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【小説】「月の子供たちは、その夜」第3話

   〈I〉

 珍しく天文台に用事があるというリュンがやって来たのは、午後二時ちょうどだった。事務室の入口から顔を覗かせたリュンに腹立たしいほど胸が高鳴って、焦りを隠そうと乱雑にプラネタリウムの鍵を手にした。平日のこの時間帯は、予約がなければ調整だの何だのの時間でプラネタリウムの上映をしていない。プラネタリウムのドームを使わせてほしいんだけど、とリュンが電話をしてきたから、この時間を選んだのだ。久しぶりだね。そう笑うリュンはなぜか少し陽に焼けて、いつもより精悍に見えた。それだけのことが俺を緊張させる。そんな自分に更に苛立ちが募る。
「なにそれ、ワシントン焼け?」
何だよそれは。後ろからついてくるリュンが返事をしている。
「あー、研究チームでランチミーティングをしてたからかな。わざわざ陽の当たる部屋にテーブルを移動してさ。でもそんなに長時間じゃないよ。」
「それは太陽に敵と見なされてるからだろうが。」
俺は容赦なく言い募る。
「月を崇めるのは太陽に唾する行為だから。」
それをリュンは昔のように単純な冗談と受け取る。くすくす笑って、そうだよな、などと返してくる。人の気も知らないで呑気なものだ。いや、知ってるくせに、か。俺はプラネタリウムの両開きドアを勢いよく開けると、リュンを中に招き入れた。

 「悪かったね、仕事中に。これをちょっと使わせてもらいたくて。」
手にした紙袋から大事そうに取り出した箱を見て、思わず上擦った声が出た。
「うわ、それ話題の家庭用プラネタリウム?」
「さすが、知ってるねえ。」
喜々とした口調で、リュンは中身を箱から出して机の上に置いた。両手に包めるほど小さなダークブルーの球体に四本脚が生えたようなそれは、まだ発売前の、しかし業界ではかなり前から噂になっていた代物だ。今までのものとは比較にならない星の多さと正確さを売りにしていた。三百六十五日、二十四時間の星の動きを再現でき、南半球の夜空を楽しむこともできる。更には過去数百年のデータが入っていて、惑星同士の接近や彗星など、その時々の天文現象までも部屋の天井や壁に映し出すことができるという驚異的な製品だった。
「これ試してコメントくれって、メーカーさんに頼まれちゃって。自分の部屋でもやってみたんだけど、どうしても部屋だとカクカクするからここでも試してから返事しようと思ってさ。」
「カクカクっておまえ、普通家庭用プラネタリウムってそういう部屋でやるもんじゃないの?」
そうなんだけどさ。リュンが困ったような顔で頭を掻く。ずっと見慣れているはずのリュンのそんな表情を、久しぶりに見た気がした。思いの丈をぶつけてしまってから、俺はリュンとの距離を昔のように自在に操れなくなった。リュンはこちらの気持ちなどお構いなしにその物体のスイッチを入れ、何やらあちこち操作し始めている。
「でもやっぱりコメントするなら正確を期したいからさ。電気消してもらっていい?」
リモコンで部屋を暗くするのと、息を呑むのが同時だった。それは毎日ここで働いている俺ですら驚いてしまう光景だった。ドームに映し出されているのは今の季節に夜空を彩る星座。びっしりと空が星で埋め尽くされ、その正確さ、細かさは一目でよくわかった。言葉を失くしていると、ねえ、結構すごいもんだよね、と言いながらリュンがつまみをいじっているのが暗闇の中でも感じ取れた。ゆっくりと星座が動き出し、悠然と月が昇り始めた。俺はこのショーをじっくり楽しむため、ドームの真ん中辺りのシートに腰を下ろす。ひどく斜めに傾いだ座席は、慣れたはずの今も不思議と高揚感を運んでくる。月は白道と呼ばれる己の進むべき道をどこまでも昇っていく。そして純粋な心の高揚に、突然別の理由が割り込んでくる。影みたいになったリュンがやってきて、通路を挟んだ隣に座ったから。同じ角度に傾いだ姿勢で、同じ空を見上げたから。
「家でこんなのが映し出せるなんて、ちょっと前まで考えられなかった。」
リュンが喋っている。手を伸ばせば届く位置にリュンが存在している。俺は身体に麻酔を打たれたようになって上手く返事すらできない。リュンの気配。リュンの声。麻酔が体内をぐるぐる回り出す。腕に、頭に、下半身に。初めのあの夜みたいに。俺の中で、信頼する仲間がその姿を変えてしまったあの夜。
「このまま放っておくと、一日ずつちゃんと軌道がずれていくんだよ。」
リュンの声は膜の外のように遠い。

