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【小説】「喫茶ひなたに春が来て」第2話

〈 香乃 〉

 扉がしっかりと閉まるのを背中で聞いてから、香乃はほおっと息を吐いた。胸の真ん中から全身に後悔が駆け抜ける。

 ・・・どうしてあんなにテンション上がっちゃうんだ?

 今日は落ち着いていくぞ、と心に決めていたのに、アキナのあの顔を見た途端、決意など吹っ飛んでしまう。自分の心を自分でコントロールできないなんてどうかしてる。言った言葉も考えていたのと全然違うし、順番もめちゃめちゃになった。アタシ、何て言った? 頭から順を追って思い出す。アキナの返してきた言葉もそのままなぞってみる。笑ってくれなかったことが重くのしかかる。アキナはあまり笑わない。たいていほのかな笑みを顔に浮かべてはいるけれど、人の言葉にどっと笑ったりはしない。特にアタシに対しては。

 でも、と香乃はしおれた心をしゃんとさせようと努める。あ、おい、香乃、という呼びかけが救いのように立ちのぼる。名前を呼んでくれた。名字ではなく、はっきり香乃、と呼んだ。少し前まで「吉田の妹」だったことを思えばすごい進歩だ。それに、と香乃はガラスの向こう、さっきまでモンブランのクリームを舐めながら灰色がかった白猫がうずくまっていた辺りを見やる。マロンをマロンと呼んでくれた。アタシが名付けた名前で、マロンをマロンと呼んでくれたじゃないか。

 カウンターの内側に戻ると、ショーケースの中に追加のふわふわプリンを並べていた手が止まり、バイト仲間のノンちゃんがひょいと顔を覗かせた。あふれる好奇心を隠そうともしない。

「どうだった?」

「まあまあ。」

 香乃はちっともまあまあではない顔で答える。片側の頬だけ膨らませるのは香乃の癖だ。

「まあまあって、微妙。」

 ノンちゃんはそう呟いて、またプリンに手を伸ばす。冷たいショーケースの中で、並べたプリンをもう一度ぴっちり詰め直すと、できた隙間にかろうじて残り三つを押し込めてピシャッと閉めた。

 ちょっと言い足りなかったかな、と香乃は不安になる。心が揺れる。アキナと喋ったあとはいつもこうだ。顔を見るまで高揚していた気持ちがくたくたとへたり込んでしまう。嬉しさももちろんいっぱいある。会話を交わせたのだから。でも手放しで喜ぶ気にはなれない。笑顔を見せないから? いや、違う。香乃は認めたくない結論に辿り着きそうになる。温度が違うのだ。香乃の感情の帯びている熱と、アキナのそれが。その温度差に、身震いしそうになる。

「でもさ、ケーキあげてきたんでしょ?」

「一応は。」

 ノンちゃんは、フフ、と小さく微笑んだ。

「じゃ、いいじゃん、今日のとこは。」

 そこまで言うと、ノンちゃんはかがめていた腰を起こし、自分の耳を指差した。ここ、と人差し指で耳たぶを二、三度触る。

「香乃ちゃん、耳だけ真っ赤。」

 え、と香乃は慌てて自分の両耳に触れた。熱い。想いがそのまま耳に溢れてきたかのように熱かった。香乃は再び膨れっ面をして、誰にともなく、もう、と唸ると、厨房に続く小さなドアを開けた。後ろでノンちゃんがくすっと笑うのが聞こえた。

 厨房では、星野夫妻が忙しく立ち働いていた。パティシエの旦那さんが生地をこね、その旦那さんがさっき焼き上げたタルトに奥さんがイチゴをのせている。一つのタルトに大ぶりのイチゴを三つずつ。その手が止まって香乃を見る。

「あれ、香乃ちゃん、時間だからもう上がったのかと思ってたんだけど。」

 ワインレッドのエプロンを外しながら香乃は、違いますよぉ、と声を上げた。

「マロンが来てたもんで。」

「マロン? ああ、店の前で阿波踊りするあの子。」

あはは、と香乃は声を上げて笑った。額に汗を光らせて無言で生地をこねていた旦那さんがちら、と顔を上げる。

「あの子、ウチのマロンクリームばっかり食べるから、その内、黄色くなりそう。でもあれはあれでちょっとした客寄せなんだけど。」

「俺はココアクリームの方が自信あるんだけどな。」

 ぼそりと声が聞こえて、二人で振り向いた。

「馬鹿じゃないの、猫と張り合ってどうすんのよ。」

 奥さんが辛辣な言葉を投げる。香乃はエプロンを畳んで自分用の小さなロッカーに入れ、塾の教科書でずしりと重い鞄を持ち上げる。高三になると日曜日でも朝から授業やテストのある週が増え、今日も塾とバイトをはしごしたのだった。

「あ、そうそう香乃ちゃん?」

香乃が振り向くと奥さんの笑顔とぶつかった。

「帰ったらお母さんによろしく言っといてもらえる? キッシュいただいちゃったのよ。ホウレン草とキノコ入りの。いつも申し訳ないわ。」

「いつ来たんですか?」

あの人、とつい続けそうになって言葉を飲み込む。いけない、外に出してはいけない。

「えっと、お昼前。わさわざ裏口から回ってもらっちゃって。」

 またそんなことしたのか、あの人は。どうして表から入ってこないのだ。何を喋っていったのだ。苦々しい思いが次々に押し寄せてきて飲み込まれそうになり、思わず香乃は息を深く吸った。この感情の塊は何なんだろう。あの人が店で余ったキッシュをおすそ分けにきた。たったそれだけのことがどうしてこんなにアタシをからめ取ってしまうのだろう。その不穏な波を押し込めて、香乃はにこりと笑った。そうすることには慣れている。

