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【小説】「喫茶ひなたに春が来て」第7話

-青い部屋-

〈 結 〉

 赤ん坊を抱くように白いチューリップの束を横抱きにして、結は喫茶ひなたの大きな窓から中を窺っていた。右の肩には傘の柄を挟んでいる。降り続く雨は小雨だが、出し惜しみをしているみたいにさめざめと執拗だ。雨粒で窓には沢山の斜線が描かれていて、暗い店内ははっきりとは見えなかったが、それでも啓介がいないことだけは結にも見て取れた。

 いつもと同じ日曜の午後。珍しく啓介がいない。昨日、職場の式場で結婚式が終わった後、結は余ったチューリップをもらってきた。まだ日持ちのしそうな白いのばかり五本。それを先日の花見のお礼に持ってきたのだった。啓介がいないことなど予想もしていなかった結は、落ち着かない心持ちがした。カウンターの中では結の知らないおじさんがお客と言葉を交わしている。

 迷った末、結はくるりと向きを変えると、ケーキ屋フレイズのレンガ模様の階段を二段上がってそちらのドアを開けた。啓介にはまたいつでも礼を言う機会はあるが、花は待ってくれない。それならせっかくだから香乃にあげようと思い立ったのだ。こちらは入っていかないことには中の様子がわからない。いらっしゃいませ。ショーケースの向こうで頭につけたワインレッドのスカーフが揺れる。それは香乃ではなかった。結は傘を畳んで傘立てに押し込みながら、あれ、と思った。 そう言えば私、あの兄妹の名字を知らない。知っているつもりになっていた。

「すみませんが、香乃ちゃんはいらっしゃいます?」

 だから、そう尋ねた。するとその女の子は少し結の方を見つめてから、あ、はい、と慌てて奥の部屋の方へと半身を出した。香乃ちゃん、と呼んでいる。奥は厨房なのだろう、うっとりするようないい香りが漂ってくる。首を傾げて覗いてみると、トレーに盛大に並んだマドレーヌが見えた。どうやら焼き上がったところらしい。と、ひょこりと香乃が顔を出した。二つ並ぶワインレッドのスカーフ。

「あ、結さんだ。」

 チューリップを抱えて突っ立っている結を見て、香乃は驚いた声を出した。 白いスカートの上から、スカーフとお揃いのワインレッドのエプロンを付けた香乃は、何だかおとぎ話から抜け出てきたように見える。そんな香乃がショーケースの向こうで、結の突然の来訪をどのように受け止めているのか、ちょっと眉をひそめている。もう一人の女の子は気を効かせてくれたのか、香乃と交替で奥へと入って作業を続けている。忙しく行ったり来たりしている後ろ姿が結の位置からも見え隠れする。 時折笑い声が弾ける。他にも誰かいるようだ。

 結はここへ来た理由を簡単に説明したら、花束を渡しケーキを幾つか買ってすぐ帰ろうと思っていた。しかし、どういうわけか、言葉が喉元でつっかえた。眉をひそめた香乃は結の顔を見てはいない。結の手元を見ている。真っ白なチューリップ。雨のせいで水滴がついたチューリップは、いつもよりなまめかしく見える。

「誰かに聞いたんですか?」

 先に口を開いたのは香乃だった。予想もしていなかった、挑むような声。その意味するところが結にはわからない。結は小さく息を吸い込んだ。

「誰かって?」

 穏やかな声を心掛けて問いかける。厨房の和やかな雰囲気と対照的な、不穏な気配が押し寄せている。理由もわからず、結はその波に飲まれそうになる。香乃がさらに眉を寄せる。

「聞いてきたんじゃないんですか? アキナのこと。」

 香乃の視線が再び花に吸い寄せられる。息苦しいほど清楚で、初々しくも不吉な白。結はふいに襲ってきた理解と不安に、思わず花束を強く抱き締めた。香乃は、誰かに聞いて、啓介のために、結が花を携えてきたのだと思っている。何のために。

 ちょ、ちょっと待って、と結は声を上げた。想像以上に大きな声が出て、一瞬、厨房のお喋りが止む。

「私、この間のお花見のお礼と思って、持ってきたんだけど・・・」

 結は慌ててまくし立てた。職場で余った花のこと。喫茶ひなたの窓から覗いたが啓介がいなかったので、花は香乃にもらってもらおうと思ったこと。結は追い立てられるように話をした。 話している内に香乃の眉間の皺は薄くなっていったが、今度はそれがひどく悲しげな表情へと移っていく。それに呼応するように、結の緊張は高まった。

