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【芝居】の【描写】、その【効能】(第13回)

 いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。

 私、ここのところ“広義の【芝居】”、つまり私が好んでよく用いる【描写】について、【我流】なりに【考察】を巡らせております。

 私の【認識】するところ、“広義の【芝居】”の【役割】は、「全部【理解】して欲しい!」という【心理】から生じる【問題点】、この数々から【作品】を守る――というものです。

 その【問題点】の少なくとも一つは、私の【認識】するところ『【作者自身】が【作品】を“心に響かない【説教】”に仕立て、さらには【作者】の【姿勢】についても「口(【言葉】)だけ【達者】で、【奥深さ】を持たない」と見せてしまいかねない』というもの。

 ではなぜ、“広義の【芝居】”でこの【問題点】から【作品】を守ることが【可能】になるのか――と申せば。

 「全部【理解】して欲しい!」と言わなければ、『“【優先順位】の低い【情報】”は、“伝わらない【観客】には伝わらなくてもいい【表現】”で示す』と考えることもできるというもの。であればこれは、【奥深さ】を表す上で『口(【言葉】)だけで終わらない』、つまり【間接表現】を扱えることになります。

 そして私なりに申せば、“広義の【芝居】”とは、『【表現意図】を“【動き】という【間接表現】”に【翻訳】したもの』です。

 こう割り切ってみると、今度は【表現】をある種の【基準】をもって大別することができるようになっていきます。
 即ち、『【表現手法】として【静】と【動】、どちらを重んじるか』。

 例えば「全部【理解】して欲しい!」ための【直接表現】となれば、それは【作者】の気が済むまで、その一瞬の【状態】を【記述】することになります。そこに【時間】の【流れ】が織り込まれるわけではなく、ゆえに“【静】の【表現手法】”と私は【認識】するわけです。

 では、私が“【動】の【表現手法】”と位置付ける【芝居】はと申せば。

 “【芝居】という【動き】”には“【登場人物】や【物体】の【主観】や【行動原理】(複数)”が【間接表現】として埋め込まれていて、その【状態】を例えるなら“【不可逆圧縮】の【エンコード(暗号化)】”ということが観えてくるわけです。

 もちろん【不可逆圧縮】ですから、【観客】全員が【デコード(復元)】できるわけではありません。ただ、『そこに込められた【意味付け】が(複数)【存在】する』という【間接表現】としては伝わりやすくなります。これは【現実】に【存在】する【奥深さ】にも通ずるものですね。

 もちろん、【容易】な【表現】とは申しません。

 “広義の【芝居】”は【登場人物】の【人格】、ひいてはその【背景】にある【作品世界】全体の【原理原則】を踏まえて、それを【エンコード(暗号化)】した上に成り立っているわけですから。

 ただし、だからこそ『“【表現】に際する【容易さ】を求める【作者】”の【作品】からは【差別化】しやすい』ことになりますね。

 この【位置付け】とその【難度】を踏まえた上で。

 “【動】の【表現手法】”として“広義の【芝居】”を捉えるに、【我流】の【定義】は、“【シーン(状況)】の【変化】や【落差】の【原因】となる【動き】”です。これは【シーン】の【存在意義】を踏まえれば、自ずと【優先順位】は定まります。
 そして“【変化】や【落差】の【原因】となる【動き】”であるからには、“【時間経過】の【表現】”は【不可欠】ということになりますね。

 ここで『“【動】の【表現手法】”としては、“一つの【動き】”の中にある【時間経過】さえ【細分化】して【認識】する【必要】に迫られる』ということになりますが。
 これを“【静】の【表現手法】”、つまりは“【表層】の【直接表現】”としようとすると、『【動き全体】を一つの【塊】として括れない』ことになります。
 となると、【動き】の全体と細部一つ一つ、それぞれに込められた【意図】をはじめ、そこにある【情報量】は【膨大】になります。しかも全てを【表層】で【表現】することになるわけです。つまり【表現】として【現実的】ではなくなります。話が全くと言っていいほど進まなくなりますから。

