見出し画像

【小説】「喫茶ひなたに春が来て」第12話(最終話)

〈 光司 〉
 
 撮影してきたのは坂の多い町だった。主要幹線道路からはるか離れた、電車も本数の少ない支線しか通っていない町。そんな通いにくい場所に建っている、ある会社の紹介ビデオに使う素材を撮っていた。美しい坂道の風情。地域に点在する情緒的な家々の軒先。探さないと見つからないそんなカットばかりをかき集めて、イメージ映像を作り上げる。それより働いている人たちの活躍する様子なんかを使った方がよほどいいのでは、と思ったけれど、もちろん光司にどうこうできる話ではない。

 早朝の人気のない時間から、社員集めの苦肉の策の手伝いをして、光司はやっと夕方に帰宅した。映像を集めるのは決して嫌いではない。重いカメラバッグを肩から下ろしながら光司は何百回目かでそう思う。でもやはり違う。ビデオカメラとともに歩んできたこの地道な作業がこの先どこへ繋がっていようとも、どこか違うという思いは拭えないような気がする。光司は冷蔵庫から冷えた皿をいくつか取り出すと、保冷用の巨大なブルーのハードケースに慎重に並べ、再びカメラバッグを担いでいた方の肩にそれをかけて部屋を出た。重さはこちらの方が少し勝っているかもしれない。

 喫茶ひなたの見える角まで来て、光司はまず反対側の店をちらりと伺う。店の横の日陰に、香乃の赤い自転車が停められている。どうやら真面目にバイトに精を出しているらしい。そのまま喫茶ひなたの扉を開けようとして、目の端に止まったものがあり、そちらへ視線を戻す。

「なんだ、ありゃ。」

 くすんだ白猫がダンシングしている。後ろ足で立って、前足を器用にパタパタと動かして。ははあ、さてはあれが香乃の話していた猫のマロンか。あいつ、ちょっと前まで啓介の話をするのは嫌がるけど、猫の話なら嬉しそうにしてたんだけどな。最近じゃ、それすら話してくれなくなって、ちょっと寂しい気もするな。光司はそんなことをぼんやり思いながらなおも踊り続ける猫を見ていたが、やがて鮮やかなつつじの花に囲まれた、喫茶ひなたのドアを開けた。

「おい、猫が派手に踊ってるぞ。」

 そう言いながら入っていった店の中には先客がいて、それは驚いたことに結さんとその恋人だった。啓介が紹介するのを聞いて、光司は大きな声を上げる。歓声だ。こうして人が繋がっていく。啓介の周りに。それは楽しいことだと光司は思う。二人が窓際の席ではなくカウンターに座っていたので光司もその横に腰を下ろす。ブルーのケースはとりあえずカウンターにどっかりとのせた。

「いやいやいや、これはこれはこれは。お噂はかねがね。」

「私、タクの話なんかしたかしら。」

 タクと呼ばれたサラリーマン風の男は困ったような嬉しそうな顔で、結と光司を見比べている。

「こいつは適当なことを言うのが趣味みたいな男ですから。」

 横から啓介が口を挟む。そしてカウンターにのせられたケースをじろじろと見て、

「今日は保冷ケースの日か。」

 と、意味のわからないことを呟いた。

「これ、何?」

 結も巨大なケースを指差す。と、タクも、

「魚でも釣ってこられたんですか?」

 と光司の方をまじまじと見つめる。本当はこっそり啓介に渡そうと思って持ってきたのだったが、こうなったら作戦変更だ。光司はケースをぴしゃりと叩いた。

「ハズレ! あ、でも旨いもんには違いないですよ。」

 ひんやりした箱の中からグラタン皿を取り出して並べる。薄いグリーンと黄色の模様がついた皿に、それぞれ白っぽい物が詰まっている。結とタクは息を詰めてそれを見ている。啓介だけが、相変わらず落ち着いた風情を漂わせている。

