現実は小説より奇なり

今日発刊された新聞は、1日経っただけで“古新聞”になる。新聞の鮮度はせいぜい24時間ということですね。
今や情報発信の中心は、新聞ではなくネットである。新聞が世論を作っていた時代がいかにも牧歌的に思えるほど、現代のネット情報の更新速度は殺人的に早い。時々刻々と新しい情報の洪水が押し寄せる。情報の寿命はますます短く、24時間どころか、数時間も経てば腐敗臭が漂う情報もある。数週間前、数か月前の情報なんて、もはや誰も求めていない。
しかし世の中には酔狂な人がいるものだ。僕が4年も前に書いた記事を発掘し、紹介してくれた人がいる。

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たまたまタイムラインに流れてきたものが、僕の目についた。誰かの目に触れることを願って放り投げた瓶入り手紙が、長い変遷を経て、再び僕のもとに漂着したような格好だ。
僕は自分の記事って基本読み返さないけれども、ついクリックして読んでしまった。
https://clnakamura.com/blog/1068/

どうしても治してあげたい患者がいた。こっそり、患者にナイアシンのボトルを手渡した。それが上司にバレて大目玉。
そう、確かに僕はそういう医者だった。
苦いような、おもはゆいような記憶がよみがえってきた。
開業して初めて、勤務医のしがらみから解放された。ようやく自分のやりたいスタイルの医療ができるようになった。しかし道は決して平坦ではなかった。自分のスタイルの確立にもがき苦しんだし、いまだってさらなる洗練を目指して苦しんでいる。
でもそういう苦しさこそ、僕が求めていたものだった。精神科医として使いたくもない薬を使わないといけない苦しさに比べたら、今は天国のようだ。
ヒポクラテスの誓いとして「まず害をなすなかれ」という言葉が有名だけれども、西洋医学を実践してる医者は、皆例外なくこの禁を破っている。なぜなら、病気の本質に目を向けない対症療法の治療法は、長期的には必ず患者に「害」を及ぼすことになるから。開業医になってよかったのは、何よりも、この破戒の苦しさから解放されたことです。

上記の記事は、僕の医師としての初心を呼び起こしてくれたが、統合失調症患者へのアプローチという点では「まだまだ青いな」と思う。ホッファーとソウルの著書『オーソモレキュラー医学入門』の翻訳者の僕が言うのも何だけど、統合失調症に対するナイアシンの有効性は過大評価されていると思う。勤務医時代の僕にとってこの本はバイブルで、何度も読んだ。そのせいで、ホッファーを絶対視しすぎていたきらいがある。でも実際の現場では、ナイアシンが著効する統合失調症は、統合失調症患者のうちせいぜい2、3割じゃないかな。いや、もっと少ないかも。
これには時代背景がある。ホッファーが統合失調症患者を相手にナイアシンを使ったRCT(無作為化比較試験)をした1950~60年代は、ペラグラ(ビタミンB3欠乏)からくる精神症状を「統合失調症」と誤診された人が相当数いたと思う。あるいは、誤診と言うよりも、統合失調症の病因そのものが現代と当時とでは違う可能性がある。どういうことかというと、、、

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過去記事で「妊娠中にインフルエンザワクチンを打つと、出生児は後年自閉症あるいは統合失調症の発症率が7~14倍高くなる」ことを紹介した。
https://note.com/nakamuraclinic/n/n047a0043df1b

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ずばり言うと、現代の統合失調症は小児期に打ったワクチンが原因ではないか、という可能性を疑っています。
単純なペラグラによる精神障害ならナイアシンを飲んだだけで治るだろう。しかしワクチン誘発性の統合失調症は恐らく難治で、ナイアシンを飲む程度のことでは軽快しない。
ではどうやって治せばいいのか?
答えは僕にもありません。僕もまだまだ医者として発展途上で、患者と一緒に悩みながら方法を模索している状態です。


