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文字的世界【24】

【24】最初のシンギュラリティ─『あわいの力』から

 文字以前の世界をめぐって、今回は、能楽師にして古代文字研究家──あるいは、「柳田國男、白川静の学統を継」ぐ「世にもまれな『死語』の使い手」(『あわいの時代の『論語』──ヒューマン2.0』に寄せた内田樹氏の推薦文から)──である安田登師の議論を援用します。(『白川静読本』に収録された安田登の言葉に、白川文字学を通して古典を読み直すと、嬉しくて嬉しくて踊りだしたくなる、とある。)
 取りあげるテキストは、『あわいの力──「心の時代」の次を生きる』です。数ある安田本のなかでも、その深度(震度=振動)において一、二を争う傑作だと、読み返してみてあらためてそう思いました。以下、文字的世界にかかわる話題と、それに関連して日本語の特徴について言及された箇所を切り出します。

1.文字から生まれたもの─心、時間、記憶、不安、論理、信仰

◎紀元前1300年前頃、中国で生まれた文字(漢字の祖先にあたる甲骨文字あるいは金文)には「心」に相当する語がなかった。文字以前の人間は身体感覚(内臓感覚)で生きていたが、文字を使い始めたことで脳で思考することが増え、それによって心が肥大化していった。「心」という文字が確認できるのは紀元前1000年前頃のことである。(はじめに)

◎文字から生まれた「心」によって、過去から現在、未来へ直線的に進む時間という観念や、それに伴う時制が生み出された。(40頁)

◎「心」による抽象的な思考が加速度的に発達し、やがて純粋数字を考え出す。これが西洋では「論理」に、東洋・日本では「情緒」に発展した。その違いは、直線的な時間観念にもとづいた時制を持つ西洋の言語と、時制のあいまいな日本語という違いにおいてもあらわれている。(95頁)

◎時間がなければ「記憶」もない。(124頁)
 「心」によって時間の流れを感知することはできても、それをコントロールすることはできない。その結果、人間は過去に対する後悔や悲しみ、未来への不安や恐怖を感じるようになった。それが「心」がもたらした副作用である。(130頁)

◎「信じる」という行為も文字によって生まれた。「文字は何かをあらわす」という信仰がその存在基盤だからである。「心」とのつきあいに苦しむ人たちのためにさまざまな教えを説いた孔子や釈迦やイエスの思想は、時間と信仰が基盤になっている。(131頁)

「「文字」を獲得した人類が、思考や言語を二次元で表現・記録することができるようになった。それによって過去という時間を目で見ることができるようになり、時間の流れを間接的に感じとることができるようになったのです。
 つまり、「文字」が「心」を生み、「時間」をつくり出し、「時間」を知った人類が感じるようになった不安と向き合うために、孔子や釈迦やイエスの思想が生まれたのです。」(133頁)

2.日本語の特徴─歌のための言語

◎「時制のあいまいさ」が日本語のひとつの特徴である。能において、ワキが生きる「この世」の順行する時間と「あの世」から来るシテの遡行する時間が交わり、シテとワキの会話が徐々に盛り上がっていき、やがて地謡(コーラス)に引き継がれたとき、二つの時間が混然一体となる。「いまここ」が昔になる「いまは昔」の現象が生じ、時制が消滅する。(40-41頁)

◎また、動詞の連用形が名詞になるという日本語の特徴は、日本語を「歌のための言語」[*1]と考えれば納得がいく。「分く」が「ワキ」に、「こふ」が「こひ」に、すなわち、不安定でいまにも動き出しそうな動的な雰囲気がまとわりついた名詞になる。
 連用形だけでなく、日本語そのものが終止を嫌う言語であり、いまと昔、あちらとこちらを動き回ろうとする動的な言語、呪術的でもあり身体的でもある言語なのである[*2]。(43頁)

◎文字は「これ」と「あれ」を区別する。境界を分明にしなければならない。日本人が文字を必要としなかったのは、それが「あいまいな境界」をもつ日本人の心性に合わず、文字というものを信用していなかったからである。(189-190頁)

