で何かを生み出すことが楽しくて仕方なかったのだと思う。その自由さが魅力だったのだろうか。その頃から何かに縛られることが嫌いだったが、優等生でい続けるほどの根性が、なぜかあった。頻繁に理不尽な説教をしてくれた父親のおかげ(せい)かもしれない。

父方の祖父は若い頃、オリンピックを目指せるところにいるようなボクサーだった。父親は3兄弟の真ん中で、色々と苦労したらしい。長男は野球で有名な某私立高校へ。私の父は一番野球の腕があったが、二番目という理由だけで行けなかった。末っ子は数年間だけボクサーをやった。スポーツ一家であることは確かだったが、その中で今でもスポーツをやっているのは父親ただひとりだ。祖父は私が小学生の頃、よくこういった「医者になれ」私はすかさず「嫌だ」この押し問答が繰り返された。「だって血とか怖いし。医者って怖い仕事でしょ、絶対無理、嫌だ。私は絵を描きたい」

彼は野球が上手かったが、最後は肩を壊した。高校時代はレスリングの強豪校の監督からうちにこないか、と声を掛けられたという。数年後、当時はとても難関だった「競輪学校」に入学できたことは頷ける。スポーツで食べていくのが夢だったらしい。その夢を叶えた上家族まで養っており、本当に立派だと思う。毎月全国の中で約二か所にレースに出かける。だから、サラリーマンとは異なり土日に家にいるような家庭ではない。翌月のレース予定が決定するまで、いつ家にいていつ仕事に行くのかわからない、そんな自営業形態の仕事である。昨年の5月に40歳になった。母親は今月中に追いつく。二人が18歳の時に私は生まれた。

私が3歳くらいのころ、父親は静岡の競輪学校にいた。彼は物凄く寂しかったらしい、と未だに母親から聞く。家族の中で誰よりも寂しがりやで、今でも仕事に行くのが嫌な理由は家族と離れるから、らしい。
競輪学校時代、両親は毎週手紙のやりとりをしたという。幼い私のために平仮名だけの手紙も添えてくれたらしい。父の書いた手紙を読むために平仮名を習得するのがはやかったとか。私の方はもうすっかり覚えていないが。

雪国に住む競輪選手には、冬季移動というものがある。父親も例外ではなく、雪が降る直前に雪の降らない関東地方に移り、冬はそこで練習をしながら暮らす。小学校を卒業するまでは、私たちも付き添った。知らない場所での新鮮な生活に心躍らせたことが今でも鮮明に感じられる。中でも好きだった移住先は、守谷である。何の変哲もないベッドタウンの代表格みたいなエリアなのだが、父が仕事で不在の期間に母と当時幼児だった弟と3人で散歩に出かけ、寄ったことのないセブンイレブンをひたすら回ったり、大きな公園を探して行ったり、ショッピングモールで鬼太郎の映画を見たりした。父親が帰宅すれば、ワープステーション江戸へ行ったり茨城城や牛久の大仏の中を上ったり、非日常を楽しんだ。

両親はドライブが好きみたいだ。夜のドライブも結構好きみたいだ。もちろん幼い子供がいるから夜といってもゴールデンタイムなのだけど。喧嘩をして中直りをした夜も、いつもドライブしていたことを覚えている。

冬季移動中の暮らしは小さなレオパレスのアパート。弟はまだ3歳頃だったろうか、静かに暮らすことが難しくて、どきどきして、それだけはストレスだった。弟の機嫌を損ねないように、いろいろとヤキモキしながら母親と二人で協力しておもちゃを買い与えたりしていた笑。そんな彼も、立派な野球少年となり、春からは高校生になる。

私が中学生に上がったとき、どうしても欲しかったものがある。それは、カシオの高い電子辞書だ。祖母は、勉強に関するもの、芸術に関するものなら惜しみなく買い与えてくれた。だから、それまでと同様におねだりをしたところ、3秒で購入が決まった。あの時のこともとてもはっきりと思いだせる。祖母と二人で家電量販店に出向き、一生懸命迷った挙句、選んだ当時最新型のX-wordシリーズ。真っ白いボディが洗練されたデザインで、一目見て惚れた。中身はどれも違いがよくわからなかった。