「キッシュは店の人気メニューなんで食べてやってください。アタシはハムとトマトの方がイチオシなんですけど。」

 奥さんが、まあやだ、超有名店もかたなしね、と言って笑い、旦那さんも一瞬笑みを見せてまた作業に戻った。香乃はいつもより元気に、夫妻に向かって、じゃあまた明日、と挨拶すると、伝票整理をしているノンちゃんにも手を振って店を出た。

 肩が上下するほど深く息を吐く。無性にアキナの顔が見たくなったけれど、そちらに目をやってしまうと抑えがきかなくなりそうでぐっとこらえた。脇にとめてある自転車の鍵を開ける。鞄を前カゴにのせると、自転車が文句を言うように軋んだ。強く地面を蹴る。桜の花びらの散り敷いた道をどんどん飛ばす。暮れ始めた春の風は、まだ熱を帯びた耳をひやりと撫でる。

 家に戻るといつものように晩ご飯の支度が整っていた。香乃を待っているのは人ではなく、いつも食べ物だけだった。それは幼い時から慣らされた習慣で、特に文句があるわけではない。香乃は清潔なテーブルクロスの上に整然と並べられた皿をざっと眺め渡した。チキンのオーブン焼きマスタードソース添え、色とりどりの温野菜、オニオンスープ。さすがに盛り付けは適当だが、どれもこれも両親が経営している一風変わったフランス料理店で出しているものだ。もちろん家のおかずが和食の日だってあるが、それでも大体は余った料理が一品は混じっている。

 フランスで修行した父親と、栄養士の母親が生み出す料理で構成された身体に優しいフレンチレストランは、雑誌にも掲載される人気店だ。香乃はそんな称賛の的である品々を小さい頃から食べてきた。それは香乃の身体を今も現在進行形で形作っている。健やかに育つために手を抜かない食事を。それを作る人間が忙しくて家にいない代わりに。だから香乃は家族で食卓を囲んだ経験はほとんどない。兄と妹と、豪勢な食卓。

 それにしても親、特に母親に対して苛立ちばかり募る、という現象がもう数年は続いている。どうしてだか懸命に考えてみたけれど、いまだにはっきりした理由はわからない。これが思春期というものだろうか。確かに高校生なると、いろんなことにいらいらするようになった。子供っぽい同級生の男子。背伸びしすぎの同級生の女子。生まれたのが早いというだけで威張っている教師達。学歴社会を強調する塾の講師。ムール貝のことしか考えていない父に、ますます口うるさくなってくる兄。あまりに周りの皆が嫌いに思えて孤独の網に捕まってしまう時もある。それでもそれは思春期だから。その一言で言い表してしまってもいい。その内終わりがくるだろうと。しかし母のことは、その範略には入らない。そんな気が香乃にはする。怒りの種類が違うのだ。

 そう、ちょうど今日みたいに母がお節介で的外れなことをした時など、香乃の苛立ちは一瞬の内に沸点を越える。モノは違えど同じように料理を作って売る商売をしている星野夫妻のケーキ屋に、いくらおすそ分けとはいえ店で余った品を持ってくるなんてどうかしてる。偉そうだし世間知らずだ。そもそもアタシがあのお店でバイトの口を見つけたのは親とは何の関係もないルートだったのに。元々友達のノンちゃんがあそこで働いていて、アキナの店の真ん前だからそれをずっと美ましがっていて、そうしたらバイトに空きが出たからってノンちゃんが誘ってくれたんだ。独自ルートだ。

 それなのにアタシが、かの有名な、フレンチレストランのオーナーの娘だということが知れてしまって、星野夫妻が挨拶がてら食事に行っちゃって、星野夫妻もフランス好きだから意気投合しちゃって、結局仲良くなってしまった。そんなことばかりだ、と香乃は強く思う。何だかアタシの人生をしょっちゅう親に土足で横切られているような感覚。そしてその対象はなぜだか父ではなく母であるという感覚。生々しい野蛮な怒りばかりで、だからどうしても客観的になれない。

 そんな時、香乃はアキナのことを考える。アキナのことで頭を一杯にする。あの不思議に柔らかい眼差しを懸命に思い出す。たくさんの会話のストックを引っ張り出す。そして何とか落ち着きを取り戻す。それでも駄目なら会いに行く。アキナはいつでもあの場所に、あの古くさくて優しい場所にいるから。喫茶ひなた。

 アキナの傍にいるとそれだけで怒りから、言い換えれば不安から解き放たれる感じがする。見えないバリアで守られている感じがする。ずっと傍にいられたら、ずっと守られていることができる。そしてその逆もきっとできる。アタシだってそういう存在になってみせるのに。アキナの不安を軽減させてあげられるのに。たとえゼロにはできないにしても。

 いつも以上に時間をかけて夕食を終えてから、香乃は洗面所の鏡に自分の顔を映す。童顔の香乃の顔。アキナの方がずっと大人で、年齢差は大してないのに天文学的に思えるほど遠い。そして縮まることもない。香乃は目元に力を入れてしばらく耐えていたが、やがてコップの水が表面張力の限界を超えた瞬間のように、静かに涙をこぼした。

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