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韻律的世界【30】

【30】モアレ─擬態字・水の中のかな文字(その2)

2.水(夢)の中の文字─読まれないのに文字であり続けるという逆説的な文字

 すでに述べたように、韻律について考えるようになったきっかけは、平安朝から鎌倉期にかけての王朝和歌への関心が嵩じたことにあります。
 井筒俊彦が司馬遼太郎との対談「二十世紀の闇と光」で、「私は、元来は新古今が好きで、古今、新古今の思想的構造の意味論的研究を専門にやろうと思ったことさえあるくらいです」(司馬遼太郎『十六の話』(中公文庫)427頁)と語っています。偉大な先人の言葉を借用するのは不遜ですが、王朝和歌をめぐる言語哲学的な意味論研究の真似事を、素人ながらやってみたいというのが。そもそもの発端でした。
 あれこれ文献を漁るなかで、王朝和歌をめぐる朦朧としたイメージが立ちあがってきました。それは、第3節で引いた石川九楊氏の「意味の韻、文字の韻、書くことから生れる韻律によって成り立つ和歌が、女手の誕生とともに生れた」(『日本の文字』)という言葉に集約されます。
 これと同じ趣旨のことは、たとえば、古今集の表現上の特徴が、かな文字=「歌の文字」の連鎖・線条がもたらす「複線構造による多重表現」にあるとする小松英雄氏(『みそひと文字の抒情詩』『古典和歌解読』)によって主張されています。
 また、神田龍身著『紀貫之──あるかなきかの世にこそありけれ』では、貫之のかな文字(和歌の言葉)は「紙上のパロール」すなわち「偽装された日本語音」であって、ピュアな日本語音を映しだす透明な媒体などではないと指摘されています。
 王朝和歌の実質は、「意味の韻、文字の韻」を通じた「複線構造による多重表現」を生成する「偽装された日本語音」、すなわち「かな文字」にある。──ここで、私がかねてから刺激を受けてきた、矢口浩子・新宮一成の共著論文「かなと精神分析」を参照したいと思います。
 この論考は、石牟礼道子のエッセイ「夢の中の文字」を踏まえているので、まずその該当箇所を抜き書きします。

《この世とあの世の境には、往きつもどりつして今日は生きそびれ、昨日は死にそびれして、どちらの方へとも往きつけぬ世界がもうひとつあって、そこに居るものたちの位相を、迷う、とか、狂うとかいうのだろう。
 そのような世界をあらわすらしい分明ならざる闇の中に、一筋の川がかすかに光りながら流れてゆく夢をよく見る。(略)
 川はたぶん川自体の旅程をあらわすのであろうが、必ずその川底から、短冊様、あるいは長い巻紙様の、ひらひらとくねる古い紙が浮き上がって来て、解読できない毛筆の文字があらわれようとする。濡れた髪のようになって、溶けて散りながら、その文字は一度も形になってくれないのである。生まれることが出来ないその文字は、わたし自身でもあるらしい。》(『石牟礼道子全集・不知火 第9巻』)

 ここに述べられた解読できない文字、すなわち川底と水面の境で往きつもどりつしている水の中の毛筆の文字(かな文字)をめぐって、矢口・新宮前掲論文では次のように書かれています。

《彼女[石牟礼道子]は川底というあの世のくびきと、水面上のこの世の境で、「往きつもどりつして今日は生きそびれ、昨日は死にそびれ」ている自分の存在を、読まれない文字に重ね合わせている。水の中にある限り、文字は「意味」をもつことができず、ただ漂っている。それはちょうど、果てしない時空の広がりの中で、何の意味も持ち得ない、人間存在の救いようのない孤在の姿であるように思われる。それに対して、水の中から文字が浮上すれば、そのとき私は私が存在することの意味を知ることができるように思われる。ただしこの世でその文字が解読されてしまったなら、私は他者に私の存在の意味を譲り渡すことにもなるだろう。意味は普遍である。いったん普遍に入れば、文字は私だけのものではありえなくなる。私が私の存在の意味を知るときには、すでに私は普遍の主体であって、もうあの孤在のままの私ではなくなってしまう。
 夢の中で文字が、普遍を拒絶しているとしたら、それは、私が私自身のまま存在しようとしているからである。書によって、意味や音を手放そうとする文字は、個別であろうとする私の存在なのである。その存在は意味を得ることはできず、あの世に沈むしかない。だが、読まれてしまうような文字もまた、普遍の中に疎外されて失われてしまうのである。
 したがって、読まれないのに文字であり続けるという逆説的な文字の状態は、救いようのない孤在と、疎外された普遍的主体との間の、どちらともつかない位相を表しているといえよう。すなわち、文字が音や意味から剥離し、それによって不気味さを与えつつ、かえって美への可能性をも示すという事実は、文字に託された我々人間の生の、個別と普遍の狭間で行き惑うあり方そのものに由来しているのである。》 (叢書・想像する平安文学第5巻『夢そして欲望』)

 ──ここで言われる「読まれないのに文字であり続けるという逆説的な文字」こそ、言い換えれば、普遍的な意味の領域に入った文字言語と、言語の幼体とも言える擬態文字、あるいは言語発明以前の形象徴とのあいだ、個別と普遍の狭間を、往きつもどりつしている文字[*]、濡れた髪のようになって、溶けて散りながら、一度も形になってくれないかな文字こそ、リズム②のレイヤーにおける「形の韻」の本体である。私はそのように考えています。

[*]いかにも自然現象との連続性を感じさせるかな文字の連綿と同様の事態が、漢字やアルファベット(を形づくる文字素)についても言える。この点については、マーク・チャンギージーが『ヒトの目、驚異の進化──視覚革命が文明を生んだ』の第4章「霊読(スピリット・リーディング)する力──ヒトが文字をうまく処理できる理由」で紹介している、文字素の普遍分布に関する下條信輔他との共同研究《https://www.journals.uchicago.edu/doi/pdfplus/10.1086/502806》が参考になる。


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