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ペルソナ的世界【13】

【13】神のペルソナ、関係性をこそ本質とする存在─ペルソナの諸相2

 「ペルソナの“高層”」をめぐるいくつかの話題を蒐集します。まず、西欧キリスト教神学における三位一体の神のペルソナをめぐるトマス・アクィナスの議論。

 その1.山本芳久「解説 かけがえのない「個」への導きの書」
     (坂口ふみ『〈個〉の誕生』(岩波現代文庫))

《…トマス・アクィナスの三位一体論のうちには、「父」と「子」と「聖霊」という神の「位格[ペルソナ]」とは「自存するものである関係(relatio ut subsistens)」であるという謎めいた言明が見出される。普通に考えるかぎり、「関係」というものは、「自存する」すなわち自分の力で自立して存在するものではない。なぜならば、「関係」というものは、自立して自存する「実体」があってはじめて存在するものであり、「実体」に依存してはじめて存在しうるものだからである。(略)
 この世界の根源にある「神」は、孤独な存在ではない。この世界の創造後にはじめて「神」とこの世界との「関係」が成立するのではない。一なる「神」自身のうちに、永遠的な「関係」が含みこまれている。東方のギリシア語では「ヒュポスタシス」、西方のラテン語では「ペルソナ」という言葉で捉えられてきた「父」と「子」と「聖霊」という神の「位格[いかく]」が、「他」からの自立性ではなく、「他」との関係性をこそ本質とした存在であること、いや、むしろ「他」との関係性のただなかにおいてこそ自立性を維持し続ける存在であるということを、著者[坂口ふみ]は、「ヒュポスタシス」や「ペルソナ」という言葉の発生現場にまで遡って丹念に捉え直しているのである。》(『〈個〉の誕生』407-408頁)

 ──ここで述べられた“高層”におけるペルソナの意義、すなわち「関係性をこそ本質とした存在」[*]は、前回引いた坂部恵の“深層”のペルソナ論(横山太郎によって和辻哲との比較において要約されたもの)と呼応している。たとえば、(主語的)関係性を本質とする「ペルソナの“高層”」と、(述語的)置換可能性を旨とする「ペルソナの“深層”」といったかたちで。
(ちなみに、刊行されたばかりの『〈個〉の誕生』を、「中世哲学を、近現代の哲学との対話という広い土俵へと引っ張り出す」ための手がかりを与えてくれる書物として山本芳久にいち早く教えたのは坂部恵だった(402頁)。)

 その2.稲垣良典『人格[ペルソナ]の哲学』(講談社学術文庫)

《つまりトマスが、「御父」「御子」「聖霊」と呼ばれる神のペルソナは「自存する関係」を意味する、と言うとき、彼は神のペルソナにおいては「交わり・即・存在」であることを見てとっていた。そうして彼はこの洞察によって、最高に一なる神において三つのペルソナが実在的に区別される、という信仰の神秘への新しい神学的理解の道が開かれる、と考えたのである。》(『人格の哲学』186頁)

《ここで私はひとつの仮説を提示したい。それは、トマスが神のペルソナは「自存する関係」を表示する、と述べ、神のペルソナにおいては「交わり・即・存在」が成立していることを示唆した──しかも何らの説明・弁明も必要としないかのように、いわば事柄そのものが語るという論調で──のは、神(の存在・本質)は愛[アガペ]である、という啓示から霊感をくみとった「ペルソナ論的存在論」と呼ぶのがふさわしい存在論にもとづいてであった、という仮説である。》(『人格の哲学』202頁)

 ──「自存する関係(=愛)」としてのペルソナ、あるいは「他との関係性(=愛)をこそ本質とした存在」であるペルソナは、「実存が本質である」(『哲学探究2』251頁)ところの独在性の〈私〉(©永井均)に通じている。あるいは、ペルソナとは「現実性」と「実在性」の「混成体」(同267頁)である。この話題はいずれ、「ペルソナ的世界」の“締め”の議論のなかで取りあげたい。

[*]この言葉から連想したのが、『死にいたる病』(桝田啓三郎訳、ちくま学芸文庫)第一編冒頭のよく知られた文章だった。キルケゴールはそこで次のように畳みかけている。「人間は精神である。しかし、精神とは何であるか? 精神とは自己である。しかし、自己とは何であるか?」

《自己とは、ひとつの関係、その関係それ自身に関係する関係である。あるいは、その関係において、その関係が関係それ自身に関係するということ、そのことである。自己とは関係そのものではなくして、関係がそれ自身に関係するということなのである。》(『死にいたる病』27頁)

 中島義道氏によると、キルケゴールが言う「自己」とは、自分を客観化している自己意識の段階に達した意識のことであり、そこでは“ich(語る私)=ich(語られる私)”という「関係(V1)」が成立している。また、熱烈なクリスチャンであったキルケゴールにとって、「息子」という語がすでに父親との関係を表わすように、「(人間)自己」はすでに神との「関係(V2)」を表わしている。すなわち“Ich⇔Gott”。

《自己とは、ひとつの関係(V1)、その関係それ自身(V2)に関係する関係である。あるいは、その関係(V1)において、その関係(V1)が関係それ自身(V2)に関係するということ、そのことである。自己とは関係そのものではなくして、関係(V1)がそれ自身(V2)に関係するということなのである。》(『てってい的にキルケゴール その1 絶望ってなんだ』61頁)

 中島氏の“解読”は、実は琴線に触れない。(ただし、キルケゴールにはカントやフッサールのように「自分の思想を厳密な言葉を尽くして客観的に伝える才能」がないという指摘(59頁)は当たっているかもしれないと思う。)
 私がキルケゴールの文章を想起したのは、「その関係が関係それ自身に関係する」という「関係」の累乗(三乗)表現のうちに、三位一体における神のペルソナの存在様態が暗示されているように感じたからというただそれだけ(そこまで)のことでしかない。

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