文字的世界【35】
【35】声の文化と文字の文化・その他、後口上として
『枕草子』(ピーター・グリーナウェイ監督)の映画パンフレットをはじめ、文字特集を組んだ『ユリイカ』(1998.5)や『批評空間』(1993 No.11)等々の多くの手元にある素材を活かすことができないまま、「文字的世界」を閉じることにします。
石川九楊氏の文字論その他の文献、たとえば『プラトン序説』(エリック・A・ハヴロック)や『プラトンと反遠近法』(神崎繁)等々、そしてなによりジャック・デリダの著書を主題的に取りあげられなかったことが心残りですが、声と文字の拮抗をめぐる第三の仮説、というより論題に関する最後の話題として、ウォルター・J・オングの『声の文化と文字の文化[ORALITY AND LITERACY]』(桜井直文他訳)から、「神の声」と「神のことば」に関連する個所を抜き書きして、本稿を(いったん)閉じることにします。
(文中の〔 〕は訳者による補足。なお、第一の引用文で言及されているのは、意識は右脳がささやく神々の声を左脳が聴く幻聴に基づく「両脳的」な精神(bicameral mind)、直訳すれば「二院制」の精神構造の衰弱とともにほぼ三千年前に誕生したとする、ジュリアン・ジェインズ『神々の沈黙──意識の誕生と文明の興亡』の議論。)
《ジェインズは、脳が強固に「両脳的」であった意識の原初的な段階を、つぎのような特徴によって識別する。つまり〔その段階では〕、脳の右半球が、制御不能な「声」を発し、その「声」は神々に帰せられ、そして、脳の左半球がそうした神々をことばで言いあらわしたのだ、と。「声」は、紀元前二千年から千年のあいだに、その有効性を失いはじめた。注目すべきは、紀元前千五百年ごろのアルファベットの発明が、この時期をきれいに二分していることである。明らかにジェインズは、書くようになったことが、原初の両脳性の衰弱に手を貸すことになったと信じている。『イリアス』が、ジェインズに、自意識に災いされていない両脳性の実例を提供する。『オデュッセイア』は『イリアス』に百年遅れてあらわれたとかれは考え、才知にたけたオデュッセイアは、もはや「声」の支配に屈することなく、自意識をもった近代的な精神へと飛躍的な前進をとげたのだと信じている。(略)声の文化と両脳性の問題は、おそらくもっと研究されてもよいことである。》(『声の文化と文字の文化』68-69頁)
《人間のすべての宗教的伝統は、声の文化に根ざした過去のうちにその遠い起源をもっている。また、そうした伝統はすべて、話されることばを非常に重んじているように思われる。しかし、世界の主要な宗教は、聖なるテクスト(ヴェーダ、聖書、コーラン)の発展によっても内面化されてきた。キリスト教の教義においては、声の文化と文字の文化の二極性がとくに先鋭化している、おそらく他のどんな宗教よりも(ユダヤ教徒とくらべてさえも)先鋭化している。なぜなら、キリスト教の教義においては、唯一神性の第二位格 Person、人類の罪をあがなうこの第二位格が、「神の子」と呼ばれるばかりでなく、「神のことば Word of God」とも呼ばれるからである。この教義にしたがえば、父なる神はかれの「ことば」、かれの「子」を口に出す、あるいは話すのである。神はけっしてそれを書きつけるのではない。「子」の位格はまさに「神のことば」からなりたっている。しかしながら、キリスト教の教義の核心には、神の書かれたことば、すなわち聖書もまた存在している。聖書は、人間の著者たちの後見として、他のどんな書物ももたない、著者、神をもっている。神の「ことば」のこの二つの意味は、たがいにどのようにかかわっているのだろうか。また、この二つの意味は、歴史における人間とどのようにかかわっているのだろうか。》(『声の文化と文字の文化』363-364頁)[*]
※
落穂拾い、その一。
小津夜景著『ロゴスと巻貝』に、「詩とは読めない文字で書かれた、詩としか言いようのないもの」という印象的な一節がある。この「読めない文字」とは扁額に墨書された字であり、「心という紙」に書かれる「発音することができない意識の粒立ち」のこと。(それは、かの「読まれないのに文字であり続ける」夢のなかの文字(矢口浩子・新宮一成)に通じる。)
《西洋では古くから、言葉においては声(パロール)こそ意識のオリジナルであり文(エクリチュール)はそのレプリカであると考えられてきた。いうなれば声は生花、文は造花というわけである。でもほんとうにそうなのだろうか。言いたいという衝動はあれど、頭がつっかえて声にならない、そんなもどかしい状態というのは大人でもよくある。そしてそんな状態のとき、ひとは心という紙の上に、ああでもないこうでもないと落書きをしている。記号の分化をうながす未踏のリフ。概念が固まろうとするヴァイブレーション。そういった、発音することができない意識の粒立ちを、ごしごしとこすりつけている。少なくともわたしは喃語の出口をうろついているころからそれを続けてきた。》(『ロゴスと巻貝』22-23頁)
※
落穂拾い、その二。
奇しくも『声の文化と文字の文化』と同じ年(1982年)に原著が刊行された『言葉と死──否定性の場所にかんするゼミナール』(上村忠男訳)から、ジョルジュ・アガンベンによるヘーゲル『精神現象学』第一章「感覚的確信、あるいは〈このもの〉および言いたいとおもっていること」の引用を孫引きする。
《わたしたちは感覚的なものをも一般的なものとして‘言葉で表現する’。そして、わたしたちが言葉で表現するものが‘存在する’のである。〈このもの〉とはすなわち‘一般的な’〈‘このもの’〉のことである。あるいは、〈それが存在する〉(es ist)とはすなわち〈‘存在する’〉‘一般’のことなのだ。その場合、もちろん、わたしたちはその一般的な〈このもの〉、あるいは〈存在する〉一般をわたしたちの前に‘表象している’(vorstellen)のではなくて、一般的なものを‘言葉で表現している’(aussprechen)のである。いいかえるなら、わたしたちはそれをわたしたちが感覚的確信のなかで‘言いたいとおもっている’(meinen)とおりのままには言っていないのである。しかしながら、見られるように、言葉で表現されたもののほうが〔言いたいとおもっていることよりも〕いっそう真なるものである。言葉のなかでは、わたしたちは直接にわたしたちの‘言いたいとおもっていること’(unsere Meinung)に背く。そして、一般的なものが感覚的確信の真理であり、言葉はこの真理を表現しているにすぎないのであるから、わたしたちが言いたいとおもっている(meinen)感覚的な存在を言葉にして表現する(sagen)ことができるなどということは、とうていありえないのだ。》(『言葉と死』36-37頁、‘ ’は訳文では傍点)
文中の「meinen」に付された訳注。「“meinen”は、わが国のヘーゲル研究者のあいだでは通常「思いこんでいること」と訳されるが、アガンベンはこれに“volere-dire〔言いたいとおもっていること〕”という訳語をあてている。」
[*]第二の引用文を読みながら念頭に浮かべていた“構図”を(ここでもまた、一切の説明抜きで)記録しておく。「ペルソナ的世界」への踏み台として?
神の声
<クオリア> 音声言語
α ……………… α´
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\ \
β ……………… β´
文字言語 <ペルソナ>
神の書かれたことば