妻と出会いとスナック

ふと振り向くと、大きなおっぱいが目の前にあって驚いた。
視線を上に戻すと、美人さんだったので、また驚いて、下を向いてしまった。
いやいやダメだろうと思い、視線を上に戻し、とりあえずにっこり笑ってみた。

苦手な容姿だなと感じた。さっきまで話していた自称東大卒ニートとは大違いである。
「イケメンでお金持ちにしか興味ありません、ゴミは黙っていてください」というオーラを出され始める前に逃げるべきだと、ぼくの経験が囁いてくる。

切り抜けなくてはいけないなと、社交性をフル動員する。さっきまで彼女と、その隣の一流企業に勤めてそうなおじさまが話していたであろう会話にうまく加わることにしよう。目線は、おじさまだ。それがいい。

それなのに「あ、席交換しましょうよ」と東大卒ニートがいきなり提案してくる。
マンツーマンでおじさまと話がしたいらしい、ふざけるな。

抵抗を表明することもできず、美女とニートが席を交換し、必然的に2人で話さなくてはいけない状況になってしまった。
「すごいおおきなおっぱいですね」と正直に気持ちを打ち明けて楽になりたいけれど、初対面であるし、ここは知人がやっている昼のスナックだから、お痛はダメだ。ぐっとこらえる。思考のリソースは「おっぱい」と、「おっぱいと言ってはならない」に大半が割かれてしまっている。どうして彼女は、ぴったりとしたニットを着ているのだろう、自分の武器を強調しすぎている。そのくせ、それを口にしていいようなラフな雰囲気はない。カットラインのきれいなボブ、ゆるやかなパーマ、きちんとしたお化粧、伸びた背筋。
店は満席で、カウンター席がいつもよりぐっと寄っている。嬉しい。いや困る。

しかし上品な出で立ちだけあって、美女は露骨に嫌がったりはしなかった。この昼のスナックに来た動機も一緒だった。共通の友人がいた。助かった。その友人はスナックのママのお手伝いをしにカウンターでお酒をつくっている。現在、友人は妊婦である。
ぼくは美女にたくさん質問した。自分の話を聞かせることなんかできないからだ。緊張でビールが進んで、グラスがすぐ、からっぽになる。美女もお酒を飲んでいる。

トイレに行きたくなった。たくさんビールを飲んでいるから当たり前だ。
美女に声をかけて席を立つ。
よかった、なんとかなったな、と安堵する。ミッションコンプリート。
席を立つことで、美女は他の人に話しかけたり、席を移動したりすることができる。
美女もきっとそうしていることであろう。このスナックにはいろんな人がきている。
でっかい会社の元会長がさっきふらっときていた。元会長の両サイドは若い女の子たちが速攻で陣取っていた。露骨さはないものの、強かさが見え隠れする。たくましい。

若いときは「ちょっと料理を取ってきますね」と離れた人が戻ってこなかったということにいちいち傷ついていたけれど、今ではそういうものであると飲みこめるようになった。35歳になったおっさんにはそれができる。社交辞令、オブラート、結構ではないか。

トイレのドアを開けて、席に戻ろうとすると、なんと美女はそのまま同じ席にいた。
背中を向けておらず、誰とも会話していない。ぼくの席も誰にもとられていない。
ちょこんと座って、こっちを見ている。
満席の中、戻るべきところに戻るしかないわけで、ますますお酒が進むことを予感した。

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