"帰国した"というより"脱出してきた"のほうが近かったワーホリの最後
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こんにちは、ナカジマミ(@nakajimami34)です。
前回更新から荷物をまとめて23日にオーストラリアを発って無事帰国していました。
早朝の到着だったにもかかわらず両親が車で空港まで迎えにきてくれました。親のありがたみよ…
帰国してからはなんだか家に置いていった物のほとんどが不要な物のように見えてしまって怒涛の勢いで部屋掃除をしていました。
前回更新後の23日正午から街が軽めにロックダウンするとの情報を聞き入れ、前の日の晩にメルボルンの住宅街の一角にある部屋の片隅で震えながら時が流れるのを待っていました。
というわけで9ヶ月半に及ぶ私のオーストラリアワーキングホリデーはなんとも言えない形で終了です。
セブ島に3ヶ月、オーストラリア9ヶ月半で合計約1年と半月の私の長くて短い旅はこれで終わりです。
今回はセブを含めて私の旅路を振り返っておこうと思います。
セブ島での3ヶ月間
学生生活でまともに英語の勉強をしたことのなかった私は手頃な値段でマンツーマン授業が受けられると評判のセブ島留学を2019年3月〜5月下旬くらいまですることにしました。
期間もどのくらいやるか徹底的に調べて、マンネリ化しないギリギリのラインの3ヶ月間(12週間)行くことに。
初めての海外長期滞在で初めて実家を出ての生活でとにかくドキドキしていました。
海外の空港を1人でウロウロすることもこれまでほぼ無かったのでワクワクと不安で頭のなかはぐちゃぐちゃ。
セブ島に着いたのは夜遅く、でも語学学校の送迎バスが来ていたのでなんとか合流して周りのみんなは早速友達作りに励んでいました。私は送迎バスの中でぽつんと外の景色を眺めていました。
あの時見たセブの夜の景色、割とカオスでした。
心の中で「とんでもないところにきてしまった…」と思ったことを覚えています。
他人と同じ部屋で共同生活を送ることも初めてですごくドキドキしていた。
3人部屋を選んだのですが結果的には当たりでした。
部屋に入ったとき、見た目完全に男の子な台湾ガールが迎えてくれて
あぁ、入れられる部屋間違えられたんだ…って勝手に花男(みたことないけど)的な展開を想像していました。
3人部屋で初めて異国のルームメイトと生活して文化の違いを肌で感じたり、英語の勉強を教えてもらったり、遊びに行ったり。100%言葉でお互いの気持ちが通じ合わなくても共感したり相手の言いたいことを理解したりってできるんだなと二十数年の人生で新しい発見ができました。
他にも日本人のお友達もできて、年下から年上までみんな分け隔てなく接して英語の勉強という1つの大きな目標を持って生活を共にするのが楽しかったです。
私の場合、どちゃくそにビギナーだったため年下年上関わらずみんなが英語を教えてくれて助かりました。プライドのない人生でよかった。
授業に関してはただでさえ慣れない環境なのに最初のグループ授業の内容がわからなくて変な汗でたり、初めてのマンツーの先生がめちゃくちゃ怖くていきなり怒られて次のマンツーのクラスで号泣したりしてメンタルボロボロでした。畳の画像みて泣いてたのは伝説。
台湾ガールを始め、ここで出会ったお友達とは今でも連絡を取り合うほどの仲になったのでとても素敵な3ヶ月間だったなと思います。
時期によっては遊び目的の人もいますが私の場合は運が良くて日本人のお友達でも英語の勉強を第一にしている人が多かったので遊びに行っても英語関連の話をしたりすることが多くてホクホクしてました。
セブ島留学に関しては先生の訛りが〜とか色々聞きます。でもオーストラリアの語学学校も通ってみた私からしてみると断然セブの方が効率よく勉強できました(完全英語ビギナーの意見です)
セブの語学学校は寮も3食も生活に関することはすべて含まれているのでほんとに勉強に集中することができます。しかも学校と寮がくっついてる場合が多いので移動の手間がほとんどないです。
勉強の他に考えることといったら週末何するか考えることくらい。
オーストラリアの語学学校ではお勉強の他に家探ししたり、シェアハウスに移ってからは自分のご飯のことや仕事のことなど色々他に考えないといけないことが多くて勉強一本!みたいに集中することは難しかったです。
セブでは夕方までみっちり授業を受けたあと夕飯まで授業の復習をして夕飯のあとは宿題や小テストの勉強をしたりしていました。
今考えればすごく贅沢な時間でした。
あとはマンツーマン授業がすごいです(語彙)
オーストラリアの語学学校でも答え合わせや問題解き、スピーキングの練習など横に居る生徒とのペアワークが多かったのですが「これが正解なのかわからねえ…」現象がめちゃくちゃ多かったんですよね。
先生に聞こうにも生徒数が多過ぎて答えを得るまでにめちゃくちゃ時間がかかる…!
