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【眠らない猫と夜の魚】 第18話

「神隠し」③


 波流が試合をすることについては吾妻さんも難色を示していたが、波流のやる気に押し切られ『吾妻さんが審判をする』という条件で了承した。 
 音也側は先鋒から副将までが音也の教え子である小学生4人。
 大将は音也だった。
「え。なんで出るの? 小学生5人でいいでしょ」
「大将=自分って考えしかないんだよ。お山の大将だから」
 朱音が興味なさそうに言う。
「でも5人て。こっち2人じゃん」
「3人貸してやるって言われたけど断った。変なの入ると波流が動揺するし。あとこっちは3人だよ。小夜入れて」
「むりむりむりむり!!!」
「冗談だよ。先鋒が波流で、あと全部私がやる」
「全部やるってあんた」
「今回は波流に経験を積ませるのが目的だから、できるところまで波流にやらせて、あとは全部私が倒す」
「さらっと言うなぁ……」
 でもビッグマウスじゃない。朱音は高校のとき全国大会で何度も個人入賞している。
「だから負けるのは仕方ないって思ってるけど」
 そう言いながら、朱音はどこか余裕そうな表情をしていた。カードバトルで強いカードを隠し持っているときみたいな。
「たぶん波流は勝つよ。全部は無理でも幾つかは」
「そうなの?」
「才能が違う。剣道に向き合う姿勢も。あと師匠も」
 波流は壁に向かって動きのチェックをしている。多少緊張しているが、初試合にしては落ち着いているほうだ。聞けばサイレントヒルでは朱音相手に模擬試合をけっこうやっているらしい。
「あいつにへいこらしてるだけのクソガキが波流に勝てるかよ」
「朱音、口が悪いわよ」
「おっと神前だった」
 朱音は咳払いをして、道場の神棚に向かって頭を下げた。

 朱音の言葉は正しかった。
 声の大きさや勢いでは負けているけど、相手の動きを見る冷静さと、静から動へ切り替わるときの瞬発力は波流のほうが上だった。
 直線的に攻めてくる相手をうまくいなして、最小限の動きで打突を決める。同じ戦法で先鋒と次鋒を立て続けに撃破した。
「ちょっと、波流すごいじゃん!!」
「だから言っただろ」
 当然のように言う朱音だけど、ホッとした表情にも見えた。

 先鋒と次鋒は歴が浅そうだったから、勝てたのもそんなに不思議ではない。でも次の中堅は見るからに経験者だった。今までと違って迂闊に攻めてこない。体格差を利用して鍔迫り合いに持ち込み、プレッシャーをかけながら体力を削ってくる。
「大丈夫。焦らなくていい」
 朱音の言葉に波流が小さく頷く。波流は朱音のアドバイスの通りがむしゃらに攻めず、相手の攻撃から逃げていた。しかし相手の攻勢が激しくなると、波流の足が止まって防戦一方になった。
 それを見た中堅が構えを大きくした。たぶん、波流に余力がないとみて油断したのだろう。波流はその一瞬ですばやく足を前に運ぶと、相手の竹刀をくぐり抜けて胴を決めた。残心まで含めて美しい一撃は、朱音のトレースのようだった。
「何やってんだ!」
 音也はもはやイライラを隠していない。小物が、と朱音が鼻で笑った。

 試合時間が長かったので長めの休憩を挟む。
 波流は私が渡したポカリをふた口だけ飲んで、額に浮いた汗を手ぬぐいで拭いた。呼吸はやや荒いけどバテているという程ではない。
 次の副将は、さっきあからさまに波流を避けていた男子。たぶん波流と同じクラスだった男子だ。
「次、大丈夫?」
 言ってしまってから言うべきじゃなかったと後悔した。でも波流はしっかりと頷いた。
「大丈夫。今いっぱいいっぱいだから、逆に気にしないでできそう」
「経験者だから中堅と同じような流れになるかな。でも四戦目だから無理はしないでいい。しんどくなったら棄権していいから」
 朱音の言葉に波流がこくんと頷いた。
「危なそうだったらタオル投げるよ」
「剣道にタオル投げるとかある?」
「あ、剣道だから手ぬぐいか」
「そういう話じゃない」
 私と朱音のやり取りに、波流がクスクスと笑った。

