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「コンヴィヴィアリティ」と社会学に結びつきはあるのか

留学から帰ってきて、もう大学も四回生だから慣れないスーツに身を包みつつ、最近はひょんなことから読書のブームが来た。Twitterの文字はちょっとした知見や最新の情報を追うには良いし、娯楽性も高いけど血肉にはならない。Twitter雑学は大体バズツイートだから、そういう人文学的知見は大体みんな知っていて面白くない。

そこで最近は宮台真司の著書を趣味と卒業論文の予習を兼ねて読み漁っている。努力を環境がアフォードしてくれるというのは非常にありがたい話で、世の中別にやりたくもないことをやらされている人たちがいっぱいいる(ぼくも生活の一部はそうだ、就職活動とかは困難そのものだ、これは今度話そう)具体的には『14歳からの社会学』『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』『大人のための性教育』に手を付けた。特に、所詮ぼくも学部生だし、宮台真司も社会学も初学者だから、『14歳からの社会学』は先生の思想を理解するにあたって非常に大きな助けになった。タイトルの文面が推奨する読者に10年遅れて読み始めた……そのうち、『コンヴィヴィアリティのための道具』と、そのほか宮台真司先生(以後敬称略)の社会学を読んで、はじめてうっすらとコンヴィヴィアリティの定義に接近している気がするので、note記事にしてみたくなった。(本当は就職活動中だからこんな長々としたnote記事書いている場合ではないのだが……)

追伸:書いてみたが、リファレンスだらけになって読みにくくなってしまったので、今度もう少し簡単に書き直した版でも(気力があれば)書いてみたい。

ぼくはイヴァン・イリイチが社会学においてどの文脈で語られているか分からない。彼が同書で語る提案は非常に社会学的だが、社会学の沿革をさらうような授業を履修しても、イリイチの名前は出てこなかった。ぼくがこの単語に出会っているのも、社会学の云々ではなく落合陽一先生(以後敬称略)に感染していたころの名残だ。なるほど落合陽一が彼の思想を語るとき、製作をするとき、民藝をキーワードにする以上、ローカリティを補助線に引くとイリイチを参照に引くのも全く筋が通っている。つまり、落合陽一の作品群と製作のテーマを理解するリファレンスとしてコンヴィヴィアリティは非常に有用であると本人は示唆し、現にそうである一方で社会学の文脈だと道筋が見えてこない。別の畑の話なのだろうか?

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