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【小説】「喫茶ひなたに春が来て」第4話

-若草色の車-

〈 結 〉

「そこそこ、その路地を左に。」

 丸いフォルムをした若草色の軽自動車が指示通りに細い路地を曲がり、二回の切り返しの末、浄水場の敷地内にある駐車場に停車する。後部座席から真っ先に香乃が飛び降りて、ビニールシートやお菓子を詰めたトートバッグを肩にかけた。温めたアロマオイルのような風がゆらりと車内に流れ込む。

 結が運転席のドアを開けると、その匂いは車を飲み込むほどの存在感を示す。結たちの町に水を供給しているこの隣町の浄水場は、毎年桜のシーズンになると、その広い敷地が一般公開される。敷地内に数百本の八重桜が植えられているからだ。一口に八重桜といっても、その種類は様々である。まあるい大きな鞠のように咲くもの、春の淡い水色の空を突き上げるように枝を伸ばすもの。緑がかった白い花をつけるもの。梅のような濃い花をしだれた技に点々とつけるもの。これらの花の回廊を歩くため、毎年多くの観光客が訪れる。

「すみません。助かりました。」

 助手席から出てきた啓介が上目づかいのままわずかに頭を下げる。車を出してもらったことと、運転のお礼を言っているらしい。結も、いえいえ、と慌てて言いながらぴょこりとお辞儀を返した。成り行きで花見についてきてしまった。いくらでも断る機会はあったのに、言い訳はできたのに、来てしまった。大人数で行動するのを好まない私が、よく知りもしない相手とならなおさら苦手な私がどうして、と結は車のドアをロックしながら思う。

 先週の日曜、喫茶ひなたに顔を出すと、偶然啓介と香乃と光司がカウンターで花見の計画を立てているところに出くわしたのだった。結はいつもどおり窓際のテーブルについてカプチーノを注文した。するとそれを運んできた啓介に誘われたのだった。もしよかったら、一緒に行きませんか、花見。

 そこから急に話が進んで、終わってみれば結が車まで出すことになっていた。アルバイト先の社用車を借りる予定がボツになったらしい光司は手を叩いて喜んでいた。香乃だけが、わかりやすく不満げな顔をしていた。

 それでも結は来てしまったのだ。しかしこれは後悔ではない、と結はまた感じる。後悔していないことが不思議なのだ。先に歩き出していた香乃がぴょこんと跳ねながら振り返った。

「ほら、早くアキナ。」

 その声に啓介が振り向き、地面に置いた大きなバッグを持ち上げようとしていた光司は鼻を鳴らす。

「アキナ様、お呼びで。」

  アキナというのは名字なのだと、啓介は教えてくれた。困ったような表情で。季節の秋に名前の名。秋名啓介。字面で見れば取り立てて変わっているわけでもないのに、声に出すとどうしても女性が連想され、小さい時から嫌だったのだと苦笑した。呼び名は、だから啓介で統一している。でもあいつは、と啓介は続けた。高校時代の友人の生意気な妹である香乃は、どうしてもアキナと呼ぶ。何度異議申し立てをしても聞かないんだ、そんなふうに啓介は言った。

 香乃が早足で向かった先から、匂い立つ桜の香りとは別の、強い匂いが漂ってくる。種々雑多な食べ物の匂いが混じり合った、でも不快ではない匂い。食欲という欲望を真っすぐに刺激する匂い。桜の香りの方が遠くまでその粒子を飛ばしているのに、近づくにつれ、屋台のこうぼしい匂いが勝ってくる。しかし浄水場の入口の、まさに見頃の八重桜が視界に現れても、屋台は並んでいない。

「あれ?ないじゃん。」

 馬鹿が、と光司が声を出す。線が細くて優男風の啓介に比べて体つきの逞しい光司は、声も人一倍大きいので、それを耳に留めた花見客の何人かが振り返る。

「浄水場の中に屋台が出るかよ。反対側の河川敷まで抜けてから。」

「なに、兄貴チェックしてきたの?」

 ここに来るのは初めてらしい香乃のその質問を無視して、光司は頭上の桜を振り仰いだ。

「すげえなあ、八重って。」

 その声に釣られるように、みんな一斉に上を見上げる。大振りの花の塊の間から、春にしては鋭い日差しが降り込んできて、思わず結は目を閉じた。瞼の裏がしんと赤い。こんなところにも、血は脈々と流れている。目を開けると先程よりくっきりと、桜の桃色が迫ってきた。