文法でブラジルの子とめちゃバトった記憶があります。絶対間違ってるのにこれが正解だ!!!!!!って押し切ってくるからまじであぶねえ。
マンツーマンなら先生独り占めなので文法からなんでもかんでも自分の聞きたいようにできます。先生に不満があるなら変更しちゃえばいいのです。
周りのお友達やなんなら信頼できる先生におすすめを聞けばいい先生を教えてくれます。
セブのグループレッスンも最大6人とか8人なので周りのみんなとガヤガヤしながら答えを考えたりみんなまあまあいい歳なので間違えを恐れずにバンバン言えたりいい環境でした。
たぶんこの時間は人生で一番勉強した時間だったんじゃないかと思います。
学生のときよりも学生してて勉強して遊んで笑ってふざけて。排ガスとか環境的な問題はかなりありましたが今思えばいい思い出です。
このときは台湾までビザランしたり近くのシキホール島に遊びに行ったり旅行もたくさんできました。
でもまたセブ島留学したいかというとそれはちょっと微妙な気がします。
あの時あの瞬間が完全に再現されるならまたやりたいですけど
何もかもが初めてで新鮮で素敵な出会いがあって素敵なクラスメイトが居て素敵な先生が居てってもう一度行くのはたぶんこの時のギラギラした濃い時間をもう一度味わいたいからな気がするんですよね。んでもう一度行って微妙だったりするとすごくがっかりしそうなので行かないです。
次行くならフィジーあたりがいいんじゃないですかね。行かないけど
帰国のついでに台湾ガールとその彼女と香港旅行に行ったのも楽しい思い出です。
最近はもはや台湾"ガール"と呼ぶのも不適切なのでイアン(イングリッシュネーム)と呼ぶことにします。
このイアンとの出会いもこれまでの人生には全くなかった出会いでした。
彼は戸籍や肉体的な性別以外は完全に男性で、でも同じ部屋で過ごしてて自分のことを堂々と男の子だと言い切って周りの台湾人の友達もそれを当たり前のように受け入れてて、これがきちんとしたジェンダーの受け入れ方なんだなと目の前で学びました。
私も彼のことは異性だと思って接しているのだけれど普通に一緒に部屋で過ごしたお友達だしお家に遊びに行きたいし旅行にも一緒に行きたいし彼女を紹介されたり破局の話を聞いたり若干アプローチを受けたりふつーーにお友達と同じように遊んでいるけれど扱いは完全に異性だったりとすごく不思議な感覚です。
新時代だなって感じがします。ちなみに彼、1年ちょっとの交友関係の間でも3人くらいの女の子と付き合っている様子を確認できたほどに割とプレイなボーイです。
話は逸れましたがセブでの思い出は1年経って苦しい思い出が完全に消え去ってしまったのか今はキラキラとした綺麗な思い出になっています。
セブからの一時帰国
セブからオーストラリアへ行くまでの間、約2週間一時帰国しました。
この間はオーストラリアへ行くまでの準備を整えたり、これまで日本で仲良くしていた友達に会って遊んだりしました。
地元横浜で遊んだり鎌倉へ小旅行へ行ったり
ああこれから長い期間いなくなるんだなーってじんわりきていました。
あとは最後に髪の毛を切ったり身なりも整えておきました。
かなりスケジュールがミチミチだったので忘れ物が異常に増えていた記憶があります。
オーストラリア・ブリスベンでの記憶
セブ島での英語下準備を終えた私は意気揚々とオーストラリアへと6月の中旬に旅立ちました。
友達が成田空港まで送ってくれて、その時間がすごく楽しくてちょっとだけ日本が恋しくなってしまったけれど95%くらいはこれからやってやるぞ!行くぞ!って気持ちでした。
ブリスベンではまず4週間ホームステイをしました。語学学校も8週間申し込みました。
ホームステイはすごく楽しみにしていたのだけれど正直微妙でした。
部屋もまあ十分な広さでデスクと椅子も良くて何よりオーストラリア滞在期間中最もベッドがふかふかでした。
