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休日のメタバース化と生まれてきた理由

みなさん休日はどのようにすごしていますか。休日となると、予定を立てて家のメンテナンスをしたり、出かけておいしいもの食べたり、買い物したり、映画見たりというイメージでしょうか。いっぽうで、何かしないとなと朝から考えてつい昼寝しまってもう夕方で一日何もしていない今日は充実していない日だったっていう休日の過ごし方もする日もあるでしょう。そんな日は、何となく体が動かない日は、体が無意識に休みを求めているということかもしれないので、それでそれはありなのかなと最近考えるようになりました。

お出かけを例えばするとして、誰かとの移動中の会話とか、思い出を共有するということはかけがえのない思い出になりますが、買い物であればネットで買った方が種類が豊富で安かったり、映画をみるにしても映画館は一時停止ができなかったり、移動時間やスタート時間が決まっていたりと、そのやること自体に関してコスパが悪いとも言えます。インターネット社会になり、最近はメタバースという概念についても議論が進んでいますが、メタバースとは簡単にいうとネット上で大勢の人が一堂に会して何かできる仕組みです。メタバースがどんどん進むにつれて、コスパが悪い休日の過ごし方は排除されていくかもしれないです。そのいっぽうで、最近のズーム会議をする中で、雑談がないというのが問題視されますが、そのような部分がもしかしたらメタバースは弱いかもしれませんので、リアル体験で一見無駄にみえる行動を補完していくということが起きそうです。ここまでは、休暇の過ごし方が変わるかもしれないという話。

休日が何かしないといけないのかということも考えたほうがいいです。先ほども書きましたが、無意識に体が休みを求めて一日ダラダラ過ごしてしまうというのはあるので、それはそれでネガティブに感じず肯定的に捉えればいいと思います。でも。小さいころから例えば夏休みになると親から一日一日を無駄にならないように過ごしなさいと言われると思います。何かしないといけないという強迫観念はそういった体験から不随していると思います。今日はどういう日だった、とか何か今日生きた理由のようなものを求めている、その根底にあるのは、人間一人ひとりというのは、何か生まれた理由があって、使命があって最後に生きた証を残さないといけないという思想です。でも実際は、私たち人間もすべての動物が一緒で生まれた理由なんてない。自分の先祖が生殖行為をしたから生まれたそれだけです。生まれた理由を考え始めると、理由がなければ生きていてはいけないかのような思想になり、宗教にすがってしまうわけです。何か歴史に名を残して、ずっと思い出してもらわないといけないこともない。偉い人間になる必要もない。みんなほとんどが特に思い出されることもなく一生を終わる。それを寂しいと思う人はいると思いますが、それは人間が本能的に 他人に必要とされ一緒にいないと不安になる生き物だからです。集団でいることを武器として生き抜いてきた本能ですから簡単に払拭できないです。小さいコミュニティでも生きていける現代では、大きいコミュニティのために貢献することより、自分と自分の家族や友人の為、せいぜいダンバー数(人間が安定的な社会関係を維持できるとされる任数の認知的上限)の人ぐらいに生きているぐらいがちょうどいいのではないかと思います。

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