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唯物論的把握

最近講義で唯物論という言葉を聞いて非常に便利かつぼくの思想に親和性の高い文言であるのでメモとして残しておく。

唯物論というのはそのものがそれそのものとして特に意味があるわけでもなく存在しているということだ。対極に位置するのが目的論で、何かを特定の方向へ意味付けされるということだ。

ネイチャーというのはそれそのものとして存在する。それは深い意味はないのだ。たまに人間は劇場的(物語的)に何かを把握しようとして、何かストーリーにとって意味がないと無駄という言葉を使ってそれを捨象しようとするが、本来目の前に見えているものはそれそのものとして存在しており、人間の発明は何かの延長たるメディアとして発明されてはいるけれども存在そのものはそれ以上の意味を持たないのだ。ナイフは人が振り回してナイフとしての機能を果たす。換言すれば、それは人間がナイフを振り回して他人を傷つけたり野菜を切ったりしようとする認識と意志にナイフをナイフとしての道具の役割を果たす道具として使おうという意識がある。ナイフは作られたとはいえ、純然たる、そういう形をしたオブジェクトとしてのみ存在する。それをナイフとラベリングして振り回す人間がオブジェクトを目的論的に把握して特定の用途に仕向けていると見える。

ネイチャーは唯物論的に存在する。それは振り回されるのではなく、何かを目的として向かっているのではなく、外見上はネイチャーはそのまま自然としてgivenな存在として目の前に屹立する。
こうすると意味のない何かに意味を見出そうとして四苦八苦しなくてよくなる。例えば難解なアートを目にしたとき、別にその深遠な意図を読み取らないといけないという規範から解放される。難しい舞を舞として見られる。分からないものは分からないのだ。それをそのままにしておく勇気をネイチャーの自然、その摂理は与えてくれる。

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