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君たちはどう生きるかという物語が生き続ける

(ネタバレはありません)

10年前、2013年の夏。部活終わりの夕方、友達と私は映画館へ走った。

創造的な人生の持ち時間は10年だ。設計家も芸術家も同じだ。君の10年を力を尽くして生きなさい。

「風立ちぬ」という映画は、以降の私の10年の行方を決めた映画だった。カプローニの言葉は私を鼓舞すると共に、ある種の呪いのように私の中に残り続けた。

あれから10年。本当に10年だ。10年という時間が経った。宮﨑駿が10年ぶりに映画を作った。「君たちはどう生きるか」。事前告知なし、前情報なし。彼が映画を作っているという情報が明かされた2017年から、私はこの日を待ち侘びていた。

公開前日。滅多に夢を見ないのに、私は夢を見た。「君たちはどう生きるか」を予約した六本木の東宝シネマズに向かうバスが遅延し、間に合わないかもしれないという夢だ。受験生でもあるまいし、そんな夢を見てしまうなんて。でも、それくらい私は待ち侘びていた。ずっと前から。

そわそわする夢から目覚め、上映までまだ2時間も時間があることに安堵した僕は、しっかりと身支度をし、朝9時の上映に間に合うよう、家を出た。


予告が終わり、静寂の中、真っ黒なスクリーンから青い背景に描かれたトトロが現れたとき、息が止まった。来る。来るぞ。来るぞ。そこから2時間、私は創造力の海の中を泳いだ。いや、流されたというべきか。鑑賞後、私は素直に感動した。これはすごいぞ、と。それと同時に寂しくなった。もう今後の人生で、一切の前情報なくジブリ作品を見られることは無いのかもしれないと。これが最初で最後の純粋無垢なジブリ作品の鑑賞体験だったのではないか、と。

私は当然のように翌日も映画を見に行った。そして1冊の本を読んだ。吉野源三郎著「君たちはどう生きるか」と並び、もう一つの原作と呼ばれているジョン・コナリーの児童文学「失われたものたちの本」だ。この本には象徴的な表現が繰り返し出てくる。

物語は生き物であり、「物語は伝わることで命を持つことができる」と。

この文章は感想でも考察でも無いから、私は私の話をしようと思う。「創造的な人生の持ち時間は10年だ。設計家も芸術家も同じだ。君の10年を力を尽くして生きなさい。」という鼓舞であり呪いでもある言葉を聞いてから、10年。私は私で私の物語を紡いできた。くさい表現かと思うかもしれないが、それはあなたもそうだ。起点がどこであれ、内容がどうであれ、10年という時間で物語が生まれた。

私は消費者ではなく、創造者でありたいと思って、文章を書いたり商売をしたりしている。そして創造者として創造的な活動の一つとして私は文章を書いている。このブログで書いてきたことは間違いなく私の物語であり、私のブログは私の物語として、誰かに伝わることで命をもたらされてきた。

そんな小さな矜持が私にはある。壮大な映画でも小説でもないが、私は自分で物語を伝えてきた創造者であるという矜持が。しかし、創造すると共に、私は他人の創造物=物語を受容する器も持ち合わせなくてはいけない。なぜなら私は私単体で物語を紡げるわけでは無いからだ。誰かの物語、誰かの創造力を受容し、咀嚼し、自分の物語に織り交ぜ交配し、また新たな物語を生み出していかなくてはいけない。

であれば、私は「君たちはどう生きるか」という映画を、宮﨑駿が生み出した物語として、自分なりに吸収しなくてはいけない。10年前に見た「風立ちぬ」が10年間の自分の生き方の道筋を決定付けたように。

結果として私は純粋に心の底から、「君たちはどう生きるか」に興奮することができた。何も難しいことは考えなかった。少年のようにスクリーンに釘付けになり、絵と音と匂いと感情を楽しんだ。だからこそ終わった後、すごいな、と思った。すごかった。何もかもが。そしてこんな物語を俺も作りたいと思った。純粋に。創作者でありたいと、創造する側の人間であり続けたいと思った。

これは新しい道でもあった。私は今に至るまでの10年間で、商売をすることを覚えた。商売とは自分がやりたいことをやって上手くできるわけではない。綺麗に言えば需要を見つけ、それに適合する商品を提供し対価を得る。意地悪な言い方をすれば、自分がやりたいことでなくても利益が見込めるのであれば自分の理想を捨て相手の理想に合わせた商品を提供する、ということだ。それが悪だとは思わないし、むしろ善だと思う。お金を稼ぐとはそういうことであり、自由に生きるために必要不可欠な道具だ。しかし、そういった商売の中で、自分の創造性が失われてしまったのではないか、と我に帰るときがあった。

しかし「君たちはどう生きるか」に純粋に感動できた私は、創造性を失ってはいないのだと気づいた。まだ私は創造することができる。この世にないものを自分のエゴを最大限に出して、書くことができる。それは素晴らしいことだ。それは人間にしかできない。この世にないものを自分の頭の中で展開し、体全身を使って形にして表現し、自分以外の誰かに向かって伝えることができる。これは素晴らしいことなのだ。人間が人間らしいとはこのことだ。私にはまだそれができる。それが嬉しかった。

宮﨑駿作品は、彼が読んだ膨大な児童文学や少女漫画など、多種多様な物語から醸成された彼の創造の世界から生み出されている。私もその豊かな想像力の世界を醸成していかなくてはならない。なぜなら自分の創造力を超えるものを描くことができないから。

創造力の醸成とはまさに、物語を受け止め、自分の中に生かすことだ。色々な物語を受け入れ自分の中で生き続けることで、より豊かな創造力の世界を醸成することができる。

最後に。吉野源三郎の原著にある一節「人間は社会を構成する分子のようなものであり、見たことも会ったこともない大勢の人と、知らないうちに網のようにつながっている」。これは人間だけでなく、物語とも置き換えられるのではないだろうか。

人間、すなわち物語は、一見似ても似付かぬ話であったりしても、読み込み自分の中に受け入れると、いつの間にか知らないうちに複雑に作用し合い、オリジナルの豊かな創造的な世界を生み出す、と。そしてその醸成された創造的な精神世界から、新しい物語が生まれるのだ。そしてその新しい物語も誰かに伝わり、その誰かの中に既にある物語と作用し合い、新たな物語が生まれる。物語は生き物であり、伝わることで誰かの中で生き続ける。

私はこれからもよく読み、学び、人と会い、試行を重ね、豊かな創造力の世界を醸成する。そして新しい物語を生み出し、誰かに伝える。受け入れられた物語が誰かの中で生き続ける。君たちはどう生きるか、という物語が私の描く物語の中で生き続ける。

創造する側の人間であるために、私は書き続ける。



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