 休憩が終わり、波流が開始線に向かう。作戦があるのか、直前に音也が相手の男子に耳打ちをしているのが見えた。
 吾妻さんが試合を始めようとしたとき、相手が手を上げた。
「すみません、師範。小手の紐が絡んじゃったみたいで」
 吾妻さんが確認して、つけ直すように指示をした。相手はいったん小手の紐を解いて直し始めた。
 朱音が息をついて、水筒を取るために壁際に向かう。その隙を狙ったように、音也がさりげなく波流に近づいた。こちらに背を向けていてよくわからなかったけど、波流に何かを見せているようだ。
 それはほんの数秒だけで、音也は朱音がこちらを向き直る前には波流から離れていた。
 相手の直しが終わって吾妻さんが開始線に並ぶように声をかけたが、波流は動かなかった。
「どうしたね?」
 促されてようやく顔を上げ、開始線に並ぶ。
 でもその動きが、どこかおかしいような気がした。

 試合が始まると波流の動きはさらに精彩を欠いた。
 さっきまで見せていた軽やかな足さばきがなくなり、棒立ちに近い状態になっている。防戦一方どころかその防御も覚束ず、攻撃を受ける直前に身を捩って何とか逃げていた。
「バテてるぞ、プレッシャーかけてけー」
 相手は音也の言葉の通り、いたぶるようにぶつかってくる。
「おかしい」
 朱音の額にさっきまではなかった汗が浮かんでいる。
「怪我じゃないみたいだけど……バテた? いや、それとも……」
「朱音、さっき音也さんが波流に何か見せてた」
「兄貴が?」
「よく見えなかったけど、スマホか何か」
 朱音が顔を上げて音也を睨む。こちらの様子に気づいたのか、音也が声を上げた。
「もういいだろ、そろそろ決めろ!」
 相手から体当たりのように面を打たれて、波流は後ろ向きに倒れた。
「……一本」
 吾妻さんの固い声が響く。
 波流はどうにか上体を起こしたが、倒れたまま両手を床について肩で大きく息をしている。
 その肩の動きが止まり、背中が細かく痙攣した。
 朱音が目を見開いて、ダッシュで波流に駆け寄る。

 同時に、波流は体を震わせ、床に吐いた。

「波流!!」
 遅れて波流のところに駆け寄る。
 私が着いた頃には、朱音は波流の面を外していた。面の下から出てきた波流の顔は紙のように真っ白だった。タオルで吐瀉物を拭きながら声を掛けると、波流が力なく私を見た。
 顔をあげると、音也が観察するように波流の顔を覗き込んでいた。音也から隠すように、波流を抱き寄せる。
「朱音、波流は私が見てる。だから」
 頷いた朱音が波流と音也の間に割って立つ。
「ポケットの中のものを出せ」
「は?」
「波流に見せたものを出せっつってんだよ」
「なんなんだよ」
「音也」
 異変を察したのか、目を細めた吾妻さんが低い声で音也の名前を口にした。波流と相対していたときの好々爺のイメージは微塵もない。前に朱音が言っていた。黒崎の家で一番怖いのは爺ちゃんだと。
 音也は視線を泳がせていたが、諦めてスマホを出した。
「別に変なものを見せたわけじゃない。母親に会えなくて寂しいと思ったから、写真を見せてやっただけだ」
「……素子さんの?」
 朱音の眉が跳ね上がる。
 音也がロックを解除すると同時に、朱音がスマホを取り上げた。
「おい!」
 写真アプリを起動して保存されていた写真を手繰る。その手が止まって、朱音の目が見開かれた。
 朱音の体越しに画面に映った写真が見えた。

 その瞬間、怒りで目が熱くなった。

 それは確かに素子さんの写真だった。
 薄く開いたドアの隙間からベッドが見えていて、その上に点滴をつながれた素子さんが眠っている。素子さんが入院している病室のようだ。
 そのドアの手前には小学生が三人、自撮りをするように満面の笑みでピースサインをして映っていた。

「お前がやらせたのか」
「そんなに怒るようなものでもないだろ。別に病室にも入ってない」
 朱音はスマホを操作して写真を消した。
「勝手なことするな!」
「あいつらにも消させろ! 今すぐに!」
「わかったわかった。そう怒るな。あいつらには注意しておくから、それでもういいだろ」
 私には音也が何を言っているのかさっぱりわからなかった。何がわかったのか、何がそれでいいのか。
 吾妻さんが音也に向かって口を開きかけた時、その肩を朱音が抑えた。
「爺ちゃん、残りの試合は私がやる」
「朱音、試合はもう終わりだ」
「お願い」
「……朱音」
「これで最後にするから」
 吾妻さんは朱音をじっと見ていたが、やがて諦めたように深いため息をついた。
「……わかった。だが波流の手当てが先だ」
「まじかよ。これ以上やる意味あんのか?」
 音也がおどけたように両腕を広げたが、朱音は黙殺した。

