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雪が竹の葉から落ちるように

就職活動も佳境に差し掛かっている。ぼくは留学からの帰国が6月だったうえ、6月はドタバタして、結果的に腰を据えて就職活動に励むことが出来るようになったのは4年生の7月からという、おぞましい経過を辿っている。就職活動というものは一般にはその一年以上前から考えて動くものだといわれている。しかしそれをスタンダード化すると救いのない人たちもわんさか出てくる。

しかし望みが全くないかと言えば実はそうでもない。現にぼくは面接に、エントリーシート提出に、オンライン説明会の参加にせわしなく動き回っている。10月を過ぎるとより一層厳しくなるという話を友人伝いに聞いたので、なんとか今月中に就職活動は終了させたいのだが。というより、就職活動は「終わらせる」ものではなくよりよいマッチングを達成させるものだから、10月を過ぎてもやっているところに参加出来て、それがぼくのやりたいことをやっているのであれば、別にぼくとしては10月を過ぎていてもなんだっていいんだけれど、企業の方が採用を終えてしまうので…
ところで、こういう感じの話をしてもよかったり、文章を書かせてくれたりする企業様が万一いましたらお声がけください……英語喋れますので……御社の役に立ちますので……


チーズを作るネズミ

就職の面接に臨むにあたって、「弊社に入って実現したい目標やビジョンはありますか?」という質問を非常に頻繁に聞かれる。ぼくはあるので答えているが、これの有無が合否に大きく関わるとしたら、こんなのは全く好ましい風潮ではないと思った。
人間が自分の意志によって達成できることは少ない。たまたま普通の人間が、努力するように偶然仕向けられて、それに偶然のっかることのできた人間だけが何かを成し遂げる。その中で頑張りすぎて心身を壊してしまった人、頑張ろうにも環境が用意されていなくて結果を出せなかった人、世の中には頑張りたくたって頑張れない人がいっぱいいる。逆に、今まで鳴かず飛ばずだった人が何かに出会って覚醒するということもいくらでもある。ぼくは前者には同情しつつ、その後者については非常に大きな期待を抱いている。

「恋するネズミ」という短編のアニメーションがある。

チーズ好きのあまりチーズしか食べられなくなったネズミと、ネズミの恋する極上のチーズ、そして牛舎から脱走してきた牛の物語だ。ネズミは命からがらチーズと脱走を遂げるのだが、チーズしか食べられないネズミは街の食料に手を付けられない。あまつさえ街中のチーズはしばらく販売中止だ。そこで、脱走して気を失った時に助けてくれた牛の乳を使って、チーズを作ることを決意する。

しかし、牛の乳は美味しくない。牛舎にいたころは、乳を搾られてはまずいとぶたれていた。極上のチーズを見て牛は過去を思い返す。それでも、ネズミはチーズしか食べられないから、牛の乳を使ってチーズ作りを始める。極上のチーズの身体が腐っていき、ついにはチーズの方から食べるように懇願され、好きだったチーズを食べて「好きな女を食べてしまった…」とショックを受けながらも、チーズ作りは順調に進行していく。そしてついにチーズは完成した……!

ところが、チーズを食べると、ネズミは見事にマーライオンした。チーズの作りは最悪だったのだろうか?
牛がこれを続いて口にすると、今までチーズを作っていたのではなく、バターを作っていたことに気づく。それも、極上のバターを。

「私は落ちこぼれじゃなかったんだわ」「私のお乳はバター向きだったのよ」と、牛は涙を流す。ついでに、極上のチーズはかじられ続け、その間をバターで修復された結果、ほぼバターになっていた。乳製品版のテセウスの船である。


偶然の出会い、生へのドライブ

ここから見えることは、牛はチーズ工場では役立たずとして虐げられていたのだが、最終的にバターは高く売れて、ネズミのチーズ代を賄えるようになった。つまりもともと才能はあったのだが、それを見出されることがなくて眠っていた。そこをネズミのチーズへの意志と、偶然の失敗が牛の秘めたる才能を掘り起こした。牛は駿馬ではあったが伯楽に見つからなかったのである。

ぼくが思うに、つまり結果はすべて意志でコントロールできるものではない。偉人伝なんかも読んでみれば、幼少期にやりたいことと、実績を立ててぼくが書籍として読んでいる理由が全く異なっていることも多々ある。偶然の出会いが人の才能を掘り起こすし、運命という巨大な渦の中にぼくたちはいる。生きていて環境が合わなければすぐさま変えればいいし、今がダメだからといって後先もダメということはない。“If I am worth anything later, I am worth something now. For wheat is wheat, even if people think it is a grass in the beginning.”というゴッホの言葉を引かせてもらう。

同時に、最近ぼくは禅の勉強をしている。とはいえ実践者ではなく、ただオイゲン・ヘリゲルの『弓と禅』を読んでいるだけなのだが(ざっくり言えば、著者が弓術を通じて禅の思想を理解しようとする話)、阿波研造の教え(teaching)に従えば、"The shot"が、射手の手から"fall"するのだ。自分が打つのではない。緊張がその頂点に達した時、意識せず、自分たちよりはるか巨大で、悠然と流れている自然に身を任せる。竹の葉っぱから雪が落ちるように、自然の摂理に身を委ねる。自然の摂理として、そうなる(The shot must fall)。自分たちよりもとてつもなく大きい存在への合一というエロティシズムが生へのドライブをもたらす。

確かに意志は大事だが、運命というか、もっと巨大なものに身を委ねるのもこれまた生きるための知恵だ。巨大な流れに従ってみて、その力学の中で自身の意志を発揮することに道がある。離岸流に流された時、流れに逆らって、岸に向かって直角に泳いではならない。自然と合一してアフォーダンスに身を任せる。人為と自然のレンダリングする方にピントが合う。

ぼくの場合、今就職活動に力を入れるのも、アフォードされた意志だ。しかし採用活動のタイミングという自然は大きい。その流れの中では好きなように泳げる。存外与えられた自由は多分にある。意志やビジョンが今なくとも、生きているうちに自然の流れが出会いを導くこともきっとある。まずは生きねば。

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