【小説】「喫茶ひなたに春が来て」第10話
-ミルク同盟-
〈 結 〉
後片付けをして職場を出ると、外はもう真っ暗になっていた。暑くも寒くもない、晴れ晴れとした夜が、結は好きだ。くっりした夜の輪郭に優しさがにじんでいる。どこか親密な気配。それに守られるようにして、結は硬い歩道にパンプスの音を響かせている。
帰りが遅くなったのは、結婚式を数週間後に控えた花嫁が、お色直しのドレスを決めかねていたからだ。どんな形の、どの色にしようか。結は花嫁が沢山のドレスを試着するのを手伝いながら、ようやく自分もまた、彼女の幸せを共有できる心が戻りつつあるような気持ちになれた。今から二人が共に生きていこうとしている。それは純粋に驚異的で素晴らしいことだと結は思う。血の繋がっていない赤の他人が、結婚して家族になる。もちろん結婚がすべてだなんて思わないけれど、二人がそうしようと決めて、歩んでいこうとしている。それを祝福できる仕事をしていることをありがたく思う気持ちが、ゆるやかに蘇ってきたのだった。
結局花嫁が選んだのは、サンゴ礁を覆う海のようなエメラルドグリーンの、シンプルなドレスだった。それは彼女にとてもよく似合っていて、結は心から綺麗だと思った。そしてそれを惜しみなく本人に伝えた。よかった、と結は思う。長くかかったけれど自分の気持ちが少しずつ持ち直してきたようだ。
嬉しくなって、結は一人でその心境を祝いたいくなり、電車が最寄り駅に到着すると、家に帰る前に遅くまで営業しているスーパーに寄ることにした。そうだ、久しぶりに甘い白ワインを飲もう。大通りに面したそのスーパーは結のお気に入りだ。特に仕事が遅くなった帰りに煌々と明かりが灯っているのを見るととても安心できる。人気の少なくなったこんな時間でも、この世界では大勢の人が日々の暮らしを営んでいるのだと確認できる。店内に入ると、眩しいほどの色の洪水が結を迎えてくれる。ずらりと並んだ野菜や果物が結を励ましてくれる。
結は半ばそれらに見惚れるようにして、ゆっくりとワイン売場に足を向けた。ワイン売場には、値段の張らない、けれど充分美味しいワインが所狭しと並べられている。結はあまりワインに詳しくはない。蘊蓄も持ってはいない。ただ、美味しいと感じるワインを美味しいと思いながら飲む。それだけで充分ワインを楽しむことはできる。結はずらりと目の前に並べられたそれらを一つ一つ眺め、手に取ってラベルに書かれた日本語の説明書きを読んだ。そしてその中からほっそりしたフォルムの青い瓶を選び出すと、それだけをカゴに入れてレジへと踵を返した。
支払いを済ませ、白いビニール袋に入れられたワインを手にした時、ふと視線を感じて結はそちらを振り返った。そして、あ、と無防備な声を上げた。そこに突っ立っていたのは啓介だった。結と同じように片手にビニール袋を提げている。
「こんばんは。」
結がそう言って頭を下げると、啓介はそれでやっと結だと確認できたように、ほっとした表情で軽くお辞儀をした。そして結のビニール袋に目を留める。そこからはワインボトルのほっそりした首が覗いている。
いつも歩いている道だから平気だと断ったにも関わらず、送っていくと啓介が言い張るので、今、結は彼の横を歩いている。二人きりというのは喫茶ひなたではよくあることだが、外でこうして肩を並べているのは奇妙な感じがした。夜の空気の中だから一層そう感じるのかもしれない。
「この間は、何だか香乃が迷惑かけてしまったみたいで・・・すみませんでした。」
あの日のことをどう切り出そうか、それより体はもうよくなったのか。言葉を探している内に啓介の方から水を向けてきてくれた。結は、いえ、そんな、と胸の前で手をひらひらさせる。
「あいつは昔から泣き虫で。決壊するまで溜め込んで洪水を起こすタイプというか。」
「それだけ啓介君のことが心配なのよ。」
軽く言ったつもりだったが、啓介はすぐにはそれに答えず、黙って考え込んでしまった。井戸の底にコインを投げ込んだみたいに、遠く深い沈黙が続く。答えに窮する啓介というのは、今まで馴染みがなかった。きっと今まで何度も考えて、何度も結論づけてきたはずの問い。それでもどうしてもしっくりいかない解答。
「僕は悪い男なんでしょうね、あいつにとっては。」
やがて啓介は、短くそう言った。
香乃を泣かせてしまったあの後、結はずっと香乃の心境について思いを巡らせていた。香乃の、そして啓介の、光司の思い。長い間互いを近くに感じて生きてきた三人のことを、理解しようと思ってもそう易々と理解できないことははなからわかっていた。それでも結は一人考えずにはいられなかった。かけがえのないものを失う不安。ある日突然ここからいなくなる不安。いつだって当たり前のように、ドアの向こうでグラスを拭いていた啓介。それが当たり前ではなくなる時。誰にだって起こり得る、いや、いつかは誰だってここからいなくなるのだけれど、彼等はそれを常に身近な不安として感じ続けているのだ。だから、懸命なのだ。
そこまで考えて結は自分の、ここ最近の悩みに思い至った。ここから、この手元から消えてなくなったもの。結にとっての手痛い損失。結は初めてそれについて、ちゃんと向き合って考えてみた。嫉妬とか怒りとか世間体とかを抜きにして、純粋に愛する人を失った痛みについて思ってみた。自分の傷をもう一度見つめ直す作業。そして、今、本当に失いたくないもののこと。
一陣の風が足元を通り過ぎると、ひやりとした感触が残る。その余韻のなか、結と啓介は人気のない夜道を歩いた。細い道を何本か渡り、静かな住宅地に入る。最後の角を折れると、目の前に結の住むマンションのエントランスが見えた。結は啓介に、送ってもらった礼を言う。
「ところで啓介君は何を買ったの?」
別れる前に結が尋ねると、啓介は少し目を瞠ってからビニール袋の中身をこちらに見えるように傾けてくれた。パック入りのピーマン、カマンベールチーズ、缶ビールが一缶。
「店で出すナポリタン用のピーマンがなくなってるのに気づかなくて。こんな時間に買い出しですよ。」
「じゃあ、もう店に出てるのね。」
結が声を明るくして言うと、啓介はビニール袋を提げていない方の腕でガッツポーズをしてみせた。それからがさがさと袋に手を突っ込んで缶ビールを取り出す。
「それでこっちは快気祝い。」
「快気祝い?」
結が繰り返すと、啓介はふわりと笑ってみせた。
「寝込んでる時は酒を控えてたので。と言っても強くはないんですけど。」
「じゃあ、一緒ね。」
結はエントランスの自動ドアに滑り込みながら啓介を振り返って悪戯っぽく言った。
「一緒?」
結も軽くビニール袋を持ち上げた。中でワインボトルが揺れて、その中を満たすとろりとした液体の重さを手の平に感じる。
「一緒。快気祝いよ。」
不思議そうな啓介をドアの向こうに残して、結は眩しいほどの明かりの中をエレベーターに向かって歩いていく。気持ちが高揚している。その理由はさっきからわかっている。結はそれを実行するために慌ててエレベーターに乗り、鍵を開ける時間ももどかしく部屋に入ると、ソファに座ってスマホを取り出した。
今、失いたくないもの。もう何ヵ月会っていないのだろう。タク。懐かしい響き。コール音を聞きながら見やると、ほっそりした青いボトルはソファの端っこに横倒しになっていた。
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