「……小夜、波流をお願い。私は雑巾取ってくる」
「わかった。波流、立てる?」
 波流が力なく頷く。ゆっくり立ち上がらせて、肩を貸して道場の隅に連れて行った。
「……小夜ちゃん、汚くしてごめんね」
 か細い声に胸が詰まる。
「波流が謝ることなんてない、なにひとつ」
 そんな当たり前のことしか言えない自分が悔しかった。
 道場に併設されている和室で寝かせようとしたが、波流は道場を離れたがらなかった。吾妻さんが持ってきてくれた座布団を並べて敷いて、そこに波流を寝かせる。吐瀉物を掃除して戻ってきたときには、青白かった顔にほんの少しだけ赤みが戻っていた。朱音は試合に向けた準備を粛々と進めながら、怖いくらいに無表情だった。

 波流の状態が安定したのを確認してから、吾妻さんが試合を再開した。
 朱音は全身から滲み出る怒りを隠そうともしない。面をしていてもそれがわかるくらい、発散する空気が尖っていた。
 副将はあからさまに腰が引けている。朱音は手心なく、試合開始とほぼ同時に一撃で試合を終わらせた。
「さっさと出てこい」
「……なにマジになってんだよ」
 ヘラヘラとした音也の声に頭がピリピリして、いつの間にか爪痕がつくほどに手を握っていた。怒りのせいか、さっきから耳鳴りがわんわんと耳の奥で渦を巻いている。
 波流が私のスカートをぎゅっと握った。
「波流、どうしたの?」
「……頭……痛い」
 手を握ってやると、波流は弱々しい力で握り返してきた。
 痛みが増しているのか、波流の呼吸がどんどん荒くなる。それに合わせるように、何故か私の耳鳴りも強くなった。
 波流が大きく息を飲んで、
 ぎゅっと私の手を握りしめた。
 耳の奥で耳鳴りがキィンと尖った音をたてて、

 その瞬間、私は幻を見た。


 ――えっ?


 魚だ。
 赤く光るおびただしい魚の群れが、剣道場いっぱいにひしめき、渦を巻いている。その渦の中心に、朱音と音也が睨み合って立っていた。

 でもそれはほんの一瞬のことで、すぐに消えて普通の道場に戻った。耳鳴りだけが余韻のように続いている。
「……え? なに、今の?」
 誰に向けるともなく呟くと同時に、「始め」という吾妻さんの言葉が聞こえた。

 朱音は静かだった。
 剣道の試合だというのに気勢をあげることもなく、淡々と最小限の動きで床を刻んでいる。しびれを切らした音也が威嚇の声とともに距離を詰めた。
 同時に、朱音が踏み込んだ。
 斜め上に突き出した竹刀が、正確に音也の喉を突く。
 バランスを崩した音也が後ろ向きに倒れた。
「くそっ!」
「起きろ」
「……今ので一本だろうが」
「音也」
 吾妻さんが腕組みをしたまま音也を睨む。
「……なんなんだよ」
 立ち上がった音也は、突きを警戒しているのか、鍔迫り合いに持ち込んだ。体格で勝る音也が、じりじりと朱音を押す。
 途中、音也が朱音に向かって何かを言っていたが、距離があるせいで何と言っているかわからなかった。
 でも次の瞬間、朱音は腰を落とすと、全身を使って音也を突き飛ばした。音也が体勢を戻す前に、その喉に再び竹刀を突き入れる。
 さっきの再現のように、音也が後ろ向きに倒れた。
 朱音が倒れた音也に歩み寄る。
 そして面をつけたままのその頭を思い切り蹴り飛ばした。
「てめえッ!!」
「朱音!」
 さすがに吾妻さんが嗜める。
 朱音は文句を言っている音也を無視したまま開始線に戻り、礼をした。面を外して吾妻さんの前に立つ。

「……爺ちゃん、今のは礼儀を欠いた行為だった。自分でもわかってる。だから私はもうここへはこない。剣道は好きだけど、礼節も正義も、私が剣道に求めるものは何も、この道場にはない」