 結がこの浄水場の桜を見るのは二年振りだった。しかし二年前の桜の記憶は、結にはほとんどない。その時一番大切と思っていたものしか見ていなかったからだ。それは自然の織り成す美しさでも立ち並ぶカラフルな屋台でもなかった。結が見ていたのは隣の男の顔ばかりだった。もうこの手元から消えてなくなったもの。そのくせ忘れかけた頃にふらりと姿を見せ、結に自身の傷の深さを見せつけていったもの。

 傍を歩いていた光司が肩に掛けたグリーンのリュックから、大事そうに何かを取り出す。強い銀色の物体が日光に反射する。一眼レフカメラかと思ったら、小型のビデオカメラだった。そのままレンズを上に向けて、桜のトンネルを撮影し始めた。あまりに唐突で、結はびっくりして黙り込んでしまう。その表情を、横から啓介が窺っていた。

「こいつはね、映像の専門学校に通ってて。」

 啓介が自分に向かって話しているのだとわかって、結は慌てて頷いた。

「これでも本気なんですよ。」

「そそ、ワタシ、マジですの。」

 首を上に向けたまま、光司が合いの手を入れる。

「夢は映画監督で。」

「映像作家って言ってますでしょう。」

 結は、戸惑った顔のまま、啓介にその顔を少し寄せるようにして小さな声で呟いた。

「あの、声は出してていいの?」

 三人三様の声を立てて笑う。結は少しむっとして黙る。何がおかしいんだ。啓介が、いや、とまだ笑いを含んだ声で言う。

「ごめんなさい。映像が欲しいだけだから、声は入ってても大丈夫。」

でも、と後ろから飛びつくように啓介に寄り掛かりながら、香乃が大きな声を出す。

「ほんとに使う映像なんかほとんどないもの。」

 うるさいっ、とレンズにカバーを被せながら光司が言う。また周りの人々が振り向く。

「それからお前、隙あらばと啓介に抱きつくな。」

 それを指摘されると、香乃は急に鋭い目つきになってぷいと先に言ってしまった。香乃と結たちの間に桜の花びらが二、三舞い落ちる。光司は、まったく、と呟くように言うと、歩きながら結の方に丸い目をくるりと向けた。

「結さん、すいませんね。ガキの遊びに付き合わせちまって。」

 特にあいつは、と前方を見やる。香乃はポニーテールを揺らせながらどんどん先に歩いていってしまっている。後ろを振り返りもしない。心配になったのか啓介の足が速まった。ふらりふらりと半身になって人の流れをかわしながら香乃に追いつこうとしている。

「何て言うか、思春期真っ只中で・・・」

 光司の言いたいことは結にもわかった。香乃は精一杯取り繕っているのだろうが、それでも結が付いてきたことを快く思っていないことが滲み出ていた。でもそれは思春期とはちょっと違う。

「枠の外なのね。」

「え、ワク?」

 結はそれ以上付け足すことをせずに桜に目をやった。自分と、自分に必要不可欠な誰か以外は締め出してしまいたい。その感覚は結にもあった。あの頃、確実にそうだった。年齢は関係ない。

 ふいに光司が手を伸ばして二人の間にしだれていた細い枝をそっと払った。薄桃色の花弁が頭上で揺れる。

「迷惑だったんじゃないですか?」

 ほろりと、大柄な身体に似合わないことを言う。結は心持ち眉をひそめてみせた。

「迷惑そうに見える? 私、結構楽しんでるんだけど。」

「あ、よかったよかった。」

 言いながら光司が肩に担ぎ直したリュックがカップルの片方に軽くぶつかった。光司が、あ、すいません、と声を上げる。当たり前と言えば当たり前だが、恋人同士ばかりがやたらと目につく。見ていて恥ずかしいぐらいくっつき合い、腕を回し、顔を近づける。見ただけで恥ずかしくなるような素振りを、私もまた見せていたのだ、と結はふと気づく。渦中にいる者は何一つわからないのだ。幸せは幸せとして歴然とそこにあると信じている。自分の幸せが、人を傷つけることがあるなどとは思いもしない。誰かの幸せが、誰かの羽を撃ち抜くことがあるなどとは。

