見出し画像

ペルソナ的世界【2】

【2】クオリアとペルソナ、どろどろしたものから生まれる個物

 英語に“from soup to nuts”という慣用句があります。実際に使われる場に居合わせたことはないのですが、コース料理がスープに始まりデザート(ナッツ)で終わることから、「始めから終わりまで」とか「何から何まで」といった意味になるようです。
 私はかつて、この言葉を使って、次のような文章を、養老孟司編『脳と生命と心』に対する“書評”として書いたことがあります。

 ……脳や生命や心をめぐる現象と認識について考えるとき、“from soup to nuts”という語句が威力を発揮するのではないかと思う。たとえば、茂木健一郎氏(『脳とクオリア』)の「志向性」の概念を「from ~ to ~」と、「クオリア」を「~」とそれぞれ対応させることで、心脳問題に関するラフな見取図が描けるのではないか、といったように。
 あるいは、質料から形相へ、可能態から現実態へ、普遍性から個別性へ──そしてギリシャ語の「ヒュポスタシス」(サブスタンスにつながる「実体」の意味とともに「固体と液体の中間のようなどろどろしたもの、濃いスープ」の意味をもつ)からラテン語の「ペルソナ」へ(坂口ふみ著『〈個〉の誕生』参照)──などと読み替え、これを、素粒子は豆を煮たスープのようなもので、それを観察すると煮る前の豆に戻る云々と、茂木氏との共著『意識は科学で解き明かせるか』において天外伺朗氏が語っていたことと組み合わせることによって、そもそも「物質」とは何かを考える上で欠かせない視点が導かれる、といったような。
 さらにいうと、その経験の確立に時間を要し、つまり再現性が弱く、いいかえれば一回性や個人性の要素が強く、したがって同一性の特定が困難な触覚的知覚を「soup」に、本来触覚との協働を抜きにしては考えられないにもかかわらず、いったん成立すると身体性から抽象され、無時間性や再現性や反復可能性や公共性が強くなる傾向をもつ視覚的知覚を「nuts」にそれぞれ置き換えてみることも、何ほどか思考のヒントのようなものが得られるのではないと思う。……

 この文章を書いたときに、私の念頭にあったのは、坂部恵著『ヨーロッパ精神史入門──カロリング・ルネサンスの残光』第七講「レアリスムスのたそがれ」の議論でした。ここでも、昔書いた文章のキレハシを自己引用します。

 ……坂部恵はそこで、西欧中世の普遍論争において、スコトゥス派(実在論)とオッカム派(唯名論)の対立は通常、個と普遍のプライオリティをめぐるものとされるが、パースは、「定まらないもの」(the unsettled)が最初の状態であるとするスコラ的実在論者の側に真実があるとして、その論争点をずらした、と論じている。以下、パースの文章を孫引きする。

《考え深い読者よ、政治的党派心のバイアスのかかったオッカム的な先入観──思考においても、存在においても、発達過程においても、「確定されないもの」(the indefinite)は、完全な確定性という最初の状態からの退化に由来する、という先入観を取り払いなさい。真実は、むしろ、スコラ的実在論者──「定まらないもの」(the unsettled)が最初の状態なのであり、「定まったもの」の両極としての、「確定性」と「決定性」は、概していえば、発達過程から見ても、認識論的にも、形而上学的にも、近似的なものを出ない、と考えるスコラ的実在論者の側にあるのである。(C・S・パース「形而上学ノート」)》

 対立は個と普遍のいずれが先かではなく、それに先立ち「確定されないもの」と「確定されたもの」のどちらを先なるものと見るかにあるのであって、問題は、「むしろ、(パースはそこまで明言していませんが)、個的なものをどう捉え、ないしはどう規定するかにかかわるものである」(47頁)。
 すなわち、実在論と唯名論の対立の因ってくるところは、「個的なものを、元来非確定で、したがって(ここが肝心のところですが)汲み尽くしえない豊かさをもち普遍者や存在をいわば分有するものと見なすか、それとも、まったく反対に、それを、いわば第一の直接与件として、しかも単純で確定された規定を帯びた、世界と思考のアトム的な構成要素と見なすか」(47-48頁)という考え方のちがいにある。……

 私は、「どろどろしたもの、濃いスープ」(ヒュポスタシス)から掬いあげられる、「非確定で、汲み尽くしえない豊かさをもち普遍者や存在を分有する個的なもの」のことを、ここで「クオリア=ペルソナ」と呼んでみたいと思います。
 込み入った話になりますが、前回示した図に関連づけて言うと、私は、下方(形而下の界域)に位置するヒュポスタシスからの生成物(沈殿物)としての“クオリア”と、上方(形而上の界域)に位置する、ヒュポスタシスの概念的「倍音」をたっぷり含んだ“ペルソナ”とが、実は「ヒュポスタシス=ペルソナ」の垂直軸を構成する同じ実質をもった“個物”であることを表現したいと思っているのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?