新入生へ③:出てこい

この一文で失望する #春から学習院 の新入生の方も多いだろうが、悲しいことに本学で政治・哲学的議論が出来る人は多くはない。これは自分がぼっちだからではない。繰り返すが、これは自分がぼっちだからではない。

0.はじめに

本稿は個人的経験に基づくエッセイであるが、少しでも客観性を確保すべく、Google formにて簡単なアンケートを用意した。そして、幸いなことに20件を超える回答を頂戴した。絶対数としては少ないが、130人くらいのグループと、自身のインスタグラムの少ないフォロワーに向けて放流して得た結果なのでむしろ割合としては上々だろう。したがって、適宜必要に応じて本アンケートの結果を引用していく。

また、この場を借りてアンケートにご回答いただいた皆さんに厚く御礼申し上げます。手前勝手な知的好奇心に付き合っていただき、本当にありがとうございます。

この記事は、自分自身の主張についてメッセージを和らげることを意図していないため、思考したことに近い表現を使っている(≒平易な表現に置き換えていない)場合があります。質問がありましたら、TwitterのDMまで。多ければ別の記事として掲載しようと思います。



1.政治学科生は政治の話をするのか


1-1.はじめに

先にも同様の内容を記したが、本アンケート調査実施にあたり、21人もの学部生+3人の外部生・学外生に回答いただいた。絶対数としては少ないように見えるが、130人程度のグループに放流するのと、数少ない知人に依頼したくらいなので、割合としては十分だろう。

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どうやら学習院生もどきが数人混じっているようである(※1)

※は注釈で、本稿下部にまとめて記載してあります


1-2.成績の分布と自己評価

手始めに、大学の学問に対する自己評価について、高い方から順に5段階評価で質問を設けた。

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回答は1から3でほとんど(22件)であった。特筆すべきは2、やや低いが3の普通を上回っている点で、学業を巡る自己評価はかなり低めであることが分かる。次の質問で実際の成績について評価する。


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この質問で、GPA(成績の平均)の分布がおおよそ分かる。青色を始点に、時計回りになるほど成績が高い(なお桃色については履修していないので除外)が、こうしてみると、率直に言えばピンからキリまでという表現がここまでシンデレラフィットするグラフも少ない。世の中の分布かくあるべしと言わんばかりの整った結果である。

個別具体的な考察に移ると、まず平均3.5~4.0はどの学科においてもこの成績を取るのは至難の業だろうもので、ここに該当する人が一人もいないのは残念ではあるが得心行く結果ともいえる。

反対に、GPAが1.5を切っている者は2人存在する。しかし、話を聞いていたところ、うち一人は本学自然科学系学部所属の友人だったようで、それは政治学科科目を履修していないため、エラーとして扱う。残った1人は政治学科所属で、該当の成績を取っている可能性がある。(同様にエラーの可能性も考慮したが、残りの2人は履修していないに票を入れているため、回答数の観点からすれば辻褄が合う)

次に触れておきたいのは、2.0~3.0でちょうど5割を占める点である。GPAというものは、おおよそ平均は2.5程度だとかつて新歓期に先輩から言われたことがあったが、細かい数字はともあれ、概ねそれは正しいだろう。


1-3.政治学科生は政治の話をするのか


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1から順にそういった議論についてのモチベーションが高いように設定し、回答を募ったところ、ほぼ2~4で三等分される結果となった。「普段は全然しないけど、たまにすると面白い」もおそらくは2か3程度に分類されると判断していいものと思われる。すると1に該当する回答は1件のみで、本当に希少な存在であることが、第一に分かる。

2に回答した方が多かったのは注目すべきである。講義内で積極的に発言が見られたり、パブリックな場で発言しなくとも、それなりに政治的・哲学的なディープな話をすること自体には(人を選べば)抵抗心が薄い層は確かに存在するということである。