 結が説明し終えると、香乃は大きな溜め息を一つついて、か細い声で、ごめんなさいと言った。ごめんなさい、アタシ、てっきり。そこで言葉がすとんと消えた。目尻を赤くした香乃が、慌てたように下を向いた。驚いたことに、香乃は涙を落とすまいと耐えていた。 結はその時間を静かに待った。木目調で統一された店内を見るともなしに見る。

 降り続く雨のせいか、お客はちっともやって来ない。結にとってはそれが救いだった。と、香乃がやっと顔を上げる。涙はないが、目はさっきより充血している。

「ごめんなさい、アキナのお見舞いの花かと思ったから。それが白い花だったから、ちょっと怖かった。」

「啓介君、どうかしたの?お見舞いって、入院でもしてるの?」

 ううん、と香乃は首を横に振った。ポニーテールがひょこひょこと揺れる。

「熱出して寝込んでるだけ。いつものこと。」

 少しほっとして結は密かに息を吐いた。どうやら大したことはないらしい。好きな人のことだから、ちょっとしたことでも心配なのだろう。

「風邪でも引いたのかしら。啓介君て線細いもんね。」

 結は香乃を安心させようと笑いかけてみたが、香乃は難しい顔をしてしまった。また何かに耐えるように唇を噛む。一秒一秒、何か言いかけては言い淀む。やっと口を開く。そうじゃないの、と言葉が出た。

「アタシは言いたくないんだけど、アキナは誤魔化すのが嫌いだから言うんだけど、アキナは、自分の心臓がいつ止まるかわかったもんじゃないって思いながら生きてる。」

「え?」

 結は目を見開いた。その言葉の意味が染み込む間もなく香乃が続ける。

「アキナは心臓に穴が開いてて、ちっちゃい頃に手術して、それは成功したから何にも心配することなんてないのに。たまに、たまーに熱出すけど、それだって心臓とは関係ないはずなのに。なのに勝手にアキナは決めちゃってるの。全部一人で勝手に決めちゃってるの。いつ心臓が止まってもいいように。いつ自分がいなくなってもいいように。」

 そこまで言うと、言葉にならない残りの思いを抱え込んだまま、ショーケースの上につっぷし、香乃は肩を震わせ始めた。結は何も言うことを思いつけなかった。ただチューリップを強く強く抱き締めることしかできなかった。ショーケースの中のケーキが蛍光灯に照らされて、場違いに輝いている。

 家に帰り着き、中国の湖みたいな色合いの青磁の花瓶にチューリップを無造作に生けると、結は力なくソファに腰を下ろした。ベランダの向こうではまだ雨が降っていて、雨音が不規則に強まったり弱まったりを繰り返す。世界から遮断された部屋。その中で結は電気もつけずにどこでもない一点を見つめている。

 散らかった思考が上手く整理できない。悪気がなかったとはいえ、あんな形で香乃を泣かせてしまって、結は苦い後悔を感じていた。香乃の抱えているものの大きさを、結は見くびっていた。若さで味付けされた、よくある片恋の一形態。それを勝手に昔の自分と重ねていた。大人ぶって、理解者ぶっていた。今日、香乃が肩で泣いているのを見て、結は香乃のあの華奢な身体の中で、普段押さえ込んでいる不安が今暴れているのだろうとわかった。それでも結は、香乃の不安を実感を伴って想像することができない。愛する人が、いつも死を覚悟して生きている。それは、愛する人が突然いなくなることを覚悟していなければならないことと同義なのだろうか。

それにしても考えれば考えるほど、それはどんどん啓介のイメージから離れていく。啓介に、覚悟という強い響きはそぐわないように思える。結はたくさんの日曜の午後を過ごしてきた喫茶ひなたの窓際を思いおこす。のどかな町の通りを生き生きと映し出す大きな窓。振り返るといつだって啓介がいた。コーヒーを入れ、カップを拭き、時にはフライパンを奮う啓介。きびきびしているのに、どこかゆったりしているその気配は、いつも結をリラックスさせてくれる。

 喫茶ひなたにいる啓介。啓介がいる喫茶ひなた。

 誰にも渡せなかった白いチューリップが、その花弁をほんの少し開かせる。ずっと握り締めていたので萎れかけていた葉の色も濃い緑が戻りつつある。結はテーブルのそれを見つめ続ける。ベランダのサッシは締め切っているのに、部屋には雨の匂いが満ち満ちていた。

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