見出し画像

2021年7月26日(月) 小山田問題2

佑陽 昨日の続きですね。まず「小山田を擁護することは、いじめを肯定ことになる」という意見を見たんですけど、それは違います。論理が飛躍してます。小山田さんは謝罪もしているし、いじめを肯定する立場の人でもないんです。どう感じるかはさておき、理屈で言えば、その小山田さんを擁護したとして、いじめを肯定していることにはならないでしょう。別に擁護している人だって、いじめの部分を擁護しているわけじゃないんです。小山田さんにも人権があるので、それを侵害する事に対しての擁護で、それは正当です。一言で擁護と言っても、いろいろあるんです。オリンピックの仕事のこと、インタビューのこと、いじめのこと、音楽のこと、人間性のこと、人権のこと。いろいろあるのに「擁護するな」というのは、「小山田という人をまるごと全否定しろ」という乱暴な意見なんです。僕は、一人の人をまるごと全否定しろという考え方には絶対賛成できません。

――人を全否定するのはそれこそいじめですね。

佑陽 「オリンピックで使うな」までは、賛成じゃないけど仕方ないかと思うんです。不快に感じる人が多いなら、やめさせるのもやむを得ないかなと思います。「過去に酷いことをしているんだなあ、嫌いだなあこの人」と思うのも自由です。でも「一生被害者に償い続けろ」「音楽なんて一生やるな」などと言って叩くのは行き過ぎだと思います。他にも悪意で傷つけるような発言はかなりあったでしょう。こういう発言からは擁護する意見があって然るべきです。

――そのあたりも、人によって意見は様々でしたね。音楽活動に関しても「ファンに向けて音楽をやるのは自由だ」という意見も「公の場に出るべきではない」という意見も見かけました。

佑陽 僕もいじめを武勇伝みたいに語る人は嫌いです。でも、もしその人を不幸にしようとしたら、それは僕の方が悪いんです。嫌いな人であっても、権利を奪っていいことはないんです。むしろ幸せになってもらったほうがいいくらいです。幸せで満足している人は、人を不幸にしようと思いませんから。嫌なヤツは自分と関係ない世界で幸せに生きていてくれた方が安全なんです。感情的には「あいつを苦しめたい」「不幸にしたい」と思うかもしれないけど、それに負けちゃダメなんです。

――不満や恨みを抱えている人の方が攻撃的になりやすいということですね。

佑陽 人には、どうやら悪者をやっつけて、もう立ち上がれないくらい叩きのめすと快感を得ることができる本能があるようです。だから、小説でもドラマでも勧善懲悪の物語が好まれるわけです。それだけ大きな快感なんでしょうね。

――勧善懲悪の物語で気分がスッキリするというのはわかります。

佑陽 だから、その快感を得るために「悪」のレッテルを貼られた人を徹底的に攻撃するんです。でも、その際、本当にその人が「悪」であるかはどうでもいいんです。むしろ「悪」であってくれないと困るんです。悪じゃなかったら、やっつけたとき快感を得られないから。だからいったん「悪」のレッテルを貼ったら、その人の一挙手一投足から「悪」の根拠を探します。たとえ謝罪したとしても「心からの謝罪じゃない」「本当は悪いなんて思ってない」と決めつけて、攻撃を続けます。その悪が成敗されるまでの間、その「悪」が動いている間は、その人が何をしても、イライラしたりフラストレーションがどんどんたまっていくわけです。そしてさらに攻撃を強めるわけです。このことは僕はとても恐いと思うんですが、やっている人は、ただ本能の声にしたがっているだけだから、自分が悪いなんて少しも思っていないんです。無意識なんです。自分が正義だと信じ込んでいるんです。都合のいい意見を燃料にして、都合の悪い意見を叩き潰して、敵が動けなくなるまで叩き続けます。それを止められるとスッキリできないから、反対意見は聞きたくない。だから「擁護するな」「悪の味方をするな」という意見になってしまうんです。でも、どう考えても「聞く耳持たない」という姿勢の人が正義のわけないじゃないですか。いろいろな意見を聞いて「慎重に考えてみよう」というのがあるべき立場ですからね。

――「正義の暴走」なんて、よく耳にしますね。

佑陽 小山田さんを叩く立場の人は再発防止のためだと言いますが、おそらく違うと思います。それは方便で、叩きたいから叩いてるんです。それを正当化しているだけです。再発防止のためだとしても、なぜ叩くという手段をとるのか、その手段は本当に正しいのか、効果がどの程度あるのか疑問です。例えば自分の立場だったら、怒りながら「反省しろ!」と言ってくる人を見て、反省するでしょうか? 自分に悪意を向けてくる人の言うことなんて聞きたくないでしょう? 

――そうですね。

佑陽 人の本能として、そういう性質があることを知れば、この本能の声に従うことはとても危険なことなんだってわかるでしょう。正義だからじゃなくて、自分が怒りをぶつけて、気持ちよくなりたいからだったんだとわかれば、そこで歯止めをかける人も増えるかもしれません。怒りを感じるからといって、怒りを感じさせるものを「悪」だと決めることや、それをやっつけようとすることは自分のエゴだと知ること。その上で、その問題を放っておけないと思うなら、立場や人権を尊重した上で対話をしたり、きちんとした法的手続きをとること。本当に自分が正義だと思うなら、正しい方法で正義をなすべきです。そうとわかっても「怒りが収まらない」ということがあるなら、アンガーマネジメントの技術を学ぶのも有効でしょう。

――「note」では感情的なコメントの書き込みを投稿前に一呼吸置くようにメッセージが出るそうですね。

佑陽 そういうのも有効でしょうね。まとめに入りましょうか。人を勝手に悪だと決めつけてはいけないということ。悪だとしても、誹謗中傷とか、人権を侵害していい理由にはならないということ。それだけは言っておきたいです。もちろん、意見を言ったり、感じたことを言うのは自由です。「小山田ひどい」とか「嫌い」とか思ってもいいです。不快感を表明したり、遺憾の意を示したりはいいと思います。自由です。ただ、伝え方には気をつけること。腹が立つからといって、罵倒したり「死ね」と言ったり、というのはダメだと思います。その線引きだけはしてほしいです。悪質な書き込みは開示請求とかで、処罰の対象になる可能性もありますからね。それと、僕個人として決めていることですけど……、当事者でもなく、事情もちゃんと知らないことを憶測で決めつけて、意見めいたことを言うことはしないことにしています。だから、ニュースに関するコメントとかは、ブログやTwitterではしないようにしてます。今回、こんな風にいろいろ言いましたけど……軽く後悔してます。別に言う必要なかったかもしれないです。明日からは明るい話題に戻しましょう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?