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Today is the first day of the rest of your life.

 この度の部員日記は経済学部二年の中牟田篤がお送りします。
 さて皆様は今いかがお過ごしでしょうか。
 四月も下旬に差し掛かり、例年ではゴールデンウィークに向けて仕事も勉強ももうひと踏ん張り、と気持ちを入れ直すような時分でしょうか。しかしながら、皆様ご存知の通り、新型コロナウイルスの流行、感染拡大防止のため、今年の春は例年とは一味も二味も違う今までにないものとなっており、在宅を余儀なくされてもう暇つぶしの手段も尽きたというような方もいらっしゃるかもしれません。
 この突発的な余暇を埋めるべく、実は私自身、かつて伊坂幸太郎の本を好んでいたこともあって、これを機に未読の伊坂幸太郎の作品を読破しようと張り切ってみたはいいのですが、中々積まれた本を切り崩すには至らず、未読の伊坂は厚さを増すばかりです。
 つきましては今回、本日に至るまでの私の限りなく矮小な読書量の中ではありますが、一人のにわか伊坂幸太郎ファンとして、厳選した本を二冊ほど、僭越ながら皆様にご紹介したいと思います。


 有名な二冊ですので、知っている方も多いこととは思いますが、一冊目は「砂漠」という作品です。「砂漠」は仙台を舞台にした、岩手出身の主人公北村の大学入学から卒業までを描いた小説でして、北村が大学入学時に出会った仲間と共に、様々な事件や出来事に巻き込まれながら日々を駆け抜けていく、というのが大まかなストーリーです。私は高校時代にこの一冊を手に取って読んだのですが、とても爽快感がある小説でして、未来の大学生活が儚くも甘美に映ったのを今でも憶えています。
 ちなみにこの作品はフランス生まれのパイロットにして作家のサン=テグジュペリの「人間の土地」という作品が根幹になっていまして、当時の私は読了後に「人間の土地」にも興味を持ち、近所の古本屋で購入するのですが、冒頭三十ページで挫折しました。今も実家の私の部屋のベットと壁の間でホコリを被っていることでありましょう。なおのこと余談ですが、伊坂幸太郎自身が東北大学出身ということもあって伊坂作品の舞台の多くは仙台となっており、同時に複数の作品で同じ人物、施設が登場することもあります。「砂漠」の舞台も東北大学だと見て間違いないでしょう。
 さて創作物というのは音楽であれ映像であれ書籍であれ、何かしらのメッセージ性があって然るものなのですが、著者の伊坂が最も込めたかったであろうと私が考える一節は、物語最後の卒業式の学長の挨拶の中で出てきます。

 卒業式自体は、本当に淡々としていて、相変わらず僕は、さめた思いで式の進行を眺めていた。ただ、式の最後、学長の言った台詞は印象に残った。くどくどと話をしない主義なのか、学長は、卒業おめでとう、という趣旨のことを簡単に言った後で、「学生時代を思い出して、懐かしがるのは構わないが、あの時は良かったな、オアシスだったな、と逃げるようなことは絶対に考えるな。そういう人生を送るなよ」と強く言い切った。さらに最後にこう言った。「人間にとって最大の贅沢とは…                  伊坂幸太郎「砂漠」(新潮文庫、2010)

もちろん最後には伊坂が考える、この作品で示したかった人生最大の贅沢が明かされます。どんな内容であるかはうっすら想像できるのではないでしょうか。
 砂漠とは学生時代の後にやって来る社会のことを、オアシスというのが学生時代のことを指していることからわかるように、学生の物語ではありますが、社会人が懐古する学生時代の像が見え隠れする作品となっております。学生の方に限らず、卒業、就職された方でも、誰かが手に取って、人生最大の贅沢とは何なのかを思案しながら読み進めてもらえたらと思います。

