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音楽鑑賞のアフォーダンス

個人的な音楽の好みの話をする。ぼくは音楽そのものというより音楽の流れている雰囲気が好きだ。それも、踊れるような奔放な場の方が祝祭を感じられてよい。かなり前にジャズ音楽をコンサートホールへ聴きに行った時、非常に厳格に、そして高いレベルでまとめられた"コンサート"だった(ロンカーターのGolden striker trioだった)。それはインプットとしては非常に良く(書いていて最悪な言い方だ)、息を呑んで見入っていたものの、不思議と心は躍らなかった。見入ってはいたんだけども。逆に、イギリス時代にスナーキーパピーのライブを観に行った時、ぼくは座席から立ち席に取り換えて、観客の荒波に飛び込んでいった。これは本当に楽しかった。オーディエンスがそのグルーヴをノることで共有している。この一体感から感じられるものは本当に快活で良かった。

さらに、ドラムの練習をするとき、フェザリング(バスドラムを4分で弱く鳴らす)が、素朴ながら訴えかけるグルーヴを作る。ドン ドン ドン ドンという簡単な4拍がオーディエンスとの一体感・オーディエンス同士での一体感を形作る。ぼくはこのビートが非常に好きだ。もともとジャズは踊るための音楽だ。かような祝祭のグルーヴがスタイルの膨張(前の記事に書いた)によって変形され、オーディエンスへの求心力を失うことは往々にしてある(ジャズがロックに人気を吸われていったというのも昔は悲しかったけれども今では納得の流れである。誰が好き好んでThe QueenのDon't stop me nowよりThe father and the son and the holy ghostを聴こうというだろうか?ポパパパパパパパパファ~)ぼくは好きですが

反転して、音楽が売れるかどうかのみを軸に考えると一番いい音楽は流行りものの音楽になるが、別に後期コルトレーンのスピリチュアルな音楽(そう!スピリチュアル!)は、精神世界の方を向いている。そして精神の世界というのは個人の領域なので、伝わらなくて当たり前になる。その極限まで個人の領域にある精神がやっと音楽にでてきた、というか搾られて外の世界に顔を見せたという言い方をした方が近しい。音楽は売るため、という風に十把一絡げに把握してしまうとそれはそれで気持ちが悪い。音楽のセールスにはそのような雰囲気が瀰漫している。

つまり、ぼくは音楽そのものよりも音楽の鑑賞の態度を規定するアフォーダンスの方に価値を置いている。席に座ってじっと聞くのと、立ち席で踊ったりするのは全く異なる。前者は黙ってパフォーマンスに集中してほしいだろうし、後者は踊ったりノったりコールアンドレスポンス等して自由に楽しんでほしいだろう。実際の音楽にはそれ以上に目的がある(例えば何かのパフォーマンスの彩りとして音楽を置いている場合もある)が、祝祭と解放、かりそめでも同一を得ることを考えれば、ゆったりとした音楽の鑑賞態度というものはなかなかに心地よい。日常は窮屈だ。内圧を解放する場として、音楽のネイチャーは未完成であってよい。オーディエンスの参入する余白があっていい。

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