インドネシア人のお母さんとイギリス人のお父さんと小さな女の子がファミリーでした。
お母さんがスーパーおしゃべりで色々話してはくれたのですが私の交友関係にまで口出ししてきて正直うざかったです。うるせーな!って思ってた
お父さんは人見知りで、ご飯作ってくれてありがとう!とか言っても「フッ…」みたいな。まあイギリス人っぽいっちゃあぽかったですが。
一人娘はいつも怒られて泣いてた。あれは親の監視がうざすぎて高校生くらいでちょっとハジけるやつだってすぐにわかりました。
語学学校ではセブでの先生独り占め学習法が身に染みていたためなんだか無駄な時間が多く退屈でした。
レベルチェックテストでチキってレベルを下げたこともあって前にやったことあるやつだーー(進研ゼミ)な状態でした。
でもここでも国籍問わず友達ができて、この後の生活でも近況を報告しあったり情報交換したり一緒に暮らしたりと、この学校がなければ築くことのなかった交友関係がたくさんありました。ここはもはや人脈作りステーションだったと割り切っています。
あと節約のためホームステイ期間のお昼は毎日ヘナヘナのホットサンド食べてました。わりとトラウマ
ホームステイと学校を並行しながらシェアハウス探しもしました。
2件ほど下見をして日本人の奥さんとオージーの旦那さんの家に住むことにしました。
ここでの生活はすごく快適でした。部屋も綺麗で広くて。
今振り返るとオウンルームできちんと生活していたのはこれが最後でした。
途中肌荒れ治療の薬でアレルギー反応を起こして顔ボッコボコになって発熱して部屋で1人意識失いかけたのは強烈に記憶に残っています。あれはすごく怖かった。死ぬんだと思った。
あとはずっと1人だったから誰にも邪魔されず映画観まくった記憶があります。ある意味とても有意義な時間でした。
さてそんななかブリスベン滞在中に私をずっと悩ませていたことがありました。それは
仕事探し
人生の中で一番悩んだであろう仕事探し。
ブリスベンで唯一履歴書を持っていったのがサーティワンアイスクリームでした。
これ、どの友達に話しても「なんでサーティワン!?」って反応が貰えるのでいいネタになりました。家から近かったんだよっ
そもそも、シティで暮らしていくことに疑問を抱いていた私はこのことを相談に行くとエージェントからWWOOFを紹介されました。
このWWOOFが私のワーホリ生活を大きく変えました。
「シティやだ!田舎で暮らすもん!」と異端感出したかった私が選んだのはタスマニア島でした。
タスマニア島、このワーホリnoteの後半に登場した友人BTが語学学校時代にここは絶対行く場所なんだ!!と言っていてそこから興味を持った土地でした。
語学学校を卒業したあとは部屋に篭ってWWOOFホスト探しをしていました。
冬の時期だったため何軒か断られてしまい絶望していたのですが、そんななかあのおじいちゃんとおばあちゃんは受け入れてくれました。
タスマニアへの出発まではひたすら部屋に篭ってネトフリ三昧していました。あとスイッチで妖怪ウォッチもいっぱいした。
学校ももう通ってなかったため久しぶりに友達に会って話したら「会話だ…」って感動して涙が出そうになりました。
ブリスベンは2ヶ月半弱滞在しました。多分もう行くことはないと思います。あそこは観光で行くところでもないです。なんもないですから(失礼)
タスマニア島での半年間
タスマニア島でも引っ越しに引っ越しを重ねていました。
なんだかんだワーホリ生活で一番滞在期間の長かった伝説のゲストハウス(正式にはB&Bって言うんだと思います)は一生忘れることのない思い出です。
空港まできちんと迎えにきてくれたおばあちゃんが運転する車に大荷物のせて家まで向かったときの記憶は鮮明に残っています。
