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我が子に伝えてきたこと

 就職が決まり、海が近いまちに居を移したのは21歳の時でした。希望と不安を抱きながらの新たな生活。その場所ではたった3年間でしたが、世間とは不条理であること。そして、理不尽なことで溢れていることを学びました。しかし、そんなことばかりではありません。

 子ども達と寝食を共にする中で、ある時期、学校へ行きたくない!といった中学生がいました。その中学生の様子が伝播し、複数の子ども達の登校拒否が始まりました。その状況を上司に伝えると上司は「長い人生の中で、6、3、3(小中高)の12年なんて大した時間ではない。行きたくないというのであれば無理に行かせることはない。」との指示でした。後に親となった私はこの言葉に多大な影響を受けています。

 政治の世界に身を投じたとき、私は34歳。我が子は4歳と2歳です。それからというもの。子ども達は市議会議員の子どもというだけで人目に晒されることになりました。詳細は控えますが、以降数々の事が起こる中で、学齢になった我が子に私が繰り返し伝えたことが元上司の言葉です。「長い人生の中で、6、3、3の12年なんて大した時間ではない。学校に行きたくないというのであれば無理に行くな。勉強はどこでも、いつでも出来る。」ということ。加えて「何があっても親より先に死ぬことは許さない。」「死ぬほどつらいことがあったら、その場から逃げろ。あとは父ちゃんが何とかしてやる。」このことは我が子の成長の節目節目に何度も、何度も、何度も伝えてきました。

 41歳で市長選挙に立候補するにあたり、他とはちょっと異なる道に長女を進ませたのは長女を守るためでもありました。次女も中学生までは、私の立場、仕事で好奇の目に晒され些か大変だったようです。そして次女は高校生になり羽生から離れたことで好奇の目に晒される機会は少なくなったものの、別の理由で学校に行くことが出来ない時期がありました。その時、次女には上述の事を伝え見守りました。自室から出てこず、ベットから起き上がらない我が子の姿を見るのは辛いものでした。しかし、見守るだけでは事態は好転するはずはありません。子を守るのは親の責務です。その時、私が父親として最良と考える対応をしたつもりです。

 そんな我が子は現在2人とも成人し、それぞれの道に進んでいます。

 6、3、3の12年は終わりましたが、「何があっても親より先に死ぬことは許さない。」「死ぬほどつらいことがあったら、その場から逃げろ。あとは父ちゃんが何とかしてやる。」この思いは今でもまったく変わりません。

 訃報を受け、そんなことを思い出した昨日、今日でした。

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