スタイルが膨張するとき
お誘いがあって、夏はクラシックコンサートを2回ほど聞きに行った。それもコンサートホールに招待されオーケストラを聴きに行くとかいう、片田舎で自転車漕いでいた高校生時分には想像もつかないものだ。ぼくも"豊か"になったもんだなぁ…と、皮肉交じりに日記に書いてみる。クラシック音楽を鑑賞しに行くというのが文化的に"豊か"なのか、そうであればどういうことなのか、というのはブルデューのディスタンクシオンの議論を参照すれば少しは分かるかもしれないが、それでもディスタンクシオンって、「何かのアイデンティティを持つことにより、持たない者とを区別する」主観的意識の問題であって、ストリートミュージックよりクラシックの方がなんだか"豊か"というのはどういうところから来るのだろうか。これはある程度共通認識ではあると思う(そもそも”豊か”というものの語義を明らかにしないといけないけれども)。
閑話休題。コンサートの話をしよう。おそらく二回とも概ね2時間程度だったと思われる。これはほかのジャンルのライブと比較しても大差ないものと思われる。しかし何よりも特徴的…というより直感的に感じたのが、一曲が長い!現代音楽であればそれはもはや別の曲だろ!という曲調の移り変わりが平気で一曲の中に何回も含まれている。そして、曲目を見ると両方とも2曲(この言い回しで合っているだろうか?)確かブラームスが含まれていた。1世紀以上前の作曲家の曲を繰り返すのはどうして?(これはジャズもあまり人の悪口を言えないが……)
しかしクラシックに特有だと感じたのは、湧き上がる風景のスケールである。これ以上書くとクラシック評論家に鼻で笑われそうなので贅言は避けるものの、クライマックスもさることながら、閑静なパートに雄大な自然を感じさせるのはオーケストラの人数がいてこそ成立すると確信した。
答え合わせ
別日に、コンサートに招待してくれた本人(プレイヤーだった)に話を聞いてみた。
1.なぜこうもクラシック音楽は長いのか?
2.なぜクラシックは100年以上前の音楽を今もなお演奏するのか(つまりクラシック現代音楽はないのか)?
1.なぜクラシック音楽は1曲1曲が長いのか?
これについては元々ソナタという形式があるらしい。
ピアノソナタk.5454 ハ長調を参考にすると、曲自体は3分程度で簡潔にまとまっており、構成もそれとなくジャズスタンダードに似ている。転調した後(展開部という)はマイナーにして弾いているが、この辺はその実かなり演奏者の裁量にゆだねられている。
この素朴なソナタ形式を出発点だとすると、作曲家の思い、思想、憧憬が詰まっていって濃縮、攪拌された結果が交響曲などのあの長さではないか……という回答だった。濃縮、攪拌について話しておくと、つまりAというスタイルに対して拡張的で、スタイルAから見れば少し異端ともいえるスタイルBがスタンダード化され、それが漸進的に引き延ばされていくことによって、その実オリジナルであるスタイルAからは想像もつかなかったところまで行くスタイルXが出来上がる。だいたい人類の発明というのはこんな様相を呈している。新発明と謳われるものも、概ね全てれーんーぞーくしていて、れーんーけーつしている。
そうした発明が連続するうちに、物の規模というものはとてつもなく大きくなる。そうして物が先行し、一つの規範と化し、脱構築される(つくづく脱構築というのは便利な言葉だ…)。何か革新的な発明も、既存の発明の外側に出ることを目的にするから、どこかで連結している。
2.なぜクラシックは100年前以上の演奏をするのか?
これは現代音楽(クラシック)は確かに存在する。換言すればぼくの知識不足である。くそ~。
彼曰く、それぞれの調(CmajとかDmajとか)には調性といってイメージがある。
後ろに「ニ長調」とか「ホ短調」とか書いてあるのはその意味もあるのかと得心がいった。つまり、この曲は何色っぽくて、~~風の情景を浮かべてくれ、というある種の音楽におけると同時に、情景・イメージ描写における指示だったということが分かって満足した。(例えばメジャーは明るくて、マイナーは暗いということは素人でも聴けば想像がつくのではないだろうか。ドレミファソラシドをすべて白鍵で演奏するのと、ミ・ソ・ラを♭(左の黒鍵)にして演奏するのでは、少しイメージが違うだろう)
ところが20世紀に入るとこの調性が失われ、これが現代音楽の特徴らしい。
現代音楽でいえば久石譲もオーケストラで曲を作っているし、実はゴーストライター騒動を起こした佐村河内守もコンポーザーであった。現代クラシックはもちろん存在する。
ということだった。クラシックの謎は深い……。
しかし、想像するに、情景をイメージする技術が追い付いてきた(グラフィック等)か、クラシックはゲームなどの伴奏に使われることも多くなってきた。クラシックと言えば~~のゲームの時代になるかもしれない。想像された情景が、今は目の前にグラフィックとして表れているから、もはや人々はクラシックを前に、想像を働かせる余地がなくなるかもしれない。それは伝達率の意味では非常に効率がいいけれども、完成された音楽というネイチャーに対してオーディエンスが参入していく場がなく、この音楽はネイチャーではなくネイチャーのディスプレイ掲示のように見える。その点クラシックをぼくのような奴が楽しむのであれば、その音楽から湧き上がる情景を想像してネイチャーを自身のうちに作り上げる作為があるのかもしれない。
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