ゼミ等の演習系講義では、必然的に少人数で、個人にフォーカスされる部分も大きいため各人に発言や自身の考えを表明することを迫られる機会があるのは想像に難くないが、プライベートでこのような話をしないというのは、あまりモチベーションの面では積極的ではないと評価すべきだろう。あるいは考えられる可能性としては公私を一切混同せず、趣味は趣味、講義は講義で割り切っているという存在だが、これについて正確な解答を出すにはさらなる調査が必要であるものの、先の自己評価の面から疑問符が付く。つまり、平易な表現で読み替えると、講義内ではいの一番に発言して議論に積極的に携わり専門書や論文を読み漁り、いったん休みの日とか飲みの席に座れば酒や女の話ばかりして大学の話は一切触れない、そんな人間がいるのだろうか?(もしそもそも大学でそれほど積極的に発言していなければ3が該当するだろうし、友人とならそういう話をするのであれば2が該当するはずである)

自己評価と成績議論の頻度の分布

そこで先の質問3.4.5のうち、自己評価から実際の成績、議論の頻度についてグラフを作成した。回答数は1から順に4.8.7.1.1のため、右二つのグラフはサンプル数の点において不適切であるものの、1~3についてはある程度有意な結果が出たと言える。なお、成績については例えば0~1.5なら0.75のように、中央値を採用した。議論の頻度(Q5)については見やすくするために、4-(回答の数字)で計算した。つまり、全員が1を選べば4-1で3になるので、こちらの設問については最大値は3である。

そこで左3つのグラフに焦点を当てると、自己評価とGPA、議論の頻度は全て正の相関にあるから、単純な傾向としては先の主張にそぐわないが、自己評価が1の層は0.5、3の層は1.2であり、差異がそこまでドラスティックでないため、個別のケースで考えればいる可能性は排除しきれない。我こそはという方がいらっしゃいましたらDMにて名乗り出てください。本当にいるなら、是非お話を聞かせてください、面白いと思います。


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さらに、先の設問にて「1.積極的に発言する」「2.仲のいい人とはする」(大意)と回答した人に向けて、これらの議論をする場所は十分か調査した(5-1の順で十分であるとした)ところ、16件中11件が1か2に回答される、不十分な方に偏る結果となった。

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その先の設問において、「3.プライベートではほぼしない」「4.ほぼ、あるいはまったくしない」(大意)と回答した人に向けてはそう回答した理由を伺った。結果は以上の通りである。


1-4.考察

Q3,4では、ひとまず「学問に対する自己評価は全体として低い」「サンプルの偏りはあまりない」という結果を導出したが、Q5-7は議論について質問した。

これら三つの設問において、ぼくが特筆すべきとしたのは、「政治学科生ですら政治の話はしにくい(そして実際にしない人も少なくない)」、そして「その理由は興味がないから、のみにはとどまらない」というところである。

仮初にも世間一般ではある程度頭脳明晰とされる大学の、そのうち政治を専門に勉強している人たちですら、自分は参加する資格がないと感じているのである。これは実に奇妙だ。べつに「政治検定」みたいなものは無いと思うが、明らかに一般大衆よりは政治的知識を蓄えているはずで、4月から2年生以上の方であれば(単位を獲得できたかは別として)政治学基礎講義は履修されているはずである。(我々の受講した時には「だいぶ下駄を履かせている」とは聞かされたが…)

追記:話す機会を確保できなかったというのはある程度得心が行く。ゼミ募集の際にたまたまモチベーションが湧かなくて入部のレポートを提出しなかったり、周りにそういう話の出来る友人に恵まれなかったり、知っている例では通学に2時間以上かけていて、家でも事情でzoomに参加できないというのっぴきならない理由を抱えていたりするので、一概に怠惰なやつと蔑む気はない。そもそも大学は学問をする場所だけではないし、ともに講義を乗り切ることで出来る友達の尊さを感じたり、サークルや団体の活動に精進するものだったり、様々な解釈があってしかるべきもので、学業の一面のみを見て成績の悪い特定の個人をばかにするのは早計ではないだろうか。

しかし、この結果ぼくは、全くのパズルではない。解釈を与えるくらいには噛みつく余地のあるものと思っている。


こちらの動画の3:00~ごろからご覧いただきたい。我々が政治を学ぶにつれ、知識の見積もりが出来るようになって、それがゆえに知らない「空白」の部分の多さに自身の知識の小ささに委縮する、というシナリオが考えられる。いわゆる無知の知である。実際、アンケートの自由記述欄にそういう話をしようとしても相槌を打てるだけの知識がないので、弾ませられないという声があった。