ブリスベンでの生活から一変。窓の外をみても山山山。どこを見ても山か海か草か木か羊と牛しかいない。そんな世界
もんのすごい大移動かましてきたんだなあって全身で感じました。
ゲストハウスでの生活はほんとに体力との戦いでした。
金に目が眩んだ私と友人Kちゃんはファームの仕事とWWOOFの手伝いを掛け持ちしてお金を荒稼ぎ。いやー儲かった
ファームの仕事はすごく楽しかったです。カジュアルジョブの合法賃金で働けたうえにほぼ週5フルタイム。忙しいときは週6のときもあって、祝日出勤だった場合はダブルペイでうまうまでした。仕事内容も座りながらひたすら機械に苗を放り込むかトラクターのあとを追いかけるだけでした。おしゃべりし放題。
コンディションによってはしんどい日もありましたけど他のファームジョブに比べたらむっちゃくちゃに楽だったと思います。
中国人の同僚もみんな優しくて面白くてとてもいい出会いができました。
苗植え班のボスであった優しいおじさん(やさボス)との出会えたこともとても良い思い出です。
やさボスからクリスマスプレゼントでもらったマグカップや小さなウォンバットの置物は大切に持って帰ってきて飾っています。
日本で就職したときに「もう外仕事なんて一生やることないだろう」と思っていたのですが人生なにがあるかわからないですね。
でも都会の喧騒から抜け出して遠くの山々や海、雲を眺めて雨を予測したりして仕事をするのは私にとって、とてもいい経験でした。
自然の中で仕事をするのはとても気持ちよかった。
一方WWOOFの手伝いは大変の極みでした。
平日は午後までファームに行って帰ってからは次の日の昼食作り、少し休憩して夕飯を食べてからは食器洗い。団体客が来たり、忙しい日は平日でもお構いなしに大仕事。
最初の1ヶ月ちょっとまでは空いてる客室に住めていたのですが繁忙期になってからは住む場所が倉庫の一角になってしまい本当にしんどかったです。寒いし。虫大量発生してるし
やや鬱憤が溜まっていたころに謎の健康団体が3泊4日くらい滞在してずっとレクリエーションしてどんちゃん騒いでいてこの時が疲労のピークでした。
しかも当時極悪インド人社員夫婦からおじいちゃんおばあちゃんにバレないようにこき使われていたのでストレスはマックスに。ほんと後ろから鈍器でアタックしてやろうかと思った
どう思い返してももう倉庫には住みたくないです。
今後の人生、もう倉庫に住むようなことがないようにしたいです。倉庫には住まないほうがいい。というかよく当時やってたなって思うほどです。あのときはもうエクストリーム状態だった。
ちなみにタスマニアに移ってからは食べ過ぎによる嘔吐と歯の詰め物が取れる現象が2回起きました。合計3回ローカル病院アタックチャレンジをしました。
歯の詰め物なんかは説明が楽なのであとは治療に身を任せ…って感じなんですが嘔吐で胃がやられた時が本当にしんどかった。Google翻訳が存在している現代に生まれてよかったです。
色々と辛いことがWWOOF時代にはありましたけどおじいちゃんおばあちゃんには相当良くしてもらいましたし生活のアドバイスをたくさんもらったり馬に乗せてもらったりとたくさんのことを経験させてもらいました。
自然のなかでいろんな人や動物と共存して綺麗な空気を吸って暇なときはぼんやり遠くの景色を眺めて。よく晴れた夜には外に出て星を眺めて。
すごく素敵な生活でした。ここでの生活を通して自然が大好きになりました。あと私の衛生観念レベルが半端なく下がりました。
メインの繁忙期がきてインド人にマックスこき使われることを恐れたのとその時ちょうどウルグアイ三銃士がやってきてパーリーな彼らと倉庫で共に過ごすことを極度に嫌がった私たちはこのWWOOFの家を出ることにしました。
お別れの時にめちゃくちゃ号泣した。
家のみんなにバレないようにシェアハウスのインスペに行きまくってたのはいい思い出です。ファーム→インスペ→WWOOFの手伝いをしていたので疲労で死ぬかと思った。