「先生は医学部にまっすぐ来たのではなく、もともと文学部だったと聞いて、ああ、なるほどと納得しました。だって先生の文章って理系じゃなくて、いかにも文系ですから。
先生の記事を読むようになったのはコロナがきっかけですけど、おもしろいのでハマりました。過去記事、だいたい読みましたよ。初期の頃って、ほぼ小説みたいな記事もありますよね。たとえば、解剖実習での扱った献体にあった入れ歯が縁結びにつながる話とか、
https://clnakamura.com/blog/1259/
膵臓癌の若い女性と研修医の話。
https://clnakamura.com/blog/1362/
ははーん、これは先生、作家志望だな、って思いましたよ。先生、いつ本格長編小説書くんですか?(笑)
いえ、こういう記事が事実か虚構か、それは私、興味がありません。私としては、“おもしろくてためになる”、そういう記事ならリアルだろうが想像の産物だろうが関係ありません。つまらない事実は要りませんからね。もっとおもしろいの書いてください。
最近の先生、昔と比べたら、文章がちょっと窮屈ですね。初期の頃とか、下世話な話とかゴシップネタみたいな話もけっこうあって、ああいうの好きでしたよ。でもフォロワーが2万とか言っちゃうと、ああいうの、もう書けないですよね。売れない芸人が深夜ラジオなんかで「こんな番組、誰も聞いてないだろう」ってことで、放送ぎりぎりのぶっちゃけ話とかしてて、それがおもしろくて評判になった。でも、人気が出るにつれて、批判も多くなり、芸人の側で慎重に言葉を選んで話すようになった。結果、全然おもしろくなくなった。そういう例ってあちこちにあると思うんです。
でも先生、ここが正念場ですよ。内輪話だけで盛り上がっているうちは素人です。多くの人の目に触れるようになり、かつ、批判に負けずに自分らしさを保ち続ける。これができる人が本物のプロで、長く残り続ける人だと思います。
いや、釈迦に説法かもしれませんね。先生はこの2年間、コロナ関係の情報発信でずいぶん叩かれましたが、特に説を曲げるでも沈黙するでもなく、着々と情報発信を続けた。すごいことだと思いますよ。そのおかげで、私も先生のことを知ることになったわけですから。
でも先生、コロナがもうすぐ終わるとして、終わったらどうしますか?」


情報発信が多くの人の目に留まるようになり、思いがけないリアクションをいただくようになった。うれしいやら恥ずかしいやら、どういう顔をしたらいいのか分からない。とりあえず笑っておこう。わっはっは(笑)
今日来院した人にも驚かされた。
50代の息子さんが80代の父親を診察させるため来院された。診察が終わり、父親が部屋を出て行った後、息子さんが僕に言った。
「いつも貴重な情報発信ありがとうございます。先生のおかげで救われました。よかったら、これ、プレゼントです」
手提げ袋を僕に手渡し、部屋を出て行かれた。
コロナ関係の本が3冊あり、どれもおもしろそうだ。あとでじっくり読ませてもらおう。しかしよく見ると、本だけではなかった。別の小袋が入っていて、中には目が飛び出るほどの現金が入っていた。
すぐに息子さんを追いかけた。
「これはちょっと受け取れません。あまりにも高額で」
息子さん、
「私の真心です。先生の活動を常々敬意を持って見ています。よかったら活動資金にしてください」
「いや、しかしこれはあまりにも」
僕の言葉を制して、
「先生、ご存知の通り、もうすぐ食糧難が起こります。インフレが起こって、金が意味を持たない時代が来ます。金が意味を持つうちに、少しでも意味のある使い方がしたいんです。
私、投資業をしています。今年は特に大きく当てました。その金は、そういうあぶく銭です。先生が使ってください。そして、その金に意味を与えてください」
なるほど、事情が飲み込めてきた。
しかし、ここで「そうですか、ありがとう」といただくのも違う気がする。
「もったいないお金です。しかし、いただけるということであれば、鵜川さんの駆け込み寺の口座に振り込んでください」とお願いし、ようやく現金を引き取ってもらった。
しかし驚いたなぁ。世の中にはこういう、あしながおじさんのような人が本当にいるのだ。
現実は小説より奇なり、という言葉がある。殺人ワクチンを国が推奨して市民を殺しまくっているというSF小説のようなことが現在進行形で起こっているわけだけど、僕の臨床現場でも小説を地で行くようなことがけっこうな頻度で起こるものだから、日記を書けばそれがそのまま小説になるような気がしています(笑)