 大学院二年の冬、修士論文のためのデータ解析に合点のいかない部分があり、真夜中の研究室のドアを開けた。提出までに残された時間が少なく、解析装置はいつも順番待ちの状態だったので、夜中なら使えるだろうと踏んだからだ。部屋の中には驚いたことに先客がいた。それは初めリュンには見えなかった。電気が消されているはずの研究室中がほの青く照らされていた。南向きの窓の外を窺うと、ちょうど真正面に満月があった。リュンは窓際の作業台に椅子をもたせかけるようにして、仰向けに傾いて座っていた。リュンの身体全体が青い光に包まれていた。それはしばらく判別できないほど今までのリュンとは違っていた。リュンはあまりに美しく見えた。瞼は半分閉じられたようになり、その顔は恍惚としていた。これ以上の幸いなどあるはずがないとでも言いたげな微笑を浮かべていた。地上の、この世の生き物ですらないみたいだった。背中に羽が生えていてもすんなり受け入れられただろう。俺はそれがリュンだとわかった瞬間、身体中に電流が流れたみたいになって、比喩じゃなく、切り裂かれたみたいに胸が痛んだ。見てはいけないものを見た気がした。何かが決定的に変わった。思わずよろめいて傍にあった機材に足をぶつけた。青い光に彩られた美しい生き物は半身を持ち上げると、
「あれ、アイ?何してるのこんな夜中に。」
と別に責めるでも狼狽するでもなく俺に呼びかけてきた。アイ、と呼ばれても、もうこれまでみたいな返事をすることができなかった。俺にはもうわかっていた。これから先もずっと、その瞬間より前の関係には戻れないだろうと。脚の付け根にわずかな昂りが残っていた。
「この部屋って冬の満月がこんなにぴったり入るなんて知らなかった。今まで損してた。」
リュンが再び頭を机にもたせかけて喋っている。
「もしかして解析の続き?アイの修論って宇宙望遠鏡のレンズについてだっけ?アイはやっぱり機械系が好きなんだな。」
青い光のシルエットが静かな声を発している。身体の中から凶暴な感情が湧き上がってきて、俺はその名前を思い知る。俺は一つになりたかった。あの美しい生き物と溶けあって一つになってしまいたかった。飛びかかって、めちゃめちゃに壊してしまいたかった。自分だけのものにしてしまいたかった。
「そうだよ、機械屋なしで研究者なんて何もできねえじゃん。」
俺はその感情を拒絶し抑え込み、引きはがすようにして言葉を投げると、解析装置のスイッチを入れた。ぶうん、という無機質な音が部屋中に満ちて、やっと止めていた息を吐き出すことができた。そうだな、呟くようにリュンが答える。
「研究者なんかいなくても、きっと何も変わらないんだよ。宇宙は宇宙だけで続いてきたんだから。」
リュンの声は段々聞こえにくくなって、全てが青い光の中に吸い込まれていった。

 いたっ。ミュイが小さく悲鳴を上げて、我に返った。自分が何をしていたのか覚えがなく、底冷えみたいな恐怖を感じる。あ、大丈夫だよ、アイ。俺は頭を何度か振って、身体を起こす。ミュイが心配そうな顔をしてこちらを窺っている。
「大丈夫なわけないだろ。俺、今おまえの胸噛んだぜ。」
薄暗い車内でも、ミュイのフェニックスの近くにうっすら歯型が残っているのが見てとれる。俺は両手で自分の顔をごしごしとこする。一体俺は何をしているのだ。どこへ行こうとしているのだ。
「今日のアイは何か変だね。」
ミュイは服を元通りにすると、後部座席の窓を半分ほど開け、視線をその先、対岸の夜空に向けた。ミュイは時々この川原へ来たがる。視界が開けていて好きだという。でも本当は、サークル時代に観測会と称するバーベキューや花火大会をした、あの時代の思い出が詰まっているからだろう。
「それはまあ多分、こないだ久し振りにリュンに会ったからだろうな。」
取り繕ってもミュイには通用しないので正直に告げると、ミュイは心底嬉しそうな顔で振り返った。それが俺には理解できない。ミュイがとっくに飲み込んでしまった矛盾を俺はあちこちでショートさせたままだ。聞いてなかったのか?と問うと、リュンは先週からまた九州の学会に出掛けてるから、という返事が返った。リュンは宇宙磁気研究の第一人者として様々な学会に呼ばれる。日本中の、世界中の。で、どうだった?ミュイが無邪気な表情で尋ねてくる。邪気がなさすぎて俺はしばらく口ごもる。そして結局本当のことを白状する。
「やっぱ駄目だわ。感情の波に翻弄されるっちゅうの?疼くっちゅうの?」
「恋だねー。クレイジーラブってやつだ。」
いとも簡単に指摘してくる。楽しそうに口笛まで吹いてみせた。
「おまえさあ、何でそう楽しそうに言えるんだよ。」
ミュイは身体をよじるようにして小さく笑った。
「だって全然おかしなことじゃないから。おかしいと思うの、アイだけだよ。」
んなわけねーだろ。否定するとミュイは身体をびくっとさせ、頬を片側だけ膨らませた。
「もう、私、アイのこと応援してるのに。」
俺の頭はまた混乱する。ミュイが得体の知れないものに思えてくる。俺が眉を寄せると、ミュイの腕が伸びてきて俺の身体を引き寄せた。まともに体重をかけてしまう。ミュイは平気な顔をしている。俺の頬に頬をつけ、耳元で囁く。
「私、アイならできる気がする。私なんかよりもっとリュンの近くに行ける気がする。」

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