佐々木閑「NHK「100分de名著」ブックス 般若心経」 を読み終えました。私の評価は星4つです

佐々木閑「NHK「100分de名著」ブックス 般若心経」 を読み終えました。私の評価は星4つです。本日限定399円セール中。非常によくまとまっている。 般若心経はコンビニ仏教w。

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「どのような位置づけになるかというと、「日本でもっとも人気のあるお経」ということが言えるでしょう」

「しかしその一方でタイやスリランカのような 上座部 仏教国(古い姿の仏教をそのまま守っている国々)では、人気がありません。人気がないどころかほとんど誰も知らないのです」

「それはむしろ、「釈迦の時代の教えを否定することによって、釈迦を超えようとしている経典」なのです」

「人間という存在は、この五つの要素が、ある特定の法則にしたがって作用しあい、関係しあうことによって存在している、と釈迦は考えました」

「ところが『般若心経』は、「そのような五蘊はぜんぶ錯覚だ、実体のないものだ」と主張するのです。それが、「 照 見 五蘊 皆 空」(五蘊があり、そしてそれらの本質が空であると見た)という言葉の意味です」

「ではなぜ、そういうことが必要だったのかと言えば、大乗仏教が新興の宗教運動だったからです」

「釈迦の教えの最大の特徴は何かというと、自分の心の苦しみを自分の力で解決する、「自己救済」の宗教であるということです。これを「 自利」といいます」

「「生きるのが苦しい」と感じた人が、自分で選び、自分で努力し、自分で進んでいく道、それが釈迦の仏教なのです。ですから、こちらから町なかに入り込んで教義をPRしたり、信者を増やそうとしたりする布教活動にはさほど熱心ではありません」
「「釈迦の仏教」の特徴は完全な「自利」をベースにした「利他」であると申しましたが、多くの大乗仏教の特徴はベースが初めから「利他」です」

「なぜそのような違いが生まれたかというと、「釈迦の仏教」にゆるやかさがなかったからです。「釈迦の仏教」の考え方は基本的に「自分の問題は自分で解決しなさい」という 峻厳 なものであり、誰かが不思議な力で救ってくれるというものではありません」

「大乗仏教の登場には、修行の道に入りたくても入れない人々の気持ちに応えるという側面もあったのです」

「たとえば、心に大きな苦しみを抱いていて、仏教の助けを借りたいと思っている人がいるとします。大乗仏教ならば、毎日仏像に向かって祈りを捧げるとか、仏の名前を一心に唱えるとか、お経を読むとか、いろいろ方法はあります」

「しかし、「釈迦の仏教」はそのようなわけにいかないのです。  本気で仏道に励みたいと思ったら、出家して「サンガ(*5)(僧団)」と呼ばれる組織に入らねばなりません」

「そして、そのような難問をクリアして仏門に入ったとしても、そこにまた大きな壁があります。「釈迦の仏教」のもとでは、どんなに立派な修行者でも、釈迦のようなブッダになることはできません。つまり、仏教世界における最高の聖者には、決してなることができないのです」

「また、そのたった一人のブッダが亡くなると、次のブッダが現れるまでに何十億年(!)も待たねばならないとされています」

「自分がブッダになるためには、過去の世で過去のブッダに直接会って、決意の誓いを立て、よろしいという返答をもらっていなければならない」という決まりもあるのです」

「新たに登場した大乗仏教は、こういった関門を乗り越えるためのアイデアを次々に生み出しました。  まず、在家のままでも悟りに近づくことはできるとしました」

「また、ブッダに会えない時代に生まれてしまった私たちが、ブッダの前で誓いを立てて菩薩の道に入ることのできる方法も考案されました」

「この問題を解決するため大乗仏教では、「この世は一つではない」というアイデアを生み出しました。すなわち、“〝 パラレルワールド”〟 のように並行する世界が無数にあって、そのそれぞれにブッダがいると想定したのです」。粗製乱造w。

