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ペルソナ的世界【8】

【8】クオリア性言語とペルソナ性言語─クオリアとペルソナ・又々々

 クオリアやペルソナは、ともに言語現象である[*]。あるいは、言語的産物である。すなわち、前者は音声言語の誕生を通じて、後者は文字言語の発明を介して、それぞれもたらされた。
 クオリアは言語による表現以前にはありえない。言語以前のものとして、言語によって表現されるのがクオリアである。また、ペルソナも言語による表現以前にはありえない。ただし、言語によって形成されたものでありながら、言語以後のもの、超言語的なものとして言語によって表現されるのがペルソナである。

 ──いきなり唐突な断言で始まりました。以上は、ペルソナの問題を考える際、私の直観があらかじめ告げる“仮説”です。これを説得力あるかたちで論証することは、今は(あるいはこれからも)出来そうにないので、ここでは(あるいはここでも)、クオリア、ペルソナと言語の関係をめぐるかつての試案を「哥とクオリア/ペルソナと哥」第73章第4節から引くことによって、この“仮説”の周辺を散策してみたいと思います。

 ……人間の(諸)言語をかたちづくる三つの界域のうち、メカニカルな界域は、下方におけるマテリアルな界域=「クオリアの海」と上方におけるメタフィジカル界域=「ペルソナの空」との間に位置づけられている。
 ──クオリアは「物に成り入る」技術にかかわるアニミズムと、ペルソナは「他者に成り入る」技術にかかわるシャーマニズムとそれぞれ深く関連する。リアルな感覚が託く(憑依する)クオリア、アクチュアルな意味が宿る(受肉する)ペルソナ、などと言ってもいいだろう。
 そして、それぞれに固有の言語を「クオリア性言語」(別名:マテリアルな言語)や「ペルソナ性言語」(別名:エーテル状言語)と表現することもできるだろう。いま、それぞれの言語の典型例を、手元にある文献から引くと次のようになる。

◎沈黙の声(層)─クオリア性言語をめぐって

 今福龍太著『薄墨色の文法──物質言語の修辞学』冒頭の「元素的な沈黙」から。

《風という根源的エレメント、万物をつくりなすこの究極的な元素のひとつを、この土地に住むインディオはエカトル ecatl と呼んだ。微風も、大風も、竜巻のような突風も、みなエカトルである。厳密にはエカトルの「エ」の音は途中に声門閉鎖音を宿していて…、喉を閉じて一瞬のちにふたたび開く無音にちかい破裂音のなかに、風のすべての形態が隠されている。言語を生成する喉が、すべての風のヴァリアントを模倣する。声門をふるわせて過ぎるのは穏やかな風ばかりではない。なかには邪な風、荒ぶる精霊も。エカトルの音は多様な風の変異型を意味として抱きながら、インディオの声調言語のなかに自然物の元素的な運動を導き入れる。彼らの言語は、いわば反言語によって裏打ちされている。元素と、鉱物と、動物と、植物とに開かれた音が、彼らの言語のなかに沈黙の層を堆積させる。多弁や饒舌な言葉へのインディオのためらいは、言語のなかに隠されたこの沈黙の層が彼らの表情や挙動を通じて示す、ある種の警戒信号でもある。人間の言語がそれ自体ひとつの暴力であることをよく知っているからだ。言語を使いながら、恣意的な音声記号の氾濫する騒然たる世界から遠く離れて生きる彼らの充満した沈黙に、私は近づきたいと願う。

 極小の語彙の世界から、人間と宇宙と神々を結ぶ像を精密に語り出す彼らの流儀を学ぶために、私は風の獣が駆け抜ける草原に通いつづけた。饒舌と雄弁を至上の価値としてコミュニケーションなる理解の強迫観念を創りあげた文明を離れて。攻撃的で論理的で説明的な言葉の支配から完全に自由でいることはもはやいかなる人間にもできない。若者たちは、沈黙を消極的な態度として否定され、寡黙であることをなじられ、自己主張と説明責任を厳しく強いる競争的な社会で孤立し、疎外される。その言語的疎外は、彼らの自閉的な言葉の寂しい自己主張によってさらに増長されてしまう。意味と絆を求めて、言葉が絶望的に生産され、無益に消費され、その残骸がディジタル信号の廃墟にうずたかく堆積する。だが、意味の充満も、希望も、そしておそらくは真の絆も、沈黙の側にある。沈黙に退却することがけっして自閉でも疎外でもないことをインディオの音響的世界は私たちに教える。なぜなら、元素的な沈黙を媒介にして聴き取る風の声のなかに、万物を結ぶ理法が隠されてあるからだ。風が化身する草の穂のざわめきは、この元素的な沈黙が発する精妙な叡智の声なのだ。》(『薄墨色の文法』3-4頁)

