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韻律的世界【3】

【3】序─字韻・型・フィギュール

 「形」にも韻がある。つまり、反復的に出現する「形」がある。だから、広い意味の「韻律」の定義に「形の韻」(あるいは「見る綾」[*1])を加えるべきではないか。──前節の末尾にそのように書いたとき、私の念頭にあったのは、石川九楊氏の「字韻」というアイデアでした。
 『日本の文字──「無声の思考」の封印を解く』(ちくま新書、2013年)から引きます。

《詩と文は区別される。韻律や音数律に従って作られていくのが詩である。韻律をともなった文が詩であるともいえる。この点においては西洋の詩も東洋の詩も同じである。(略)
 しかし、東西で韻律のあり方が異なる例がある。西洋詩の場合には、言葉が音にもとづいた体系から成り立っているので、韻律が「音の韻」になる。ところが、東洋詩、とりわけ日本の和歌の場合には、韻律が音にとどまらず、相当部分文字あるいは書字のそれとなる。いわば「書く韻」であり、「字の韻」になるのだ。》(204頁)

 和歌には「音の律」(五・七・五・七・七のリズム、音数律)と「音の韻」(響きあいながら繰り返していくこと)がある。「この韻が、…音ではなくて、書字、文字の韻としてあらわれてくることがある。それがひらがな歌である和歌の性格を決定づけている。」(205頁)
 以下、石川氏は、掛詞ならぬ「掛字(かけじ)」や「掛筆(かけひつ)」、その延長上にある「縁語」、「見立」や「歌枕」、さらに「折句(おりく)」「詠込(よみこみ)」に説き及びます。そして、和歌の本質は、「音韻律を存在基盤とする」西洋詩とは異なり、「意味の韻律、字の韻律を基盤に成り立」つ「ひらがな歌(女手歌)」であったと規定します

《声による韻律よりも、書字(掛筆)に発する掛詞が清音表記によってさらに増幅され、表現の可能性が広がり、和歌の表現が洗練されていった。意味の韻、文字の韻、書くことから生れる韻律によって成り立つ和歌が、女手の誕生とともに生れたのである。》(224頁)

 和歌とは、文字を使って「書くことから生れる韻律」のうえに成り立つ「歌」である、というわけです[*2]。──ここは序論的考察の場ですから、石川氏の議論の引用はここまでとします。

 「形の韻」については、このほかにも世阿弥が言う「形木」すなわち「型」や、俊成・定家歌論における「姿」(歌の風躰)なども重要な考察対象になると思います。
 「型」については、日本の芸能、武道全般にわたる実践と思索の精華、より広く捉えれば、世阿弥能論における序破急、さらに守破離や真行草、等々、そしてより普遍的には原型、母型をめぐる問題群がたちまち思い浮かびます。
 「姿」は、大石昌史氏が「余情の美学──和歌における心・詞・姿の連関」(三田哲學會『哲學』第118集(2007))で「figure」の訳語を与えています。このフィギュールという概念は、修辞学で「詞姿」と訳されたことがあるようですが、レトリック論の範疇をはるかに超えた厄介(かつ蠱惑的)な概念です。
 私はWeb評論誌「コーラ」に連載している論考群「哥とクオリア/ペルソナと哥」で、断続的に「姿=フィギュール」の“解明”にチャレンジしていますが(たとえば第38章[http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/uta-38.html]の第4節)、まったく歯が立ちません。
 これらの論点についても、(正面から取り組むための準備がいまだ整っていないこともあって)この程度にとどめおき、ありうべき本論での議論に委ねたいと思います。

[*1]山中桂一氏が『ソシュールのアナグラム予想──その「正しさ」が立証されるまで』(ひつじ書房、2022年)で、ウィリアム・ベラミーによるソシュールのアナグラム論批判を紹介した文章。──「アナグラム法は第一義的には音声にいっさい関係せず、むしろ図形詩やある種の見せ消ちのような「見る綾」、つまりは文字表記にかかわる字並びの問題である」(106頁)。

[*2]石川氏の「字韻」は、連綿や散らしといったかな書き特有の技法に裏打ちされた純粋に「形」に関する概念だが、これとは素性が異なるものに「視覚韻」がある。不学ゆえつい最近、山中前掲書(84頁)に、「love~cove~move」のように「見た目は韻を踏んでいるようでも発音の一致しない」ものを(聴覚韻に対して)「視覚韻」と呼んでいるのを見て知った。

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