「…その根底には音声としての言葉に呪術的な力を感じていた、そういうこともあるでしょう。言葉に霊魂が宿るという感覚は、「言霊」ということばにあらわれています。「言霊」ということば自体は『万葉集』にちょっとだけ使われているだけで、いまのような使われ方はじつはかなり新しいのですが、それでも日本人は「生の言葉」に呪術的な力を感じていたようです。
 それは文字に精霊の存在を感じていた、アッシリアの老博士を描く中島敦の「文字禍」のそれと対照的です。」(192頁)

 ──安田師が説く文字論や日本語論が、はたしていかほどの「実証性」を持つのか、私には判断できません。しかし、文字の発明という出来事の画期性(安田師はこれを人類にとっての最初の、あるいは先のシンギュラリティと呼んでいる)を考えるとき、これくらいのスケールをもった仮説を立てて臨まないと、事の真相に迫れないことは間違いないと思います。

[*1]私の個人的関心事にかかわることなので、関連する議論をもう少し抽出しておく。

◎文字の必要性を感じなかった日本人は「見立てる」力に優れた民族だった。能において「あそこに森がある」と指でさし示すとそこに森が出現する。そこには「生の言葉」による詞章もともなう。そこにないものを存在させるという呪術的な「見立て」の行為が行われ、実際になにものかが出現するのである。(192-193頁)

◎人類が「見えないものを見る」ために重宝してきたものが「歌」である。「歌」には目の前に幻影をありありと浮かび上がらせる呪術的な力がある。日本人が「見立て」の能力に長けていたのは、「歌」と身近に接し続けてきたことにあらわれている。たとえば萩原朔太郎は、中学、高校の国語の先生は授業で教科書を読むのではなく歌っていたということを語っている。(197-198頁)

◎能の「ふり」の本質は「歌」と同じく身体の動作を伴う「振動」にある。「歌」は(「訴える」と同様)「打つ」を語源にするといわれる。すなわち「歌」の本質は空気の「振動」で他者に触れ、その人のなかにある何かを揺り動かし、その何かを目の前に出現させる。それは型としての「ふり」も同じである。(204-205頁)

 上記以外にも、日本の「心」の三層構造──「しん/おもひ/こころ」(30頁)──をめぐる議論や、西洋音楽における「リズムとメロディ」が能の「拍子と節」に対応し(86頁)──「未来を決めるリズム」と「今を刻む拍子」(106頁)──、ワグナーの「ライトモチーフ」が能の謡の「掛詞」に対応する──無意識の心(おもひ)を情景として表現する(98頁)──など、安田師の繰り出す話題は奔放にして深甚である。

 付記。本文の最後の引用文で安田師が述べている、日本人は「生の言葉」(文字ではなく声)に呪術的な力を感じていたようだという指摘は、いずれ取りあげる(西洋、日本に相通ずる)「音声中心主義」の問題とは別問題である。

[*2]これにつづけて著者は、漱石の『草枕』から「小説も非人情で読むから、筋なんかどうでもいいんです。こうして、御籤を引くように、ぱっと開けて、開いた所を、漫然と読んでるのが面白いんです」という語り手の言葉を引き、「ミュートス(筋)」を重視するヨーロッパの物語に対して「日本の物語は筋ではなく、読んでいる「いま」、聞いている「いま」こが大切なんですね」(44頁)と結んでいる。
 漱石が言ってることは、私の語彙では、小説は「リアリティ」ではなく「アクチュアリティ」にかかわる言語表現である、となる。このことは、次回取りあげる永井均の「独在性」の概念にかかわる。

 付記。安田師が言うところの日本語の特徴(動的・呪術的・身体的言語)もしくは日本の物語の特徴(筋ではなく読み聞いている「いま」が大切)は、これまで私が文字以前の〈文字〉として捉えてきた“フィギュール”(精確には、文字成立以後に間歇的にあらわれる“フィギュール”)のそれに等しい。(さらに付言すると、私がかねてから抱いてきた「やまとことば=ネオテニー説」なるものの“論拠”が、ここにある。)

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