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なぜ意識高い系中島は「人生は自由だ」と叫び続けるのか。

日曜日。4度目の緊急事態宣言が明日から発令される東京・渋谷は、いつものように人が多い。お気に入りのカフェで久々にゆっくり過ごしながら、何の気なしにPCを開く。さて、何を書こうか。僕が文章を書くとき、何を書くかあらかじめ明確に決めている場合と、何も考えず感覚で書く場合の、2パターンがある。こんな書き出して始めているから、今日は後者だ。心の安寧を久々に感じながら、さて何を書くかと頭を働かせる時間は嫌いじゃない。むしろ、生きているという実感がある。自分の頭で考えて、この世にない、全く新しいモノを生み出す、それこそが快感であり、生きてる理由だとさえ思える。

そうだな、じゃあ今日は「自由」について語ろうか。僕が狂った時計が同じ位置で秒針を刻むように、「人生は自由だ」と叫び続ける理由でも、書いてみようか。

僕にとっての自由とは、「自分の責任の範囲内で自分で意思決定を下し、好きに生きる」ことだ。他人の意見に左右されない、ノイズは排除する、やりたいようにやる。ただし、自己責任で。何が起きても自分で全責任を負う。その代わりに自由に動き回ることができる。これこそが自由だと僕は思っている。

僕がこの思考に至ったのは、これまでの人生が自由じゃなかったからだ。いや、人間は生まれながらにして自由なはずなのに、自分で自分の手足に鎖をつなげ、不自由にしていたからだ。22歳までの自分は周りの目を気にして、自分の意志で決定を下すことができていなかった。就活で聞こえがいいような所でインターンしようとしたり、親が喜びそうな資格を取ろうとしたり、後ろ指刺されないように目立つ行動を控えたり。全てが誰かのためであり、自分のために息をしてなかった。その呪縛から解放された今、人生は自由だと、胸を張って言うことができる。外野の言うことなんで無視でいい。僕はそれに気づいてから幸せになれた。

執筆活動とは、究極の自己満足だ。特に僕のこの記事なんかは、誰も覗くことができない僕個人の頭の中を思うままに書き出しているわけだから、側から見たら小っ恥ずかしいポエムの羅列に過ぎないかもしれない。でもそれでいいんだ。言いたいことも言えない世の中、ここでくらい好きにモノを描かせてくれよ。

「人生は自由だ」と言っているけれど、社会人になってその自由はかなり狭くなった。平日は仕事をしなくてはいけない。そして会社にはルールがある。僕はルールの穴を掻い潜ることが得意だけど、それは許されない。暗黙の了解というか、それは言われなくも守るでしょうといった常識が至るところにあって、気づくとがんじがらめにされている。なんてこった、こんなのやってらんねえよ。

アホらしいくらいのトガった反骨精神は、とても大切だと思う。不合理で、納得できないモノに対しては、「おい!そんなのクソだよ」って中指をおっ立てなくてはいけない。イケてないものにはイケてないぞと、言える気概がないと、知らず知らずのうちに同調圧力に飲み込まれる。ピンとおっ立てた中指が、いつの間にか弱々しく立てられた親指になってしまうわけだ。トガった石は、川の中をコロコロと転がってるうちに角が取れ丸くなってしまう。他の石と見分けがつかなくなってしまう。そんなのちっともクールじゃない。不自由だ。自由じゃない。そんなの変だ。

そんなの変だけど、変な空気がいつの間にか大多数の人間を覆ってしまった。例えば、これから東京にはまた緊急事態宣言が出される。おいおい。2021年、ほとんどずっと緊急事態じゃないか。緊急って何だ?おかしくないか?全然自由じゃないじゃないか。僕たちの日常は、どこに消えちまったんだ?

なんでみんな、声を上げないんだ?そんなのイケてないよって、キレないんだ?みんなお利口さんになっちまったのかよ。真面目なのはいいことだよ。でもさ、特には拳を上げなきゃいけないときだってあるんだよ。だって、俺たちは、自由なんだから。

別に騒ぎまくれって言ってるわけじゃないんだよ。なんか、もっとさ、みんながやりたいことをやれる空気感ってのが、あってもいいと思うんだよ。

どうも今の世の中には、細かいルールが多すぎる。気づいたら、あれも破ってて、これも破ってて、怒られる。息苦しくないか?駅のホームでは黄色い線の内側で電車を待たなきゃいけないよ。危ないからさ。でも、なんで家でも、外でも、それを守らなきゃいけないんだ?黄色い線だらけの世界は、不自由で息苦しくないか?僕は苦しいよ。だからそんなのF×CKだよって、顔も名前も出してないけど、SNSの海で叫び続けているんだよ。どんな面下げてお前は偉そうに言ってるのかって?気になるなら、会いに行くよ。恥ずかしいことなんてしちゃいない。やましいことなんて何もない。いつでも連絡待ってるよ。

意見ってやつは、心の中にしまっていても、誰も分からないんだ。やりたいこと、夢や欲望は、口に出さないと、体を動かさないと、いつまでたっても実現しないんだ。バカにされたっていい。無謀でもいい。とにかく言ってみようよ。笑う奴らは笑い返してやればいい。黄色い線の内側でしか生きられない人生はつまらないだろう。面白い世界は外にずーっと先まで広がっているんだよ。こっち側に来ようよ。だって、人生は、自由だから。

このクソッタレの、抑圧された、息苦しい空気の中で、僕は「人生は自由だ」とこれからも叫び続ける。99%の人にバカにされても、きっと1%の人が気付いてくれると信じて。日本には1億人を超える人間がいる。99%に嫌われても、残り1%に好かれたら100万人の味方ができる。これって、すごい大切な考え方なんだよ。万人に好かれることなんて、はなから無理だから。みんなに好かれようとして、当たり障りのないことを言っても、その他大勢に埋れるだけなんだよ。誰の記憶にも残らない。好かれも嫌われもしない。それって死んでるのと同じじゃないか。生きるって何だ?個性を、欲を爆発させることなんじゃないか?だったら叫んでみようよ。何でもいいからさ。きっと誰かが聞いてくれる。味方になってくれる。僕が約束しよう。

こんな取り止めもない文章を、最後まで読んでくれてありがとう。僕の文章は、誰かのために書いているというより、自分のために書いている側面が強い。これは僕の僕による僕のための戒めの言葉であり、「自由のためにお前は発信できているのか?」という意思確認の文章だ。書きながら、改めてエネルギーが湧いてきた。クソッタレとは、闘わなくてはいけない。ボコボコにされても、立ち上がらなくてはいけない。その執念の先に、僕らの求める自由があるから。

それでは素敵な1日を。





最強になるために生きています。大学4年生です。年間400万PVのブログからnoteに移行しました。InstagramもTwitterも毎日更新中!