シェアハウスに引っ越してからはあまりにも自由な時間がありすぎてびっくり。
シェアハウスのオーナーはとてもフレンドリーでご飯を食べにいったりブッシュウォークをしたりしました。
インスタを交換していたので帰国した今でも交流は続いています。
しかもこのオーナー、(遊びに)忙しい人なのかほっとんど家に居なかったのでほぼ一軒家貸し切りみたいな状態でした。
ここまで何度も引っ越しを繰り返してきましたがついにここでは友人Kちゃんと同じベッドで寝ていました。
最初のほうは余りにもベッドが揺れて寝付けなくて「この先寝不足で死ぬんじゃないか!?」と思ったのですが人間てすごい。そのうち眠れるようになりました。
というか今考えたら友達と同じベッドで2ヶ月近く過ごしてたのすごい…もうできない。
土日もゲストハウスの手伝いをしなくて済むようになったので週末はタスマニアの各地へ出かけるようになりました。
ブルーニーアイランドやローンセストン、マリアアイランド、ヒュオンでキャンプなどタスマニア総仕上げに取り掛かりました。
この時のキャンプで友人Kちゃんが焼いた生焼け肉を食べてカンピロバクターに感染し一週間近く相当辛い思いをしたのは今後何年経ってもいい思い出に昇華することはないと思います。本気のトラウマ。
それからファームを辞めるのとほぼ同時にシェアハウスも出ました。
ホバートで少し準備を整えてからKちゃんと別れて、シドニーで合流した両親と思い出のタスマニア旅行へ行きました。
国立公園や各地の観光名所など色々なところへ行って様々な景色を見ることができました。
今思えばこれがワーホリ締めの旅行だったのかもしれません。
両親と別れたあとはブリスベン時代の友人BTと合流してホバート近郊を案内したり車の売却に取り掛かりました。
タスマニアを出る時に乗ったスピリットオブタスマニアで激酔いして本気で吐きそうになったなあ…これまで経験したことのなかった船酔いで地獄の世界でした。
タスマニアでの思い出は本当に色濃くてオーストラリア以上にタスマニア島が大好きです。
タスマニアの人はみんな優しくて気さくで大好きです。タスマニアの自然や生き物も大好きになってこれをきっかけに自然の景色や植物を見に行くことに興味を持ち始めました。
なんとなく始めたトレッキングも楽しくって1人で歩きに行ったりもしました。
タスマニアで見た景色どれもがほんとうに大切な記憶です。
おじいちゃんおばあちゃんを始めファームで出会ったみんな、シェアハウスのオーナーみんな大好きです。(インド夫妻とウルグ三銃士は記憶から消してください)
間違いなくタスマニア島は私の第二の故郷だと言い切れると思います。半年しか居なかったくせになんだよって感じですがタスマニアの人たちは私がこうやって言い切ることを喜んでくれると思います。
タスマニアに残っている中国勢のみんなは「またおいでね。来るときは連絡してね」と言ってくれました。「次行くときはハネムーンで行くから」と言うと爆笑してきました。どうか信じて期待していてほしい。
タスマニア島にはまた必ず行こうと思います。今度は白煙の出ないレンタカーを借りて。
メルボルンでの1週間ちょっと
タスマニアを出た私はとりあえず近くのメルボルンに流れ着きました。
メルボルンでの生活は自然の景色からいきなりシティの景色になって少し戸惑っていました。あとずっとバッパー生活で若干の窮屈さも感じていました。
次はどこへ行こうか悩んでいた時におさかなくんというタスマニアファーム時代の友達に会いました。
おさかなくんは大人しそうな見た目とは裏腹に異常な行動力を持っていてシェアハウスを見つけるまでの間、車中泊で過ごしたり(恐らく違法です)オーストラリアワーホリでいきなりタスマニア島を選択してくるようなハイパー野郎です。