 ここに“【行間】の【表現】”を用いる【必要性】は【確定】、よって【間接表現】としての“広義の【芝居】”は【存在意義】を【確定】するわけです。

 また、“広義の【芝居】”という“【動】の【表現手法】”においては。
 『“一つの【動き】”の中にある【時間経過】さえ【細分化】して【認識】、【再現】する』からには、【作者】は“【作品世界】の【現象】”に入り込んだかのごとく、つまりは【演者】と同じように【役作り】と【演技】を(【物理的】な【動き】を【再現】する【寸前】まで)【展開】することになるわけです。私が“広義の【芝居】”という【表現】を用いる由縁ですね。

 もちろんここまで【動き】にこだわるのは、私なりに考える【意義】あってのことです。

 ヒトを含む動物の“【本能的】な【特性】”まで【考慮】に入れるなら、【動き】というものは【意識】を惹き付ける上で極めて【有用】です。ならば【描写】の上でも【利用価値】は大きいことになりますね。
 さらにここまでの内容を踏まえるに、ここで取り上げる【動き】は『【心理】や【背景事情】などをも【間接表現】として込めた“広義の【芝居】”』となります。

 “生きている【人間】としての【動き】”をその【心理】や癖と絡めて引き出したならば、【観客】の【意識】には『単なる【記号】ではなく、生きた【人間】の姿とその【動き】』として映りやすくなるのでは――という、これは私の【考え方】です。

 ただし、注意点があります。

 【科白】も含め、『【動き】でさえあれば何でも“【動】の【表現手法】”として【上質】たり得る』などということはありません。
 『【手っ取り早く】でっち上げた【表現】から、込めてもいない【間接表現】が匂い立つ』などということは【期待】しようがないのです。

 ここで私として【予想】するのは、『じゃあ【間接表現】の【利点】だけ手に入れよう』という【発想】ですが。もちろん私はお勧めしません。
 【間接表現】の【利点】だけ手に入れて、【主力】は【手っ取り早く】扱える【直接表現】にしよう――としてしまうと、今度はそもそも【間接表現】の【利点】そのものを損ねかねないからです。

 前回は【広告】から【実例】を交えて、この辺りをお話ししてみました。

 【実際】のところ、『【上質さ】を【表現】しようとする【広告】ほど、【直接表現】を【排除】して【間接表現】で【奥深さ】を【表現】しようとする』もので。
 これは『【自画自賛】や【手前味噌】というものが、いかに【薄っぺらく】映るか』を考えてみれば腑に落ちるというもの。

 ここで【間接表現】、中でも“広義の【芝居】”は、【底知れなさ】や【奥深さ】を【表現】する上で【好相性】で、かつ【面白く】魅せる【演出】に対しても【好相性】――と私は捉えているわけですが。

 今回はこの【演出】と【芝居】、両者の【相性】についてお話ししてみましょう。

 ◇

○【演出】と【芝居】、その【相性】(その1)

 実際のところ、【映像】であろうと【文章】であろうと、【物語】としては変わらず【強み】を発揮する【演出】が【存在】します。
 これは【我流】の【認識】ではありますが、『“【膨大】な【背景情報】”の中にある、【焦点】というべきものを絞り込んで浮かび上がらせていく』という【流れ】の【演出】ですね。【物語】として“【観客】に【情報】を【提示】する【順序】”のことですので、この【演出】が持つ【強み】は【媒体】を問わないわけです。

 また、『“【膨大】な【背景情報】”の中にある【焦点】を、“絞り込んで浮かび上がらせていく【過程】”』というものについて考えてみますと。
 『この【過程】が“大中小の【物語】”であるほど強い』のも、また【事実】です。