 吾妻さんはどこか悲しそうに朱音を見つめたあと「そうだな」と短く言った。

 神棚に一礼をして、朱音は波流のところに戻ってきた。
「波流、帰ろう」
 波流に向ける表情は、さっきまでと変わって優しかった。
「……朱音さんの家に行きたい」
「いいよ、うちにおいで」
 波流を背負うと、朱音は振り向かずに道場を出ていった。

 わめき続ける音也には、最後まで目もくれなかった。

 *

 波流を起こさないように、そっとタオルケットを引き上げる。
 波流はシャワーを浴びて亜樹くんが剥いてくれたりんごを少しだけ食べると、力尽きたように眠ってしまった。体力をだいぶ消費したんだろう。肉体的だけじゃなく、精神的にも。
 朱音の部屋を出ると、帰りも剣道着だった朱音がようやくジーンズとパーカーに着替えていた。
「小夜、波流を見ててもらって良い?」
「いいけど、朱音は?」
「病院行って、師長にそれとなくお願いしとく。変なの来ても病室に入れないでって」
「……そうね。あの師長さんならうまくやってくれそう」
 亜樹くんがウィンドブレーカーに袖を通しながら冷蔵庫に視線を向ける。
「波流ちゃんが起きたら何か作ってあげて。冷蔵庫の中のもの何でも使っていいから」
「作る? 私が? ご飯を? が、がんばる」
「いちおう雑炊作ってあるからそれ温めてくれても」
「……超助かる」
「小夜も少し休んでよ。だいぶ疲れた顔になってる」
「うん、怒りすぎて疲れた。そのせいか道場でなんか変なの見たし……。波流を見ながら、ちょっと休むわ」
 朱音は亜樹くんの運転するラシーンで病院に向かった。水鳥はアボカドを閉めたら来ると言っていたから、それまでは私と波流だけだ。
 もう一度朱音の部屋を覗くと、波流はさっきと同じ姿勢で穏やかな寝息を立てていた。

 キッチンの椅子に座って亜樹くんが淹れていってくれた珈琲を飲む。私と波流だけのサイレントヒルは、その名の通り怖いくらいに静かだった。まだ夜になったばかりなのに、真夜中みたいだ。
 今日のことを思い出すとまだ頭が燃えるようだった。波流が不登校になる直前の教室も、もしかしたら同じような空気だったのかもしれない。そう考えると、なおさら。でも。

 朱音が怒ってくれてよかった。
 波流に味方がいることを示してくれてよかった。

 私もできていただろうか。ちゃんと波流に寄り添えていただろうか。なんかバタバタしただけで終わった気もする。
 大した理由もなくなんとなく教師を目指すことにしたけど、今はそう決めた頃よりもずっと強く、教師になりたいと思った。

 背後で床が軋む音がした。

 振り返ったけど誰もいない。この家は古いから家鳴りがよく聞こえる。それだろうか。
 もしかして波流が起きたのかも。そう思って朱音の部屋を覗くと、布団の上には乱れたタオルケットがあるだけで、波流はいなかった。

「……波流?」

 振り返ると、目の前に波流が立っていた。
 波流は私を見上げて、薄く笑いを浮かべている。

「具合はもういいの? ていうか……それ……?」

 私を見上げる波流の目は、まるで血に濡れた月のように








 夜。

 夜だ。

 いつもの夜。
 いつもの夜歩き。

 冷たい夜の空気と静かな闇。
 それがどこまでも広がっている。

 誰も私に関わらない。
 誰も私に求めてこない。
 無理なんてしなくていい。
 こうして、夜の隅っこを歩いていればいい。

 昼間みたいに怖くない。
 夜はいつだって優しい。
 少し怖くて、とても優しい。

 だから、ずっとここにいれば――

 通りの向こうを、誰かが横切った。
 白いスニーカーを履いた女の子。
 なんだか、私に似ている気がする。

 いや……あれは私だ。

 女の子を追いかける。
 少し高いところから、見下ろすように。
 神隠しのときみたいに、走る私の姿を、私は斜め上から見ている。

 女の子が足を止めて、振り返った。

「なんだ、見つかったな」

 やっぱり、私だった。

 なんで私が?

 そう言おうとしたけど、どうしてか言葉が出てこない。

「お前、夜歩きしてるときの自分の姿を知らないんだな」

 憐れむように私が言う。

 私は自分の手を見た。

 手がなかった。

 手だけじゃない。

 足も、体も、何もかも。

 私は悲鳴をあげた。

 でも。

 悲鳴をあげる口がなかった。


(第19話に続く)


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