その時なぜかおさかなくんは熱心にニュージーランドへ行くことを勧めてくれました。
この時私の中の何かが閃いてニュージーランドへ旅行に行くことを決意します。
(これが後にものすごい大変なことになります)
あっと言う間に次の日にはNZeTAを申請してNZ行きを決めてしまいました。
たぶん早くメルボルンから移動したかったんだと思います。
メルボルンで過ごした日々を否定はしないですが1人でプラプラすることろでもないなと思います。あと私のような「自然と共に生きる(ドンッ)」みたいなこと言っている奴には向きません。
余談ですが横浜市民の市民性としてちょっと東京を舐めてるみたいなところあるんですよね。私だけかもしれませんが
「横浜だったらオッシャな景色のなかでお買い物もカフェも行けて横浜で全部揃うのになんでわざわざ東京行くん?」みたいな
つまりそういうところなんですよね。発展しすぎてる都市を見るとちょっと舐めちゃうみたいな。横浜市民(私)はライブとか限定の何かなどよっぽどの用事がない限り渋谷とか絶対行きませんからね。いやいや人居すぎwwこんな狭い空間でww横浜で事足りるwwwファーwwwみたいな。すいません言い過ぎました。
ちなみに中央線沿線は好きです。
そんなこんなで早々にメルボルンを去ることにしました。
ちなみにメルボルンでiPadPro買いました。これ最近のエレクトリックな買い物で1番のいい買い物です。免税で150ドル近く返ってきたので購入から60日以内に帰国する予定のお絵かきマンはこれほんとに買ってほしい。
悔いの残ったニュージーランド1週間
さて2020年は3月12日から29日までニュージーランドへ旅行に行くことにしました。
もうそれはそれはワクワクで9時間前に空港に到着したりしてました。
出発する時点ではまだオーストラリアは平和でオージーのお友達もクライストチャーチに遊びに行ったりしている状況でした。
深夜便の飛行機に乗って若干酔いながら眺めた外の景色は星がキラキラしていて山岳地帯には雪が多く残っていて震えながらも「こ、これ〜〜〜!!!!」となった記憶があります。
クライストチャーチで3日ほど滞在して旅行の予定を立てていざ出発。
最初に立ち寄ったテカポ湖はほんとうに美しくてずっと頭の中にキラキラの景色が残っています。
ほかにもトレッキングを楽しんだり、美しい夜の星々に涙目になったり。
でもこの最中に例のコロナウイルスの影響でオーストラリアの状況が激変してしまってNZ旅を中断してオーストラリアに戻らざるを得ない状況になってしまいました。
様々な海外旅行者に出会ってみんなてんやわんやしていました。
この先見るはずだったマウントクックの景色、クイーンズタウンの美しい湖の景色、ミルフォードサウンドでクルーズ船に乗りながら雄大な山々を眺めるはずだった。ダニーデンに行って静かな街で数日過ごすはずだった。
この先自分が見るはずだった素敵な景色を想像するだけで悔しさと悲しみでいっぱいです。
でも世界の危機敵状況ゆえ仕方のないことだと思います。
とりあえずテカポ湖の景色を見れただけでもよかったと思うことにしてNZを去ることにしました。
メルボルンでワーホリ最後の数日間
20日へと日付が変わりそうな頃になんとかメルボルンに戻ってこれた私は夜明けを待って銀行から現金をおろし&海外送金をして預けていた荷物を引き取りました。
メルボルンの人はみんな冷たいなァと思っていたのですが最後に滞在していたエアビーのオーナーが優しくて色々気遣ってくれたり帰国後も「ちゃんと帰れた?」と心配してくれてすごく気持ちよく帰国することができました。ここで受けた恩は他の人に返せるように道徳的に生きようと思います。