しかし、政治学科生はもっとこういう話をするといい。なぜならあなたが知識がないとするならば、世の一般の人々はもっと知識がないし、参加の資格が知識に裏付けられるべきであればインターネット諸子百家の書き込みの大部分は封じられてしかるべきということになる。

ただ、一番あり得るだろう原因は、日本社会全体が、そういったことを話せる環境にない、というところだろう。

自由記述欄を再度参照すると、もっと自由に話せる場所がほしい、こういう話をしても右派左派といった方向に収束してしまうといった声が散見された。こういった議論がタブー視されているのもある種日本社会が民主主義から遠ざかっている一因だと考える。例えば、アメリカで言えば恋人と付き合うのに好きな政党が違うと付き合えないというのはかなりメジャーな考えであって、コロナウイルス・パンデミックというのは悲しくも人々を分断したが、こういう話を正面切ってするのは、身近なところから政治の話をするいい機会やもしれない。

ともあれ、こういった議論を好き勝手やれないような雰囲気を作ってしまったのは日本国という国にとってはかなり大きな瑕疵であって、現実に向き合って、言論空間を再度構築しないことには、その空白を縫うようにして、恐ろしい事件が再度繰り返される危険があると考えている。正面切ってこういった話が出来ないというのは、現実について、市民として向き合うチャンスを自ら放棄しているのであって、議論というのはされればされるほど論理が磨かれていくというメリットから、これらのチャンスをタブーとして放置しているのは国としては首を絞めているようなものである。


2.燃やせ(燃えろ)

先に書いておくと、別にぼくも燃え尽きていた時期はあるし、人並みに遊んだりしているから、ここから先は自戒を贅沢に含めて、来期の自分を鼓舞する(あるいは背水の陣の)意味で執筆することにする。


2-1.噛み砕く

ぼくは学部一年生時代、ほぼ全ての講義で最前列に座って講義を受けていた。なぜかは当時のみぞ知るが、少なくとも講義中一回も寝たことはなかったと自負している。

学部一年生のみ受講可能な「政治学科基礎講義」を受けていた時、前の方に座っていると、後ろの方が私語がすごくて、実際何度か教授も私語を注意していたし、ぼく自身終始イライラしながら受講していた記憶がある。

この場を借りて喋っていたやつに言わせてもらうと、君たちが寝たり、スマホをいじったりと講義を真面目に受けないのは個人の勝手だから好きにすればいいが、人が講義を受けるのを妨げる権利は持ち合わせていない。黙って遊ぶか寝るか、出てってくっちゃべっておけ。これは遠隔授業受講教室で大勢がいるにも関わらず公然と駄弁る輩も同じだ。

悪口はそのくらいにして、少なくとも学部一年・二年で講義を受けている際、質問を投げかける生徒は殆どいなかった。内容によって質問のしやすさ、しにくさが変わることが一因として挙げられるが、しかし変わっても100人以上のうちの数人であるから、受講生がみな質問しやすい講義ならするし、しにくいなら一切しないと言えるほどまでの有意差はないだろう。

現在はオンライン講義で、さらにぼくもだいぶ友人関係も固定化されてきたため、観測する対象が身近な友達かあるいは受講している講義の様子にしか現れないが、その中でも少なくとも質問に行くという目に見える積極性の現れたる行為は、態度の面から称賛されるべきである。

教授から情報を一方向的に受け取るのみならず、質問をしたり、異論があったら言葉足らずでもとりあえず言ってみて、双方向的に参加するのは生徒の権利であり役割であるとも思う。質問が恥ずかしいのであればzoomのリアクションだとか、リアクションペーパーに一言でもいいから書いてみるとかすると良い。その点今年のメディア政策論などは毎週コメントペーパーを回収し、抜粋して紹介するという手法を取っており、これはオンデマンド講義特有の孤独感を解消し、双方向性ある講義の作成に効果的と評価できるだろう。