「何か悩みとかですか?」

「え?」

 結は沈み込んだ思考から引き上げられる。暑いぐらいの春の日の、何てことはない穏やかなお花見の道中。そこに光司の声が響く。頭の中を覗かれていたかのような言葉に驚く。でも、光司はそれまでどおりののんびりした口調で言った。

「だってほら、啓介の店の窓際で、アンニュイな感じで、こう、外を見てるイメージがあって。俺、あそこの席座るとすぐ眠くなっちゃうんですけどね。」

「変な判断基準。」

 くすりと笑った結に、光司は大真面目で憤慨してみせた。

 「なんすか、悩みなら聞きますよ、俺、意外と聞き上手なんですから。あ、でもガキの出る幕じゃないか。」

 タクも同じ台詞を言ってくれたことがあるな、とふいに思い出して、自分で驚く。同時に、今までは思い出そうとしても上手く頭の中で思い描けなかったタクの表情が細部まで浮かんできて結は静かにうろたえた。もう三ヵ月以上顔を合わせていない、それどころか電話もメールもしていないタク。結の気持ちの整理がつくまで待っているよと言ってくれたタク。優しすぎるタク。余計なこと言っちゃったかな?というふうに覗き込む光司に気づいて慌てて口を開く。

「だってこれ微妙な女性心理の問題よ?」

「あ、それやばい。最近、香乃のこともさっぱりわかんなくなってきたし。」

 突然、カノ、という言葉が出てきてふいを突かれる。桜のトンネルも半ばまで来ると多少空いてきたのか、前を行く香乃と啓介の姿も今は視界に入っている。

「でも充分仲良く見えるけど?」

「いやぁ、ま、俺が専門学校入って、家出てからは改善されたかもしれないけど、喧嘩多かったですよ。」

「あ、別々に住んでるんだ。」

「そそ、近所なんすけどね。ほら、さっきの、映像やりたいってので親と大揉めして。なかなか簡単になれる仕事じゃないとは思うんすけど、はなから無理とも思いたくないでしょ?あ、そう言えば結さん、お仕事は?」

 結はぐっと言い淀む。どうしてだろう。今まで何の覚悟もなくするりと言えたはずの自分の職業。胸を張って、顔には出さない自負を込めて。結がそれを口にすると、誰もがわあ、と声を上げる、素敵な仕事ですね、という言葉が羨望を込めて投げかけられる、そんな言葉が今はすぐに言えない。

 それでも結はその不安を全身で受け止めて背筋を伸ばす。

「ウェディングプランナー。」

 うおー、カッコいいっすね、といつものような歓声が隣で湧いた。

 浄水場を出たところには、その水を供給している一級河川が流れている。濾過される前のその川の流れは、お世辞にも綺麗とは言い難いが、それでも公園として整備された河川敷は気持ちのよい散歩コースになっている。屋台はその河川敷にずらりと並んでいた。先に立って歩いていた香乃が、屋台の見渡せる位置まで来たのだろう、おおっと声を上げた。

「到着ーっ!」

「馬鹿、出口だよ!」

 一際大きな声で光司が前方の香乃に呼びかける。啓介の隣を歩いていた華奢な肩が勢いよく振り返る。何か言いかけて、結局また前を向いた。兄に文句を返すより、啓介との時間を選んだのだろう。そのまま啓介のシャツの袖を引っ張って屋台を物色しに小走りで駆けていくのを見て、結は微笑した。光司は、ふうっと一つ息を吐いて、そんな結を見やった。

「俺らは座る場所でも探しましょうか。」

 河原は人でごった返している。薄い緑の草の上に色とりどりのシートを敷いて、カップルや家族連れが様々な会話を交わしている。雑多な色、雑多な匂い、雑多な音。 ばらばらなのに調和の取れたその中に、結たちも入っていった。

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