日本への帰国便を待っている間の3日間は自主隔離義務があったので部屋から出ることなく荷物まとめたりnote書いたりYouTube観たりしていて「これでいいのか!?私のワーホリの最後!!?!」と思ったのですがそうする以外なにもできなかったのでひたすら虚無でした。あと買い物にも行けずギリギリの食材で生活していたので常に空腹でした。最後にUber eatsで中華食べちゃったよ
お洋服とか欲しいものあったので買って帰りたかったのですが行動制限が付いてたうえに最後はロックダウンでお店も閉まることになっちゃって。やっぱり欲しいものは買える時に買っておかないといけないですね。"帰る時"にではなく
またこのときは状況がみるっみる変わっていて本当に帰国便が飛ぶのかとか全然わからない状態でした。
しかも大使館とかエージェントからもバンバンメールが来ていて本当に怖かったです。
もーとりあえず日本の友達やお姉ちゃん(返信が異常に速い)にラインしたり、万が一タクシーが使えなくなったりした際に一生のお願いを使おうとおさかなくんにコンタクトを取っていたりしました(当日普通にDiDiもUberも動いてたので一生のお願い使わずに済みました)
インスタでも他のワーホリ仲間と情報交換したりしてお互い落ち着かせていました。
今思い返すとあれが人生で一番怖かった時間でした。経験してきたどんなものよりも怖かった。
メルボルンの空港から国内線でシドニーへ移動して無事24日に東京の空港に帰ることができました。
国内線に乗っていたときに両サイドのおばちゃんに「Stay Safe」と言われたり「日本に帰れて嬉しい?」と聞かれて困ったりオージーまじ気さく過ぎてありがとうほんと。
シドニーでは国内線から国際線に乗り換えるカンタス専用のバスに私と運転手とパイロットしか居なかったり。
シドニーの免税店で悔しさいっぱいのなかお買い物を楽しんだりしました。
帰りの飛行機のなかでは映画も観る気にもなれずさっさとご飯を食べて爆睡しました。
ワーホリを振り返ってみて
疫病騒ぎで大変なことになる前まではワーホリ順調で悔いなし!って感じだったのですがやはりNZ旅行を完遂できなかったことと、このワーホリで最大の目標にしていたパースに行ってクオッカワラビーに会うというミッションをこなせなかったことが悔しくて仕方ないです。
ブリスベンに居た当初から周りのみんなにクオッカ会うんや!!!と豪語していたためこの目標を知る多くの友達はすごく残念がってくれました。
タスマニア時代のシェアハウスのオーナーに至ってはインスタでクオッカの投稿に私をメンションして私にわざわざクオッカの動画を見せてくれました。あまりにもショックすぎてクオッカの写真や映像を見ないようにしていたのでかえってショックを受けたことは内緒にしておきます。
自分はワーホリは1年間だけと決めてこの1年の中でやりたいこと全てやって、もーやることやりたいことやり放題したし帰国して真面目にまた働くぞ!と考えていました。中途半端に終わってしまったせいでまだオーストラリアやニュージーランドで時間をかけて旅することに気持ちが残っています。残留思念
だからといってまたワーホリをする気にも今はなれません。1年間!!と強く決めていたからなんでしょうかね。
来月で28歳になるのですがこれ以上両親に心配をかけさせたくない気持ちもあります。仕事をポンポコ辞めたり急に海外行くとか言い出して相当迷惑かけていると思います。
長期で休暇を取れる仕事に就いてリベンジするしか道はないです。
そしてこれからどうするの?と周りにめちゃくちゃよく聞かれるのですがわたしもわかりません。私が聞きたいです。たすけて
とりあえず夏に家族の手伝いがあるのでそれまでプープーするつもりです。いまは家族に追い出されないように必死に実家で家事手伝いに励んでいます。
本来帰国後にヨーロッパへ旅行に行くつもりだったのですがそれどころじゃない状況になってしまいました。わたしのディズニーランドパリーーーーーー!!!!!