 二冊目は「終末のフール」という作品です。舞台は、八年後に小惑星が衝突して地球が滅亡する、と予告されてから五年が過ぎて小康状態を迎えている仙台。そこに生きる人達を描いた全八編から成る短編集となっていまして、惑星衝突が取り沙汰された時にはにパニックを起こしていた人々も、五年という月日を経て前を向きつつある、というのが主な世界観です。
私のお気に入りは第三章「籠城のビール」と第五章「鋼鉄のウール」なのですが、今回ご紹介するのは後者、「鋼鉄のウール」です。
 あらすじとしては、六年前、小学校高学年の時にボクシングを始めた主人公だったのですが、翌年の惑星衝突騒動以降はジムから離れてしまいます。
しかし今となってジムの前を通りかかってみると、世界が滅亡するのにも関わらず練習を続ける二人がいてーーーというものです。
 キーとなるのは、主人公が通うジムが誇る最強のボクサーである、苗場という人物です。苗場は寡黙でストイック、そして鋼の肉体の持ち主でして、鍛え抜かれたローキックと左フックを繰り返すという愚直な戦法をとる、少し昔気質な人物。五年前にタイトルマッチを控えていたのですが、隕石騒動であえなく立ち消えになってしまいます。それでも苗場は、五年の月日が経ってなお、余命三年でなお、そしてタイトルマッチがなくなってもなおも、ジムの会長と練習を続けています。そんな苗場の原動力は何なのか、不思議になった主人公は、物語の最後、誰もいないジムの更衣室で、かつての先輩が集めてたであろう苗場ととある俳優との対談の記事を見つけて、苗場という人物の一端に触れます。以下少し引用しますがご容赦下さい。

ある映画俳優との対談だった。饒舌さが売りの、派手なその俳優と、無口で愛想がない苗場さんとのやり取りはあまりに噛み合わず、気の利いた掛け合い喜劇のようで可笑しかった。
しゃがんだ姿勢のまま、全部、読んだ。「苗場君ってさ、明日死ぬって言われたらどうする?」俳優は脈絡もなく、そんな質問をしていた。
「変わりませんよ」苗場さんの答えはそっけなかった。
「変わらないってどうすんの?」
「ぼくにできるのは、ローキックと左フックしかないですから」
「それって、練習の話でしょ?というかさ、明日死ぬのに、そんなことするわけ」可笑しいなあ、と俳優は笑ったようだ。
「明日死ぬとしたら生き方が変わるんですか?」文字だから想像するほかないけれど、苗場さんの口調は丁寧だったに違いない。
「あなたの今の生き方は、どれくらい生きるつもりの生き方なんですか?」          
              伊坂幸太郎「終末のフール」(集英社、2009)

 さて皆様は今いかがお過ごしでしょうか。
 やはり「終末のフール」の世界や、今のコロナ自粛のような厭世的な状況になり、短期的な目標を失ってしまいますと、世間の揺らぎにどこか呼応して、自己を見失ってしまったかのような感覚に襲われるのは止むを得ないことです。
 具体的に言い換えるならば、直近、ないし集大成と考えていた大会などがなくなり、虚無感や時間を浪費してしまったかのような思いに駆られている人も多いことかと思います。
 もちろん苗場にとってのボクシングと、私達にとってのソフトテニスを同列視することはできませんし、苗場のようにスポーツに取り組むべきだということではありません。ただ、どれだけモチベーションが乱高下しようと変わらない、物事に対する自分自身の姿勢、つまりは自分の生き方というものを、いずれ私達は手に入れないといけないのでしょう。取り組まなければいけないことは、スポーツだけではないのですから。
 そうした、未来の有無では揺らがない確固たる自分自身を見つけるということに、少しでもお手伝いできるのがこの「終末のフール」だと、私自身は思います。

 随分と理想を語る内容となってしまいました。最後にはなりますが、「終末のフール」の冒頭は、チャールズ・ディードリッヒの、誰もが知っている有名な文言から始まります。もちろん今現在は外出規制などが相まって満足に動けず、フラストレーションが高まる日々が続いているのは事実なのですが、願わくば皆様がこれからの日々を、心のしがらみを振り払い、大切な仲間と共に芯を持って駆け抜けられることを、私自身ちっぽけな存在ではありますが、世界のどこかで祈っております。
 長くて読みにくいものになってしまいました。最後まで読んで下さり、ありがとうございました。