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【小説】「喫茶ひなたに春が来て」第6話

〈 光司 〉

 レンジで柔らかくして、種と皮を取ったかぼちゃを裏濾しする。黄色ではない、いっそオレンジ色と呼べそうな、豊かな色彩がボールに広がる。暖かな香り。このまま生クリームを混ぜて団子にするだけでも充分旨いだろうな、と思う。その誘惑に負けないよう、ペースト状になったかぼちゃの上に勢いよく小麦粉をかけて混ぜ込む。パルメザンチーズとナツメグも次々と投入する。機械的に手を動かせばいい段になって、やっと光司は大理石の調理台に乗せてある置き時計を見た。

 まもなく夜中の二時になろうとしている。両親の経営するフレンチレストラン「バオバブの木」の厨房で、光司はかぼちゃのニョッキを作っている。間接照明を上手く使ったホールと違って、厨房はただただ機能的に明るい。こんな時間に店にいるのはもちろん光司だけなので、そこだけ蛍光灯のともった厨房は、間違って不時着したUFOのように孤立している。切り離された世界。でも光司はその感覚が嫌いではない。ニョッキに挑戦するのは初めてだが、深夜の厨房を借りるのは昔から光司の習慣だった。一人黙々と料理を作る、という作業はいつだって光司の気持ちを落ち着かせる。

 親の跡継ぎは高校の頃に拒否したけれど、それは親の跡を継ぐのが嫌だっただけで料理のせいではなかった。旨いものをさらに旨くするために、手間をかけるのが好きだった。誰に習ったわけでもないが、子供の頃から厨房に出入りしていたので、見よう見まねで大抵のことはできた。材料を全部混ぜ合わせてパン生地みたいに一まとめにしてしまうと、光司はそれを五等分に分けた。手で伸ばして千歳飴のような形にする。それを三センチ間隔に切ってしまうと、後はもう茹でるだけになった。

 大きな鍋を取り出して、そこにたっぷりの湯を沸かす。沸くまでの時間、まさに茹でられる直前のニョッキ達を眺める。ぞんざいに積み上げられた艶やかなヤツら。これを今、自分が作り上げたのだと思うと無条件に嬉しくなる。やはりここに戻ってくるのかもしれない。光司は辿り着いてはいけない結論に辿り着きそうになる。

 そう言えば今日も動揺したのだ。花見の途中の結さんとの会話。映像をやりたい。本心のはずなのに、最近はそれを言うたびにひやりとする。まるで自分が嘘をついたように。

 例えば年に一度の雨が砂漠に落ちる瞬間。例えば白夜の夜に雲の切れ間から低く浮かぶ太陽。一つ、また一つと砕けていく氷山。平原を吹き抜ける嵐の前触れ。そんなものが撮りたかった。そこに居合わせた者にしか感じ取れないものを、皮膚感覚ごと映像に封じ込めてしまいたかった。簡単なことではない。適切な技術と柔軟な感性。「そこに居合わせる」ために必要なコネクションと費用。海外にはなかなか行けなかったが、それでも光司はチャンスを見つけては撮影を続けてきた。アルバイトで頼まれ仕事の素材を撮影し、それで溜めた金で自分の撮りたいものになるべく近いものを撮りに出掛ける。そういう生活を五年以上こなしてきて、光司はやっと理解し始めていた。

 自分は、自分の情熱を勘違いしてきたのではなかったか。映像とは確かに魅力的な世界だ。だが自分は、映像で食っていく、という言葉の幻像に酔っていただけではないか。何者にもなれないで焦っていたかつての自分の、その何者かが、興味があって刺激的な、ビデオグラファーという職業に飛びついただけではないか。徐々に、何を撮影しても人の真似でしかないような気がしてきた。日本はもとより、世界中のありとあらゆるものは既に映像化されている。それをいまさらあえて自分が捉え直す必要があるのか。

 だからと言って、今更何ができるだろう。振り出しに戻って途方に暮れるのが落ちだ。そう思った時に、いや、振り出しに戻る必要はないかもしれない、と光司は気づいた。自分は知らず知らずのうちに、全く別の双六だって道半ばまで歩いてきているじゃないか。料理だ。笑ってしまうほど皮肉な答えだが、光司はそれを思いついた時に、胸に巣食っていたごたごたが、あるべき場所にすとんと収まったような一種の爽快感があった。別に店を継がなくたっていい。自分流の道を作ればいいんじゃないか。今の自分の思いつきを打ち明ければ、親父もお袋も笑うだろう。それは失笑かもしれない。料理の基本も知らないくせに今更無理だと鼻であしらわれるかもしれない。

 でも啓介ならきっとこう言うだろう。やっぱりそうだろ。まるでずっと前からわかっていたかのような口ぶりで。憎たらしいほど冷静な表情で。光司は茹で上がって湯の中から浮かび上がってきたニョッキを掬いながら、その時の啓介の顔を空想して一人苦笑した。

 そういやあいつは今日の成り行きも予想していやがった、と、また光司は昼間の花見を思い出す。啓介と二人して屋台を物色しに行った時のことだ。香乃は啓介を独り占めし損ねて明らかに不機嫌だったから、はからずもその役を担ってしまった結さんと二人だけを残して席を外すのは避けたかった。それなのに啓介は光司一人を引っ張っていった。大丈夫だ、と断言して、わざわざ離れたコンビニまで出向いて缶コーヒーとジンジャーエールを買った。戻る途中、香乃が慌てた様子で走ってくるのが見えたので、絶対何かあったのだと光司は心底焦ったが、その時も啓介は涼しい顔をしていた。

 そして不思議なことに、戻ってみると香乃と結の距離は縮まっていた。和気あいあいとまではいかないけれど、男二人に聞こえない声で、ひそひそと何事かを囁きあったりしていた。光司は狐につままれたような思いで、思わず啓介を見据えた。啓介は相変わらず平然とビールを飲み、それが終わるとまた平然と香乃持参のケーキをぱくつきながら、缶コーヒーを開けた。

 かぼちゃの色が引き立つよう、真っ白な皿にうずたかくニョッキを積む。それらは揺れて、つややかに湯気を上げている。あつあつを一つ摘まんで口に入れる。生命力に満ちた味が口の中いっぱいに広がる。午前三時になろうとしている一人きりの厨房で、自分の進む道をかぼちゃに示唆されているような気がして、思わず光司は顔をしかめた。

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