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韻律的世界【26】

【26】形象徴─紋様・文様・装飾

 「形象徴」は「音象徴」に対応させて私が勝手に造った語彙、というか概念です。「音象徴」の「音」は「オン」と音読みするので、「形象徴」の「形」も同じ呉音の「ギョウ」と読むのが筋でしょう[*1]。
 ある音が特定の形、イメージ、指示対象(意味)を呼び起こすのが「音象徴」なのだとしたら、「形象徴」とは、ある形が特定の音、イメージ、指示対象(意味)と結びつく[*2]ことを指す、と定義していいかと思います。
 それでは、いかなる現象をもって「形象徴」と言うのか、と考えを巡らせて、思い浮かんだのは、擬態(ミメーシス、ミミクリ)、星座、風紋や縞模様や蝶の翅の模様その他の紋様、トーテムポールや仮面、絵文字、呪符・護符・霊符、縄文、渦巻や螺旋や楕円、ケルトの組紐、アラベスク(唐草模様)などの文様、等々でした。
 抽象的に言えば、生命記号の世界[*3]、前言語的な形象的思考──平倉圭著『かたちは思考する』の語彙を借用すれば「韻の論理」──の世界ということになるでしょう。「形象を読むとは、身をもって韻を辿り、辿ることで踊り、踊りながら自ら形象と似ることだ。」(平倉前掲書22頁)
 これら多岐にわたる事象のうち、文様(装飾)に関する議論を、次回取りあげたいと思います[*4]。

[*1]「型[ギョウ]象徴」と綴っていいかもしれないが、「型」と「形」の関係がうまく整理できない。形は即自態であり、型は対自態である、あるいは形はオブジェクトレベル、型はメタレベルなどと言えるのかどうか。
 たとえば折口信夫が「日本文学における一つの象徴」の中で「型に這入る」というその「型」であれば、「型象徴」の典型と言えるような気がする。

「我々の国の文学芸術は、世界の文学芸術がさうであつたやうに、最初から文学芸術ではなかつた。さうなり行くべき運命を持ち乍ら、併し頗はかない詞章、表出として長く保持せられて来たに過ぎなかつた。其が次第に固定し、又飛躍して文学芸術らしい姿を整へて行つたのである。さう言ふ進みの間に、型を作り/\して行つたことが、文芸を形づくる一歩々々であつた。文学芸術の発達時代には、型に這入るといふことが最大切な現象であつたのである。而も最古い時においては、全くの緘黙の長い期間を経過して来た。」(青空文庫)

[*2]「結びつく」を「模倣する」とか「反復する」に置き換えると、ベンヤミンの後期言語論(「類似性の理論」、「模倣(ミメーシス)の能力について」)における「非感性的類似性」や「無意識的なミメーシス」といった蠱惑的で生産性に富んだ概念と、それこそ結びつけて考えることができる。
 とくに「非感性的類似性」は、リズム⓪から③までのすべてのレイヤーにおける「形の韻」の問題に深くかかわってくると思う。

[*3]発生は発声である、あるいは指揮者のいないマタイ受難曲をめぐって。──ジェスパー・ホフマイヤー『生命記号論──宇宙の意味と表象』(松野孝一郎他訳)から。

《…私はDNAの暗号を料理の本に書かれたレシピにたとえた。だが、もっと適切な比喩は大編成の合唱曲の譜面に見ることができる。胚発生は実際、同時に遺伝子を読み上げる、多数の「声」によって遂行される。ここの発声を互いに調整し、全体を合唱の形に統一させるのがこの発生過程である。そうであるからこそ、遺伝子の解釈に荘重さが現れて来る。
 胚発生では、個々の組織は正確に調律されており、組織間の統合は絶妙な協調効果によってもたらされる。要するに、個体発生過程において、指揮者に当たるものは見つからない。個々の「歌手」あるいは「演奏家」は組織ごとに、私たちがまだおぼろげにしか分かっていない相互伝達過程を通して、その全体調整を行う。いずれにしろ、ゲノム(遺伝物質の総体)はただの譜面にすぎず、どうひいき目に見ても指揮者にたとえられはしない。いずれにせよ、それは指をぱちんとならしただけで全てが調整されるようにはなっていない。聖マタイの情熱(Saint Matthew Passion)の合唱演奏の場面を思い出していただきたい。》(『生命記号論』76-77頁)

[*4]それ以外の話題のうち、宇宙の「根原形象」としての渦と、文様的世界像もしくは「世界文様」(オルナトゥス・ムンディ)をめぐる文章を二つ引く。

《宇宙の根原形象を渦流とすれば、それは、自転と公転によってつねに新しい宇宙空間に螺旋の航跡を描き続ける、わが地球の姿に端的に象徴されよう。ところで、永遠回帰のこの運動により、宇宙の天体相互の間には、それぞれ「時の波動」が生み出され、例えば地球では、年ごとに新たな四季が廻り来ることになろうが、この時、この地球上の生物達はめいめいの「生の波動」でもって、その四季の推移に色どりを添える。》(『三木成夫──いのちの波』137頁)

《文様は自然の具象性と人工的な抽象性とを最もエコノミカルにまとめあげた境界的な造形の位相にあって、他のどんな造形表現にも置き換えることのできない、「文様的[オーナメンタル]」としか呼びえないかたちの美を表出する。人は、文様的方法によって組み変えられた世界をそこに見る。そしてわれわれはケルトの装飾家が次々と送り出してくる組紐文様によって、無限の世界のパターンに対峙する。その組紐文様生成の情景は、しばしば生長する生命のようであるとか、始めも終りもない循環的時間であるとか、生と死と再生の描写であるというように説明されてもかまわないだろう。たしかにそのような意味がケルトの組紐文様に込められていなかったとはいえないし、今ではわれわれが知りうべくもない生や自然のいちいちの意味が、その個々のパターンに担わされていたかも知れない。けれども、ケルト組紐文様の描法に示される止まるところを知らない広がり、文様によってすべてを覆い尽くそうとする欲動は、いちいちの項目の描写を超えたある普遍的な構造の提示に向かっているように思える。》(鶴岡真弓『ケルト/装飾的思考』(ちくま学芸文庫)343頁)


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