「大乗仏教ではブッダの数を増やしたうえに、そのブッダに会うための工夫もこらしました。たとえば、浄土信仰という系統では「 極楽」という別世界をもうけ、そこには阿弥陀如来というブッダがいつでもいることにしました」。「極楽」はコンビニ、いや「誰でも会えるアイドル」AKBだったw。

「「般若経」を読んで「何か心に感じ入るところ」があれば、それはその人が、過去の世ですでにブッダに会い、誓いを立てたことがあるという証拠だ、というのです」

「単に忘れているだけであって「般若経」に反応した以上は、自覚がなくても間違いなく過去の世でブッダに会っているのである、というのです」。ナンパ野郎の「どこかでお会いしたことありませんか?」詐欺じゃねーかw。

「それまで瞑想に入っていた釈迦は、その状態から出ると、観音菩薩が述べたことに対して『その通り、素晴らしい』と称賛しました。すると、その場に集っていた大勢の聴衆はみな歓喜して、その言葉を承りました。 『般若心経』は釈迦が直接説いたお経ではない、という点に注目してください」

「まず観音菩薩という「釈迦の仏教」時代にはいなかった大乗仏教の菩薩をスポークスマンとして登場させ、この観音様に説法を行わせます」

「その内容は、自分たちの信奉する般若波羅蜜多の教えは釈迦の教えよりもっと深遠で、もっと素晴らしいというものです」

「自分たちの教義のほうが上位であることをアピールして、最後にお釈迦様本人のお墨つきまでもらっているわけです。しかし、このように大乗仏教の代表者が教えを説き、お釈迦様がそれに対して「そうそう」と太鼓判を捺すというパターンは、じつはけっこうあるのです」。虎の威を借る狐w。

「「はじめに」のところで私は、なぜ『般若心経』は日本人に人気があるのか、という問いを出しましたが、その答えの半分は、「色即是空」という言葉にあると言ってもいいと思います」

「先の章で述べた「般若波羅蜜多」同様、「空」も、釈迦の時代にはそれほど重要なキーワードではありませんでした。しかし、裏返して言うと、釈迦がそれほど重視していなかったことを「般若経」を信奉する人たちはことさら大きく取り上げたわけですから、その理由を考察すると「見えてくるもの」があります」

「「釈迦の仏教」では、「私たちを形成する基本要素」である五蘊は確かに実在する、と言っているのですが、ここではそれを「実在しない」と言います」

「釈迦はこの世の本質を「 諸行無常」、つまり「すべてのものはうつりゆく」と見抜いたのですが、ここではその「諸行無常」の原則さえも否定されています」

「「釈迦の仏教」が「ある」と言ったものは本当はすべて「ない」。このような「否定の命題」はこれから先にもたくさん出てきます。『般若心経』の特徴の一つです」

「たとえば、道端に「石」が落ちているとします。私たちは目でその「いろ」や「かたち」を認識し、手に拾いあげて感触や重さを味わいます。二つの石を打ち合わせて硬さを確かめたりもします。そのとき、多くの人は、自分が手に持っているものは「石」という絶対的に確固たる物体であり、色や形や手触りなどは、その石に付随している「属性」にすぎないと考えます」

「しかし、釈迦はそうは考えません。反対なのです。絶対的に実在しているのは目や手がとらえた「いろ」や「かたち」や「手触り」のほうであり、「石」というのは、それらを心の中で組み上げた架空の集合体にすぎないと考えるのです」

「大乗仏教も釈迦と同じく、「石」や「私」などは、私たちが「ある」と思いこんでいるだけのまぼろしだと考えました。そこまでは一緒です。しかし彼らは、それらを構成している「五蘊」「十二処」「十八界」のような基本要素までも「実在しない」と言ったのです」

「要素と要素の間を結んでいた因果関係のようなものも存在しないことになります」

「要するに、釈迦が構築した世界観を「空」という概念を使うことによって無化し、それを超えるかたちで、さらなる深遠な真理と新しい世界観を提示したのです。これが、『般若心経』において「空(*5)」がことさらに重視された理由です」

