見出し画像

ペルソナ的世界【12】

【12】日本語特有の論理とペルソナの倫理─ペルソナの諸相1

 坂部恵のペルソナ論──『仮面の解釈学』(1976年)から『ペルソナの詩学』(1989年)を経て『〈ふるまい〉の詩学』(1997年)に至る──の見事な要約を、「ペルソナの詩学」の特集を組んだ『表象06』(2012年)に見つけたので、以下、長くなりますが丸ごと抜き書きします。一続きの文章(同書45-46頁)ですが、段落ごと分割し、それぞれに(勝手な)見出しを付けました。

 その4.横山太郎「能面とペルソノロジー──和辻哲郎と坂部恵」

【人称分岐以前の原─人称の次元/日本語特有の論理】

《坂部によると、行為の主体 Subject (あるいはそれを記述する文の主語 Subject )が一人称、二人称、三人称のいずれかとして明確になるような人格の表層の下に、人称分岐以前の原-人称の次元がある。そこでは行為の主体(述語の主語)は置換可能である。こうした構想の背後には、佐久間鼎から三上章へ引き継がれた述語一本立ちの日本語構文論(いわゆる主語否定論)がある。三上は、「あいまいで非論理的な日本語」という非難に対して、主語構成的ではない日本語特有の論理を記号論理学と同型的であると擁護した。主体の人格(ペルソナ)/主語の人称(ペルソナ)が自己同一的でなくても、行為/文は論理的であり得るのだ。》 

【自己同一的で相互排他的な表層/憑依され、変身し、多様な存在へ置換可能な深層】

《ここから坂部のペルソノロジーは、ペルソナ(人格=人称)の表層と深層の関係についての学となる。人格は、表層においては自己同一的で相互排他的な意識の主体である。一般にはこれを「素顔=本当の私」と考えがちである。しかし、深層においては、人格は語源であるペルソナ=仮面と同じ構造を持つ。それは、自分ではないものに憑依され、変身し、しかも仮面が付け替え可能であるように、一つに固定されずに多様な存在へ置換可能である。他者と移り合い変換し続けるこうした人格の深層こそが、人格を生み出すポイエーシスの次元である。これは、「仮面の深層にある素顔」という近代的な人格概念における「深層」とは全く異なる、優れて交通的な次元である。ドゥルーズ風にパラフレーズするなら、現勢的な次元で自分‘である’ことは、潜勢的な次元で他者‘になる’ことによって支えられている、とでも言えるだろうか。》

【無限に他者になる深層/人格同士の間で移り合い、響き合う表層】

《たとえば私が私であることの深層には、「私」の置換可能な項としてあなたやその他の人々や人間以外のものたちが無限に連なっている。潜在的にはあなたが私に(私があなたに)なるかもしれず、彼らが私に(私が彼らに)なるかもしれない。私もあなたも彼らも根底においてそのような他なるものへの無限の連鎖へ接している。表層においては、私でありあなたであるような人格が個別にかたどられているとしても、それらはこの無限に他者になる深層の次元から、「なにかであること」の可能性を確保している。そうであればこそ、個別の人格同士の間で、移り合い、響き合う関係が成立する。》

【深層の論理(古論理)を表層の論理と短絡した和辻ペルソナ論の失敗】

《先に和辻のペルソナ論が、理論的帰結として表層と深層の区別を解消すると述べた。坂部が表層と区別された深層の次元を強調するのは、和辻の「失敗」を繰り返さないためという側面がある。上述したように、人格の生成を支える深層の次元では、自己と他者一般が相互に浸透する。坂部はこれをアリエッティの「古論理」を念頭に柔らかい構造と呼ぶ。これに対して、表層における自他の関係は、自己同一的主体同士の関係であり、強い構造を持つ。自他が截然と区別されずに相互浸透することを、うっかり表層の強い構造のなかで理解するなら、それは個人と個人の差異が共同体全体に解消されることを意味する。坂部によれば「結局のところ、個と共同体全体との関係を排他的部分とその総和という人格的ないしより正確には間人格的世界の表層でのみ妥当する論理ないし図式にしたがって考える傾向の強かった和辻」[『ペルソナの詩学』114頁]は、深層の論理を表層の論理と短絡してしまったために、戦時期の自民族中心主義のイデオロギーに抵抗できなかった。》