ともあれ、質問を投げかけてみたり、教授と喋ったり、ないし授業を材料にして友人と話をすることは単なる受け手としての参加ではなく、積極的に授業を噛み砕く行為であり、言ってしまえば本学政治学科のウェブサイトに掲載されている「主体的市民」感覚の養成のための実践でもあると換言して過言ではない。

本稿のメッセージの方向性を概ね理解していただいたものとして、趣味でもなんでも主体的に参加するにはまず楽しむことが前提だ。楽しい事は当然みんなやりたいだろう。

どうせ大学で単位とって卒業しないといけないんだから、適当に単位だけ取っても単位は単位だが、目の前の講義に目を向けて楽しむ方法を模索すれば良い。幸い、弊学科は生徒数に恵まれており、同じ講義の履修者でグループを作ったりとか、仲良しグループで講義を話のネタにしてみるなどいくらでも方法はある。

無論、講義を真面目に受けない、例えばスマホをいじったり、代返を使ったりというのもひとつの選択だ。それはあなたの自由だし、自分の責任において行われるべきだ。加えていえば、先ほど記した、講義中にお喋りすることも選択であって、その自由はある。ただし、叱られる(叱られるで済んだらいいね)、追い出される等という責任を負う義務は生じる。よほどの事情がない限りは推奨はしない。

18ともなれば十分な責任能力があり、講義を受けない自由と、それによって生じる責任は認められるべきで、それは個人の自尊心を尊重するからこそ成立する自由と責任である。ただ、自分は後述する先輩A・Bを除き誰ひとりからも講義での怠慢について指摘されたことがない(※2)し、自分としても政治学科の講義がより双方向性を帯びていって、おもしろいやつが増えたら嬉しいから、こう言っているだけなのだ。

この類の楽しさは、誰か教授が今期のゼミ説明会で、ぜひ君たちに味わって欲しいと言っていたのを覚えている。

そもそも、24人もいて学問にある程度以上力を入れていると回答したのが2人しかいないというのが、かなり悲しい結果だと個人的に思う。努力した結果がどうであれ、自分は頑張ったぞと、胸を張って言えるだけの努力をした人がそこまで少ないのか。むろん、サンプル数の少なさによる偏りの可能性は否定しきれないし、もしかしたら(あるいは多くの人が)サークル・部活などに精を出していて、それはそれでいい事なのかもしれないが、それにしてももう少し命を燃やして勉学に打ち込んだっていいのではないか。これはぼくもそうだし、来期はもう少し本気で学問に打ち込んでみることにする。


2-2.美しい人

何かに全力で打ち込んでいる人というのは、気高く、美しい。それは学問に限った話ではない。スポーツに打ち込む人、何かの創作をせんとして悪戦苦闘する人、そもそも大学に通うために一生懸命バイトに励む人・・・

何かを生み出そうとして格闘している人の美しさ(すごさではなく、あくまで美しさである)というのは、ぼんやりと過ごしていては見えないし、ルックスに限った話でもない。類は友を呼ぶとは言うが、努力を覚えないと、見えない景色がある。例えば、ゴッホの「ひまわり」が、ぼくにはどう凄いのか美術学的見地から説明することはできないから、そこには「すごい絵あるなぁ」くらいの感想にしかならなくて、美術館に行っても素人ながらの解釈しかできない(そしてこれは実際歯がゆい)が、美術に通暁しているのであれば、これらにさいなまれることもないし、そして、ゴッホに本当の尊敬を抱けるはずだ。それは感性が先行したものを、きちんとした理論が支えてくれて、その感性そのものも自身の美術の努力の経験に裏打ちされているからである。必ずしも理論が底支えするとは限らないが、自身の経験から、リスペクトできる人をきっと見つけ出すことが出来るだろう。これはぼくにもいるし、必ずしも友達ばかりではないし、馬の合わないやつもいるが、ひそかに尊敬している知り合いはたくさんいる。反対に、昔からの付き合いでも、もはやリスペクト出来ぬという人だっているし、これは自身が変わっていっている何よりの証左だと解釈している。それとは別に、ただ動物的に気が合って仲良くしているやつもいる。友達を計算しすぎるとあまり精神衛生上よろしくないと思われる。ぜひ今いる友達を大切にしつつ、本物の人を探すとよい。