「ものごとをどんどん細かくしていくと、これ以上分解できない基本要素にたどり着く。それがこの世の実在であり、それらがそれぞれに、因果の法則に沿って寄り集まったり離れたりし、つねに転変しながら、かりそめの姿としての物体や現象を現出させている ── という釈迦の考え方は、言葉は違うものの、まさに現代科学に通じる考え方なのです」

「釈迦はたしかに、この世に「絶対的な私」などというものはない、と言ったのですが、それを構成している基本要素も存在しないとは言っていないのです。  これに対して、その基本要素(現代でいえば素粒子)も非実在であり、錯覚であると主張したのが大乗仏教の「空」なのです」

「釈迦の「空」ならば、基本要素は実在し、それらの間の法則性も真実ですから、ちょうど科学者が素粒子を研究することによって、この世の本当の姿をとらえることができるように、われわれも釈迦の教えにしたがってこの世を見れば、世の中を正しく理解することができるということになります。ところが大乗仏教の「空」ならば、そういった法則性そのものが錯覚なのだから、いくら知恵を絞って世の中を分析しても、見えてくるのは架空の現ればかりであって、この世の真の姿はその奥に隠れたままです。それはもう、言葉で表すことのできない神秘の世界なので、「空」としか言えない」

「『般若心経』ではそのように、この世界は人知ではとらえがたい“〝 神秘的”〟 な形で存在しているのだと考えたわけです」

「「無明」と「老」と「死」、そして「苦集滅道」を「実在しない」としていることです」

「「無明」と「老死」は、釈迦が長い修行の末にようやく悟りを開いて獲得した「十二支縁起」と呼ばれる教えのことです。「無明」から始まって「行」「識」というふうに十二の要素が続き、その最後が「老死」で終わる、人の有り様を語る十二の連鎖状態が十二支縁起です」

「十二支縁起も四諦も、ともに「釈迦の仏教」の中では記念すべきもので、仏教を信奉する人なら誰でも知っている基本中の基本です。その大事なものをわざわざ取り上げて「そんなものはない」と言ってしまうのですから、とても大胆といえます」

「釈迦は、人の人生は「 一切 皆 苦」つまり「苦しみで満ちている」と言いました。人は生きている限りその苦しみで 悶え続けねばならないと考えたのです。その考えを推し進めて、体系的に組み立てたのが「十二支縁起」です」

「このうち「無明」とは無知のことで、人間の煩悩のうちでも最大のもの、言ってみれば“〝 煩悩の親分”〟 です。「老死」とは、老いて衰弱して死ぬという“〝 苦悩の親玉”〟 のようなものです。 「釈迦の仏教」は、あらゆる苦しみの根源は無明にあり、この無明のせいで様々なよからぬ状態が連鎖的に起こり、最後には堪えがたい「老死」の苦悩に悶えることになると考えました」

「釈迦が考えた仏教の目的は、煩悩を消すことによって業のパワーを消して、輪廻を止めることにあるのですが、それは業が連鎖しないという前提の上に成り立っているのです」

「単純に、「善いことをすれば楽しい結果が来るのだから、善いことばかりしましょう」といった道徳話にはしませんでした。そうではなく、きわめて特異な倫理観に持っていったのです。それは次のようなものです。 「善いことをすると、人はその業の結果として楽しいところに生まれ変わり、悪いことをすれば、その業の結果として苦しい場所に生まれ変わる。どちらにしろ、業は私たちをどこか次の世界へ引っ張っていく。そしてそこでまた、「老い」と「病」と「死」の苦しみに悶えねばならない。たとえ楽しい天に生まれたとしても、やはりそこにも寿命があり、身心の衰えはあり、死の恐怖はある。輪廻することそのものが究極の苦である。だから、その業のパワーを消して、二度と生まれ変わることのない静寂の境地である 涅槃(*2) をめざそう。それこそが真の幸福へと向かう道である」」