【自他の相互浸透を深層に限定して理解する坂部のペルソナの倫理】

《坂部は自他の相互浸透を深層に限定して理解することによって、それが人格を賦活する力を確保し、一方で表層においては責任主体としての個人を維持する。こうして、近代的主体を根底において他者へ開きつつ、政治的全体主義の陥穽に陥ることを回避することが、和辻をふまえた坂部の「ペルソナの倫理」であった。》 

 ──ここで言われる「表層」は、実在性=うつつ=表面(おもて)の世界すなわちメカニカルな水平軸に相当し、「深層」は、現実性=「形なきもの」の世界(高天と荒ぶる国)、すなわちメカニカルな水平軸に対して下方(=マテリアルな界域)から直交する垂直軸に相当する[*]。
 それでは、実在性の水平軸(メカニカルな界域)に対して上方あるいは「高層」(=メタフィジカルな界域)から直交する、もう一本の現実性の垂直軸についてはどのように考えればよいのか。私自身の考えは、すでに前回の註の中に書き込んでいる。すなわち、それは一神教の神あるいは「一者」が棲息する界域のことである。

[*]「深層のペルソナ」に関連して、ここでどうしても引いておきたい文章がある。いずれも川田順造『聲』(ちくま学芸文庫)の第17章「声とペルソナ」から。

《…声とのかかわりで、ペルソナの単子性、重層性について考えてみよう。それは、本書のはじめから断続的にとりあげてきた語りの人称の問題、声を発しているのは誰なのか、声がさしむけられ、またその声で存在を与えられ、あるいは強められているのは誰なのかという問いに戻ることでもある。語源からして、ペルソナ(仮面)は、「音(声)によって」(per son)声を発している主体を認知させることにかかわっている。
 声を発している“私”は、あくまでも醒めている。そして声のさしむけられる相手と対話し、第三者を指示する──それが「近代的」理性に最も適合する、声とペルソナのあり方であろう。だが、これまでも見てきたように、もっと不定形[アモルフ]なコミュニケーションの場や、非単一指向性の発話、あるいは真の宛て先[アドレシー]にはさしむけられていない発話、他の人称のとりこまれた言述などのいりまじる中にあって、一、二、三人称のペルソナを単子として想定したコミュニケーションを、「純粋」ないし「標準的」とみること自体が、「近代的」偏向の所産とみなすべきかもしれない。
 単子化されえないのは、発話者の人称だけではない。声をさしむけられることによって、それを受ける者の人称もまた変質する。》(『聲』241-242頁)

《超常界の‘もの’が発話者の口をかりる一人称の語りが、能、とくに夢幻能の後ジテの語りにいかに緊迫感を与えているかは、つとに横道萬里雄、表章が指摘しているが、ペルソナと語りの人称の融通無碍な性格が、能ほどあからさまな領域もないだろう。地が感情移入してシテの人称でうたったり、掛ケ合でワキとシテが融合するなど、人称の離合が自在であるだけでなく、死者や霊界、植物、動物、果ては雪や山の精と人間との主体の変換も、ごく自然に行なわれる。(略)
 このような能の表現に接していると、まず単子としてのペルソナがあって、その交錯や変換が起っていると考えるより、自然界に包みこまれたた未分化の人称的世界に、登場人物や、元来の意味でのペルソナである面によって、かりそめの切れ目が入れられて物語が進行しているとみる方が、妥当ではないかと思えてくる。(略)
 近松半二以後の人形浄瑠璃においても、歌舞伎においても、「A、実はB」という、登場人物の人格の多重性が著しい。「××の世界」というフォークロアの下敷きがあって、「世界を曽我にとって」、花川助六実は曽我五郎時到といった、日本の芸能には親しい「趣向」や「見立て」の精神が生まれる土壌にも、日本の日単子的なペルソナ観念がしみこんでいるのであろう。》(『聲』245-247頁)

 ──ここで言われる「超常界の‘もの’が発話者の口をかりる一人称の語り」が、坂部恵の「仮面(おもて)」の、もしくは「仮面(ペルソナ)」の「ことば」であることは見易いだろう。
 蛇足ながら、このことも含めて、横山氏の文章に出てくる「述語一本立ちの日本語構文論(いわゆる主語否定論)」や「主語構成的ではない日本語特有の論理」については、いずれ「文法的世界」のなかで(“やまとことば”の文法論として?)考えてみたい。また「ペルソナの深層」における「古論理」についても、「推論的世界」なかであらためて取りあげたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?