◎非人称の文字空間─ペルソナ性言語をめぐって

 金子兜太との対談『他流試合――俳句入門真剣勝負!』でのいとうせいこうの発言。
「実は十日くらい前に、急に鬱っぽくなっちゃったんです。小説を書く上で今、何が嫌か、何を嘘っぽいと思うかというのをずーっと検証してた。そうしたら、「非人称の文字空間」という言葉が浮かんできたんです。つまり、「私」とか「誰々」とかという人称を使って文章を書いている自分がとても嫌だということに気がついた。でも非人称の文学とはどういうものなのか? 主語をわざわざ明記しないという表現はいくらでもあるわけだけれども、そういうことではなくて、文字の空間に自分をゆだねてしまうように、そんなふうにものを書けないのか、と。そうしたら「あ、それは俳句じゃないか」と、思ったんです。」

「漱石の「則天去私」っていう言葉も、精神主義的に解釈されちゃうと最終的には悟りの境地になって自我を捨てたっていう話になるけれど、そういうことではないかもしれない、と。非人称という形式の中で、自在に文字の空間を戯れる──この自由さを「則天去私」と言ってるんじゃないか。イコール「俳句」ということにもなるんじゃないか。」

 「文庫版まえがき」でのいとうせいこうの言葉。
「…本書はやがて明かされる「すべての言葉を詩と捉える」という、大変に大きく強く、また優しくもおそろしくもある詩語論の精髄に至るための、金子兜太からの導きの足跡だ。」

 金子兜太の発言も一つ。(これはむしろ「クオリア性言語」にかかわる発言だ。)
「それじゃその季節感に代わるものはなんだと、こういうふうになりますね。私はそれを「物象感」と言っているんです。ものの本質感。詩人の安藤次男はそれを「自然の質」というような言い方をしていた。自然の、そのものの質を捉えると。それが捉えられれば、季節感がなくたって、充分にいろんなものを表現できるということです。」

 ──それでは肝心の、メカニカルな界域(狭義)に固有の言語をなんと名づければいいのか。「饒舌の言語」だろうか。「人称的言語」だろうか。光の三原色を混合するとすべての可視光を含む透明の白色光が得られるように、「沈黙の声」×「X」×「非人称の文字空間」=「客観的・公共的言語」という奇跡の(と言っていいと思う)等式を成立させる「X」とは何か。
 私はそれを「演劇の言語」(演劇を成立させる言語、舞台空間において現象するすべての記号活動)として捉えてみたい。精確には「演劇」をモデルとすることで、未知の言語「X」の存在様態(ペルソナが「仮面」として現象する言語空間)を垣間見ることができるのではないかと期待している。……

[*]三浦雅士氏は、『孤独の発明 または言語の政治学』において「私には共感覚とは言語現象であるとしか思えない。」(447頁)と書いている。

《共感覚の問題は、言語の獲得とともに人間が直面しなければならなくなったさまざまな問題、すなわち社会的・政治的・宗教的問題の基層に潜んでいる。共感覚すなわち感覚の転位にこそ、人間の基層を解く鍵が潜んでいる、と私には思える。
 むろん、言語以前にすでにこの種の感覚の交響あるいは照応があったと想像することもできるわけだが、かりにそれがあったとしても現実には意味を持たない。なぜなら、感覚の転位も交響も照応も、表現においてしか意味を持たないからである。(略)
 要するに、感覚を比べるということ自体が言語以前にはありえない。》(『孤独の発明』447-448頁)

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