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【小説】「喫茶ひなたに春が来て」第8話

〈 香乃 〉

 ずっと我慢しているんですね、香乃ちゃん。そう言ってらしたわよ、と星野の奥さんに言われた。ケーキのショーケースの上で、不覚にも泣き出してしまった、あの後。多分話を聞いてたノンちゃんが慌てて厨房から飛び出してきて、それからタルトにクリームを絞っていたはずの奥さんまで表に出て来てしまった。そんな大事にする気はまったくなかった。アキナのことを誰かに喋って泣くなんて、絶対にあり得ないことだと思っていた。途中までは上手くいっていたのに、気づいたら涙が止まらなくなっていた。

 星野の奥さんは結さんを店の外まで連れ出して、何事かを話し合っていた。きっとアキナの生い立ちやなんかを喋ったのだ。それは別に香乃のとめるべきことではないし、アキナの嫌がることを星野の奥さんが喋るとも思えない。向かい合わせの店なので、星野夫妻は喫茶ひなたのオーナーであるおじさん、つまりはアキナの伯父さんと古い仲だ。だからアキナの病気のことや、アキナが頑なに通している主義主張をよく知っている。

 自分に与えられた時間を快適に過ごす。望みや欲はあまり持たない。だからアキナは、進学とか就職とは無縁の暮らしをずっとずっと続けているし、これからも続けていくだろう。伯父さんの経営する古臭い喫茶店で働くこと。アキナは何でも一人で決めて納得している。そしてそれを周りの大人は良しとしている。アキナの伯父さんも、星野夫妻も。

 香乃はそれを良しとはしない。喫茶ひなたにいるアキナは好きだから、それには文句はないけれど、アキナの主義主張を良しとすることは、イコール、アキナの死を前提とした考え自体を認めることになる気がするからだ。そんなの絶対に許容できない。我慢? 結さんが帰る時に星野の奥さんにそう言ったという。それはちょっと違う、と香乃は思う。アタシはアキナのことで我慢なんてしていない。アキナが張り巡らせている薄いくせに頑丈なバリアを突破したいだけだ。クラシックの流れる部屋に派手なロックをかけるように、彼の生み出すトーンを変化させたいだけだ。

 相変わらず誰もいない家に戻ると、香乃は鮮やかな料理の並んだテーブルを無視して自分の部屋のベッドにどさりと倒れ込んだ。我慢。そればかりが頭を巡る。そう、一つだけ、今我慢していることがある。やがて香乃はそれに気づいた。そんな欲求があったこと自体に驚いた。

 してはいけないことだと、初めから思い込んでいたこと。寝込んでいるアキナに電話をかけること。良くない、身体に障る、香乃はそう思いながらもベッドから身体を起こして、バッグに入っていたスマホを引っ張り出す。冷え冷えしたシルバーグレイの物体。それはまるで手稲弾のように思えて恐ろしく、香乃は考え出す際を自分に与えぬよう、アキナの番号を探すとすぐにタップした。

「百年の恋も冷めるぞ。」

 電話に出たアキナは想像したよりずっと元気そうな声をしていた。一日寝たら熱もほとんど下がったと言う。それならご飯を持って行ってあげると香乃が主張すると、アキナはそんな答えを返してきたのだった。意地悪なのもいつもと変わりがない。それでも話せるだけで香乃はほっとした。電話から聞こえてくるアキナの声は普通に話すより親密な感じがする。

「百年じゃないもん。十年ぐらいだもん。」

 はしゃいでしまって冗談のつもりで言うと、電話の向こうがしばらく無音になった。

「・・・十年は長いな。」

 やがてぼそりと言う。

「おまえ、俺は俺でおいておいて、学校でも探してみるっていう選択肢はないのか?」

 またそんなことを言う。香乃は相手に見えもしないのに片頬を膨らませる。

「いない、アキナみたいのは一人もいない。」

「俺みたいなのがいいのか?」

 みたい、では駄目だ。香乃は目眩がするほど強く思う。アキナでないと。アキナだってそれはわかっているはずなのに。香乃は逆に問い正したい気持ちに駆られる。じゃあどうしてアタシでは駄目なのだ、と。悪いところがあるなら幾らでも直すのに、そうすることすら香乃にはできない。

 だってアタシが悪いわけじゃないから。アキナはその分厚い主義主張ブックの中に、人を愛さないという条文を入れている。誰も愛さないなら、いっそアタシといてくれたらいいじゃないか、と香乃は攻撃的な気持ちに陥る。ねじれの位置にある二本の直線のように、アキナのポリシーは香乃の思いと交わりさえしない。会話の流れなどお構いなしに、香乃は電話の向こうに訴えた。

「だって、いつ心臓が止まるかなんて誰にもわからないのに。アタシのだって。」

 何かが響けばいいのに、そう香乃は思った。何かを壊すことになっても。でもアキナは、

「それこそ心臓が止まるようなことを言うなよ。」

 と、ちょっと笑いを含んだ声で返してきただけだった。いつものように冷静で、真面目で、微動だにせず。

「アキナの馬鹿。」

 そう断言すると、アキナはやっと声を立てて笑った。そしてふうっと息を吐く気配がした。

「ヤカンがいるか?」

 スマホを耳に押し当てたまま、香乃は、バレている、と思う。小さい頃から泣き虫だった、友人の妹である香乃に、アキナが考え出した台詞。涙が出そうだったらヤカンを持ってきてやるよ。それでコーヒーが作れるかやってみよう。その物静かで優しい声は、いつだって香乃の恐怖や悲しみを和らげてくれた。でも今は逆効果だ。

 香乃は次々湧いてくる目尻の涙をベッドのシーツで拭いながら、アキナの淹れたコーヒーが飲みたいと痛切に思った。それをアキナと一緒に飲みたいと。

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