 ここで“【膨大】な【背景情報】”を【表現】するに【有利】なのは、【間接表現】です。逆に【直接表現】は“【膨大さ】の【表現】”には向いていません。

 【事例】として、『【説明科白】だらけのマンガや映像』を挙げてみましょう。
 【説明科白】は【直接表現】であって【本質的意味】を表すものです。ですが、極めて高い【確率】で【つまらない】ものになりがちです。この【直接表現】で【面白さ】を醸す【技巧】は、(先述の通り)むしろ【エッセイ】のものに近いでしょう。

 ここで考えているのは【物語】についてです。
 では、“【物語】が【展開】される、【作品世界】という【擬似現実】”において【表現】を【面白くする】ことを考えましょう。
 この場合に“【膨大】な【背景情報】”を示す上で適するであろうのは、『“【作品世界】という【疑似現実】”そのもの、言い換えれば“【疑似現実】の中にある【現象】”』ということになりそうです。『【現実】を顧みるに、観ることができるのは【現象】だけであって、そこに【本質的意味】を表す【解説】などない』わけですから。

 ならば、『まず【現象】を【展開】して“【膨大】な【背景情報】”を【暗示】する』のが先決ということになります。これは同時に、『“【現実】と同じ観え方”を【提示】することによって、“【作品世界】という【擬似現実】”に、“【現実】に準ずる【存在感】や【説得力】”を付与する』ことにも繋がりますね。しかる後に『“その【背景情報】から絞り込んで、【焦点】を浮かび上がらせていく【過程】”を【描く】』というのがより【効果的】でありそうです。

 『“【膨大】な【背景情報】の中にある【焦点】”を絞り込んで浮かび上がらせていく【表現】』の【実例】として『機動警察パトレイバー THE MOVIE/押井守監督』を挙げておきます。『整備班のシバシゲオの下宿にて、犯人の仕込んだ暴走を巡る被害予測が次々と噛み合って拡大していく【表現】』ですね。

 この【事例】でも、【物語】としては『【拡散】ではなく、“【焦点】へ向かっての【収束】”こそが盛り上がる』という【事実】が【実感】できます。

 ただし、よく考えてみましょう。『最初から【焦点】しか【存在】しない【状態】』では『【収束】を【表現】しようがない』のです。かといって『【情報量】に溺れて【焦点】が埋もれている【状態】』はどうかといえば、これもまた【冗長】でしかありません。
 よって『“大中小の【物語】”を【構成】するには、まず“【背景情報】の風呂敷”を拡げておいて、それを“【焦点】へ向かって【収束】させていく”【流れ】こそが【重要】』ということが観えてきます。
 そして【流れ】とは“【動】の【表現】”でこそ表せるもの。『【流れ】は【時間経過】に乗せた【状態】の移り変わり』であって、であるからには『全体を一枚一枚描き直す【紙芝居】』、つまり【直接表現】を用いる“【静】の【表現手法】”は向いていないことになります。

 ◇

 さて、今回は一旦ここまで。

 私の【認識】するところ、【媒体】を問わず、【演出】として強いのは『“【膨大】な【背景情報】”の中にある、【焦点】というべきものを絞り込んで浮かび上がらせていく』という【流れ】です。これを“【現実】と同じ観え方”、即ち【現象】として描けば、【現実】に準ずる【存在感】や【説得力】を得られることになります。

 ここで【流れ】とは“大中小の【物語】”の向くところであり、また“【動】の【表現手法】”即ち“広義の【芝居】”の向くところでもあります。また【現象】という形も、“広義の【芝居】”に向くものですね。
 さらに『【焦点】を絞り込んでいく』には、当初は【焦点】より広い【背景情報】を【提示】する【必要】に迫られるわけで。ここにも【間接表現】として“広義の【芝居】”が【有用】ということになります。

 では、ここからどう絞り込んでいくのか――という点については、次回お話ししてみましょう。

 よろしければまたお付き合い下さいませ。

 それでは引き続き、よろしくお願いいたします。

(次の記事)


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