「釈迦は輪廻を断ち切り、涅槃をめざすためには、「この世では善いことも悪いこともしてはいけない」と説いたのです。なぜなら、業は悪事を働いたときだけ発生するのではなく、「誰か困っている人の手伝いをする」といった世間的に善い行いをするときでも生じてきます」

「善い行いをしてなぜ業が生まれるのかというと、私たちが心の中で「善いことをしてやろう」「私はこんな善いことをしたぞ」という強い思いを持つからです。つまり自分を「善いことをする人間だ」と強く意識しながら行動することが業につながるわけです。ですから大切なのは、自我意識を捨てて、まるで散歩したり体操したりしているときのような平常な心で暮らすことです」

「釈迦が考えた「善いこと」とは、このような自我意識の 鎧 を捨てた姿での善行なのです。決して「善いことをするな」などと言っているわけではありません。釈迦の慈悲は、平常心のまま人を助けるところに大きな意味があるのです」

「では、これに対して大乗仏教ではどう考えたかというと、自分を変えるのではなく、逆に世界の因果則のほうを変えられるようにしたのです。つまり、出家して修行に身を捧げなくても、業の因果則から解放されるアイデアを考案したのです」

「釈迦の仏教」では、まず自己救済の「自利」があり、それが回り回って結果的に他者の救済、つまり「利他」に転じるという「自利→利他」の流れを基本構造として持っています。一方、大乗仏教では、最初から「利他」をよしとして他人の救済に目を向けます。「釈迦の仏教」では、悟りに近づくためにはまず自分の煩悩を消す修行が必要と考えますが、大乗仏教では最初から人のために身を捧げることを奨励します」

「特別な仏道修行に入らなくても、日常の中でも行える善行として、自己犠牲のお布施というものをあげましたが、「般若経」が“〝 究極の善行”〟 とみなしたものは、じつは他にあります。それは、先にも申し上げましたが、ほかならぬ般若波羅蜜多の徳を敬うことです。もっと具体的にいえば「般若経」を崇め唱えることです」。コンビニ仏教w。

「何億年にもわたって善い行いを積むよりも「般若経」を一度唱えるほうが価値があると言います。もっと極端なところでは、「般若経」を世の中の人にどんどん広めていくのが最高の 功徳 であるとも言います。しかし、釈迦自身は「自分の教えを広めることが、悟りのための功徳になる」とは、一言も言っていないのです」

「「個人の心の救済」ということが、現代人にとっていちばん大きなキーワードであるとすれば、『般若心経』が持っているどの要素に、私たちは注目すべきなのでしょうか。  その答えは ──、私はほかならぬ「神秘」だと思います」

「神秘と言われると、なぜ抵抗を感じる人が多いのか。それは、私がお見受けしたところ、「神秘」と「迷信」を混同されているからではないかと思います。 「迷信」というのは、目の前に現れている二つの現象の間に誤った因果関係を想定することです」

「ある種のエセ科学です。しかし「神秘」というのはまったく別のことです。世の中の現象の奥に人智では説明不可能な力を感じることです」

「釈迦の世界観によれば、この世を分析していくと、最終的には 十 二 処、あるいは 十八界 という領域に区分けされます」

「世界観を端的に言えば、「分析の否定」ということになるでしょう」

「『般若心経』に従うなら、「そこにあるものは、そこにあるものとしてそのまま理解せよ。しかもその理解はあくまで人の知恵による限定的なものであり、その奥には人智を越えた法則があるということを承知せよ」ということになります」

「分析という作業には必ず、「ここで線引きができるだろう」という私たちの予断が入り込んできます。本当に客観的な分析などというものはなく、そこには必ず人間の先入観が含まれてくる、と考えるとき、それを常に是正し、さらなる客観性への道を無限に示し続ける「空」の思想は、大切な思考の道具であり、それをあのような簡潔な文言で私たちに伝えてくれる『般若心経』は、人がものを思考する際のきわめて有効な羅針盤になってくれるのです」



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