3.「出てこいオラ」

この動画をご覧いただきたい。少々長くて申し訳ないが、時間に余裕のない人は下に記されているシーンの数分ほど前からでもよい。

三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実

1960年代当時、学生らは学生運動に注力しており、反戦やその他政治的目的から、左翼的思想に基づくストライキなどを数々決行していた。彼ら学生団体(東大全共闘)と、『金閣寺』などで知られる三島由紀夫氏が東大にて討論会を行った、その激闘の記録が、この動画には鮮明に残されている。

そこでは極めてレベルの高い議論が行われており、認識と行動の哲学的問題や、当時の学生運動そのもの、政治的論争など、様々な論点について、後世の識者や、本人らにさまざまに解釈されている。

なかんずく、ここで注目しておきたいのが、この動画の1:00:20ごろから、その議論の最中に「観念的こじつけじゃないか!俺は三島(三島由紀夫氏)を殴る会があるというから来たんだよ」というヤジが飛んできた(※3)時に、芥氏は「出てこいオラ、やりたいならここでやれ」「遠くで見るんじゃないよ」と学生を呼びつけ、実際にその学生にも発言の(あるいは三島氏を殴る)機会を与えているのである。

そして、彼は実際にその議論の潮流に沿った批判を芥氏にぶつけ、観客席から拍手を起こした。

また、42:24あたりからの解説で、平木啓一郎氏は、「認識と行動の二元対立に、三島由紀夫は非常にこだわっている」という認識を示している。認識が先行すると、結局大したことをせずに時間が進んでしまう(解説では「戦争から生き残ってしまう」)という。過去へラベリングばかりしていても、結局動かなければ、現実は何も動かないのである。

本稿2章のはじめに自戒を込めて似たような内容を書いたが、所詮ぼくが取った平均80点台というのは、なあなあに学問をすることしかしてこなくて、認識が先行しているからこそ、中途半端な意識をああだこうだとラベリングしたがるのだ。ぼくだって偉くない。ラベリングの以前に、他人より自分自身を驚かせて、後々のぼくがその驚き(結果という情報)に感謝するような行動を起こさねばならないのだ。そして、幸いにもどのような方向で打ち込んだにしろ、スキルや、ノウハウと、密度ある人生の経験は約束される。

だからこそ、あなたには是非何かに打ち込んでほしい。状況に対して何もせず、講堂の席で傍観者面を決め込むのではなく、壇上に立って、マイクを持って、何かしら言えよ(つまり、行動せよ)。出てこい。






(※1)この質問に正答しなかったサンプルを除外しようとしたが、実行するとサンプル数が不足するため、不本意ながら省略した。

(※2)とある講義(講義Aとする)で、リアルタイムのzoom形式だったそれは、自身が興味で質問を複数したため、少し時間がずれ込んでしまい、質問の仕方を巡って友人と議論したことはある(その節はごめんなさい)。

(※3)本来の目的は、三島由紀夫氏を論破し立往生させ、最終的に切腹させることであったため、議論のパートは三島氏に暴力を振るいたかった(ないし、切腹が見たかった)人にとってはたしかに冗長に映るだろう。



補足.「後述する先輩A・B」

2-1の後半で、後述する先輩A・Bを除き…という文面を記しておきながらそこに一切触れていなかったため、ここで補足として付言しておく。

先輩AとBはともに先に触れた言論空間の消失という論点に非常に興味があり、かつその知識も豊富な、主体的に学んでこられた先輩方であって、特に先輩Aについては前に出したnote記事で紹介した通り、使命感をもってこの政治学の一連の学問をしているから、ここでそのように激励を頂いたのはとても光栄なことであるし、今期からはそれに応えたり、そもそもこの記事を証明するため自体にも、ぼく自身はいままでにないレベルで走り続けないといけなくなった。



これで、新入生の皆さんに向けて記す一連の記事は全て終了しました。ぼくも大した存在ではありませんが、一緒に頑張りましょう。またどこかで。改めまして、ご入学、おめでとうございます。

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