いま私にある選択肢は
①思い切ってフリーランスになる
②クリエイティブ業界に舞い戻って終電帰りの社畜に再びなる
③クリエイティブ系のアルバイトとフリーの仕事を並行する
くらいなんですが私の悔いを晴らせる可能性のある職業は①か③ですかねぇ
とはいえこの状況的に就活してる場合でもないしなんだか毎日気が滅入るような暗いニュースばかりなので今は絵の描ける私にできる最大限のことをしていこうと思います。
セブでホルモンバランスが乱れて最高に肌荒れを起こしたり薬のアレルギー反応で意識失いかけたり歯の詰め物2回取れたり食べ過ぎで夜中に2回嘔吐したりカンピロバクターに感染して1週間近く下痢をし続けたりトラブルまみれの1年間でした。
それでもセブに行ったときはビクビクしながら海外の空港を歩き回っていたのに今じゃ1人でバックパック背負って海外から海外に渡って旅行したりその場に居た知らない誰かとコミュニケーション取ったりと人間的にもんのすごく成長できたと思います。まさか海外で車を買って運転することになるとはセブに行った時1ミリも思わなかった。
きちんと正社員で働いていた私が急に仕事辞めるって言い出して色んな人に驚かれて年齢も年齢なので今後のこととか収入とか全部振り切ってきたけれどワーホリしなかった私とした私とじゃ確実にワーホリした私のほうが強くてたくましくて無限の可能性がある私になっていると思います。ちょっと大げさに褒めとく
何事にしてもいいなあやりたいなあ…でもできないだろうな…で終わらせないでなんでもやってみることが大切なんだなと学びました。人生の教訓にしておきます。
これで私のワーホリnoteは終わりです。もともとはインターネットの片隅でお絵かきしていた人間なので今後も創作活動は続けていくつもりです。noteも活用できたらいいな。
最後なんでワーホリ完結記念の絵を載せておきますね!ドン!
でももともと旅行が好きだったけれどこのワーホリを通してもっと旅行が好きになったし旅の記録を文章に起こす楽しさにも気がつけたのでどこか出かけることがあったらまたnoteに起こしてみようと思います。
おべ…おべんきょうも続けていきたいです。
まだ載せれていない絵日記をここで供養しておきます。
絵日記に関してはもうやめようと思ったのですが今のストレンジな世界の中でどんな感情で過ごしていたのか記録に残していくためにまだ続けていくことにしました。Twitterに載せていくつもりなのでよかったらみてください。
ある意味不思議なワーホリ最終日でした。この日の晩ほんとに帰国できるのかわからなくてビビりながら友達にライン送った
こんなちんちくりんのアジア人にも分け隔てなく接してくれるオージーのみなさまには大変感謝しています
全部日本語だし情報量が多過ぎてびびる。あと寒い。寒すぎる。
ここ数日の天気の悪さや入ってくる暗い情報、見通しの立たない世界に加えてせっかく帰ってきたのに友達とも会えないもどかしさでブリスベンで仕事探してたとき以来のメンタルの沈みを感じている。些細なことでもマイナスな気持ちになってしまって人に嫌なこと言ってしまいそうになる寸前で耐えてる。とりあえず太陽光浴びたいっす
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それではまたいつか
めちゃくちゃ励みになります〜!