電子辞書が欲しくなった最初のきっかけは、英語をペラペラ話せるようになりたい、という憧れの気持ちだった。母親の妹が海外を渡り歩いているアクティブな人だったから。

彼女はリクルートで働くキャリアウーマンで、昔からクリエイティブな人だった。高校の学校祭では仮装行列をプロデュースして大賞を受賞し、大阪芸大に進学後、イギリス、モロッコ、タイ、その他諸々の国を渡り歩き、最終的にそこに落ち着いた。大阪での長い暮らしを経て、数年前から旦那さんと一緒に東京に定住している。フレキシブルでクリエイティブでワクワクの詰まった人。私の憧れであり大好きな象徴だった。今でも彼女がワンシーズンで手放した洋服たちを貰って喜んできている姪っ子なのである。そして面白いことに、私の顔は、彼女そっくりである。母親も祖母も祖父母も幼い頃の写真を見るとどちらか区別がつかないくらい似ている。

そんな些細な憧れが電子辞書を私におびき寄せ、今に至る。今というのは、英語が日常化している今である。

中学でその電子辞書を手に入れた私は、陸上部の練習時間以外は電子辞書で何かを調べていた。何かを聴いていた。何かを読んでいた。携帯もパソコンも持っていないのだから、余暇は本を読むか電子辞書を睨むかの二択であったのだ。暇さえあれば様々な機能を試し、あらゆる書籍を漁り、読み込んだ。世界中の様々な知識を片手で持ち歩けるのがとても良かった。

英語の話を忘れていた。
私は暇さえあれば英単語やフレーズを検索しまくった。そして検索のたびに必ず一つ一つの英単語の正確な発音を聴いた。飽きることなく聴き込んだ。もともと母の指導でピアノを本気でやっていた身でもあり、耳の良さには自信があった。歌を歌うのと同じように、英語の発音やイントネーション、間合いの取り方を吸収していった。

中学の英語の授業はあまり覚えていないけれど、予習してこいといわれたことしかやらなかったし隣の席の人と一緒にやる会話練習もふつうにこなすだけだった。特別なことは何もしていなかった。ただ、英語の発音やイントネーションにだけは異常なこだわりがあって、無意識にそれらを習得していった。

高校では英単語を覚えることに夢中になった。単語を持てば持つほど自由になれると知ったから。
初めて出会う単語はその場で必ず覚えた。でも、ここでも特に授業を逸脱するようなものすごい勉強をしたわけではなく、意識が高い自主学習をした記憶はない。

特に英才教育を受けたことはなくて学校の勉強をこなしていただけだったが、その中でも英語はふつうに好きだった。自分にとってのふつう、なので客観的な表現ではない。

私は数学や化学や物理の勉強をあまりしなかったせいで、大学受験で苦労した。高校時代は何も考えていなくて、ただ走ることしか考えずに毎日を走ることで消費していた。必死だった。走ることに必死だった。それがすべてで、壊れる暇もなかった。どうしたらもっと速く走れる、楽に走れる?答えは、ひたすら走ること。

仙台で一年間浪人し、希望する大学の学部に入って今に至る。
予備校では英語だけが私の支えだった。

大学に入り、面白いことが起き始めた。
私が話す英語は、ネイティブスピーカーにも通じた。留学経験があるのか?帰国子女なのか?そんなことを何度も色々なところで聞かれた。答えはNO.
一度だって日本から出たことはない。そりゃ出てみたかったけれど、お金も時間も情熱もなかったから。これから出たいと思っている。やりたいことが増えたから。

ちょっとした好奇心から英語の発音マニアになった私は、なぜかネイティブに通じる英会話力を身につけた。電子辞書を買った当時は思いもしなかった。

近年は様々な英会話アプリがあり、簡単にネイティブスピーカーと話せる時代である。私も沢山の諸外国の人たちとお喋りをしてみた。なぜか通じる。話せる。わかる。思ったよりも早く、私の世界は開けた。と思った。

実は英語の文法も中学から高校にかけて普通の勉強をした迄なのだが、ふつうであるかわりに完璧にやってのけた。普通のカリキュラムを完ぺきにこなしただけで英会話できるほどの文法力は身につくということを、身を持って知った。英語の映画もドラマも本も私は見ないたちであった。それなのに今英語を話せるのは、英語を始めた初期に基本的な文法を押さえ、できるだけ多くの英単語を落とさず拾い、一度出会った英文は極める。これだけを続けた結果である。役に立つとは思っていなかったが、今、論文を大量に読み込んだり、学会発表をしたり、日本語圏以外の人と会話したりすることができるのは、あのちょっと高級な電子辞書が始まりだと私は思っている。電子辞書をすすめているわけではなく、あくまで私にとってのターニングポイントだったというわけである。おばあちゃん、あのときあの電子辞書を買ってくれてありがとう。たった今、電話で伝えた。

医師になりたくなかったはずの人間が、なぜか数年後に医師になる予定である。人生は本当に訳が分からない、だから面白い。

目が痛くなってきたので続きはまた今度。



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