「ジャジャーン。ホワイトアスパラのクリームグラタン。聞いただけで旨そうでしょ。」

「聞いただけじゃわからないな。」

 啓介が落ち着き払ってそう混ぜっ返したので、結とタクは声を上げて笑った。ったく啓介め。いつでも啓介然としやがって。光司はちぇっ、と舌打ちをした。

「もう、こいつはほっといていいですからね。結さんもタクさんも食べてくださいよ。腹減ってないですか。なくても食べてもらいますよー。ほら啓介、トースター予熱。」

 喋りまくっているのは恥ずかしさもあるんだろう、と光司は自分でわかっていた。自分の手で作ったものを啓介以外の人に食べてもらうのは初めてだった。まだそれは当分先延ばしにするつもりだったのだが、せっかくのこの機会をチャンスととらえよう。

「すごーい、美味しそう、これもしかして光司君が作ったの?」

 グラタン皿を覗き込みながら、結が弾んだ声を出す。タクは皿を傾けてラップの向こうを透かし見ている。光司は啓介がバオバブの御曹司云々の話を持ち出すのではとちらりと不安を覚えたが、啓介はもちろんそんな素振りは見せなかった。光司は自分がそんなことを危惧したのを恥じた。そんな不安を察知するなど啓介には朝飯前だ。それを知って利用することなど絶対にない。

 啓介はトースターを温めると、グラタン皿を一度に二皿どうにか押し込んだ。それから改めてこちらを振り向くと、そうそう、と光司に向き直った。

「おまえの同士を発見したぞ。」

 手の平をタクの方に差し伸ばしながら啓介が宣言した。光司は首を捻る。

「どんな同士?」

「ミルクの同士だ。」

「はあ?」

 啓介が無言でカウンターの上に目をやる。結とタクは光司が入ってくるまでコーヒーを飲みながら啓介と話をしていたらしい。結の前には残り少なくなったカプチーノが、タクの前には空になったコーヒーカップが置かれている。そしてその横にミルク入れ。光司は大袈裟に息を飲んでみせた。

「ええっ、もしかしてタクさんもコーヒーに後からミルク注ぎ足すタイプ?」

そう指摘されると、タクは苦笑した。

「そうなんです、変な飲み方かもしれないですけど、どうしても自分で量を調節したくて。こうして出してほしいと啓介さんにお願いしたら、もう一人そういう飲み方の方を知っていますと。まさかさっそく会えるとは、」

 タクが喋っている向こうで啓介が立てた人差し指をカッコよく左右に振る。

「少し違います。飲み方の方、じゃなくて、そういう飲み方の、馬鹿でかい図体で、声もやたらでかい、口の悪い・・・」

「うるさいっ。こいつはほっといて。そうですか、いや嬉しいなあ、これきっと通の飲み方ですよ。結さんいい彼氏をお持ちだなあ。」

 啓介を手で追い払うような仕草を見せて、光司は結とタクに話しかけた。そして内心嬉しかった。いつもの啓介が戻ってきている。喫茶ひなたにいつもの啓介が。零れ落ちるように流れていく時間の、その一瞬。こんなにかけがえのない時。啓介だけじゃない。誰でも限られた時を生きているのだ。そして啓介だけが人より早く歳をとっていくわけじゃない。光司は思わず立ち上がり、啓介に言った。

「おまえ、それ焦げすぎるから、途中でアルミホイルかけてくれよ。俺、香乃を呼んでくる。」

 啓介は眉を持ち上げて、おまえなぁ、という顔をしてみせた。

「香乃は仕事中だろう?」

「大丈夫だって、どうせグラタン余るからな、フレイズの人にも味見してもらおう。」

 言いながらもう光司は重くて古いドアを開けていた。ちりん、とぶら下げられたベルが鳴る。ちっぽけな花壇で、鮮やかなツツジが揺れている。踊り疲れたのだろうか、猫はレンガ模様の段々の隅で、丸くなってまどろんでいた。

〈了〉

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?