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仮面的世界【14】

【14】予備的考察(補遺ノ弐)─素顔と仮面、言文一致をめぐって

 やまとことばの“おもて”が、仮面と素顔の両面を意味しているという、前回引いた坂部恵の議論に接して私が想起したのは、柄谷行人氏が『定本 日本近代文学の起源』において、「素顔=音声的文字(アルファベット)」と「仮面=表意文字(漢字)」を対比させて論じていることだった。
 ──伊藤整が『日本文壇史』第一巻で、鹿鳴館時代の演劇改良運動を担った九代目市川團十郎の「写実的でかつ人間的な迫力のある演技」をめぐって、「彼は古風な誇張的な科白をやめて、日常会話の形を生かした。また身体を徒らに大きく動かす派手な演技よりも、精神的な印象を客に伝へる表現を作り出すのに苦心した。」と論じたことを受け、柄谷氏は次のように書いている(第2章「内面の発見」)。

《団十郎の演技は「写実的」であり、すなわち「言文一致」的であった。もともと歌舞伎は人形浄瑠璃にもとづいており、人形のかわりに人間を使ったものである。「古風な誇張的な科白」や「身体を徒らに大きく動かす派手な演技」は、舞台で人間が非人間化し「人形」化するために不可欠だったのである。歌舞伎役者の、厚化粧で隈取られた顔は「仮面」にほかならない。市川団十郎がもたらし、のちに新劇によっていっそう明瞭に見出されたのは、いわば「素顔」だといえる。
 しかし、それまでの人々は、化粧によって隈取られた顔にこそリアリティを感じていたといえる。いいかえれば、「概念」としての顔にセンシュアルなものを感じていたのである。それは、概念としての風景に充足していたのと同じである。したがって、「風景の発見」は素顔としての風景の発見であり、風景についてのべたことはそのまま演劇についてあてはまる。
 レヴィ=ストロースは、素顔と化粧・刺青の関係についてこういっている。《原住民の思考のなかでは、すでにみたように、装飾は顔なのであり、むしろ装飾が顔を創ったのである。顔にその社会的存在、人間的尊厳、精神的意義を与えるのは、装飾なのである》(『構造人類学』荒川幾男他訳、みすず書房)。顔は、もともと形象として、いわば「漢字」のようなものとしてあった。顔としての顔は「風景としての風景」(ファン・デン・ベルク)と同様に、ある転倒のなかではじめて見えるようになるのだ。
 風景が以前からあるように、素顔ももとからある。しかし、それがたんにそのようなものとしてみえるようになるのは視覚の問題ではない。そのためには、概念(意味されるもの)としての風景や顔が優位にある「場」が転倒されなければならない。そのときはじめて、素顔や素顔としての風景が「意味するもの」となる。それまで無意味と思われたものが意味深くみえはじめたのである。それこそ私が「風景の発見」と呼んだ事柄である。
 伊藤整は、市川団十郎が「精神的な印象を客に伝へる‘表現’を作り出すのに苦心した」というのだが、実際は、ありふれた(写実的な)素顔が‘何か’を意味するものとしてあらわれたのであり、「内面」こそその‘何か’なのだ。「内面」ははじめからあったのではない。それは記号論的な布置の転倒のなかでようやくあらわれたものにすぎない。だが、いったん「内面」が存立するやいなや、素顔はそれを「表現」するものとなるだろう。演技の意味はここで逆転する。市川団十郎がはじめ大根役者とよばれたことは象徴的である。それは、二葉亭四迷が、「文章が書けないから」言文一致をはじめたというのと似ている。
 それまでの観客は、役者の「人形」的な身ぶりのなかに、「仮面」的な顔に、いいかえれば形象としての顔に、活きた意味を感じとっていた。ところが、いまやありふれた身ぶりや顔の“背後”に意味されるものを探らなければならなくなる。団十郎たちの「改良」はけっしてラディカルなものではなかったが、そこには坪内逍遥をしてやがて「小説改良」の企てに至らしめるだけの実質があった。
 このような演劇改良の本質が「言文一致」と同一であることはすでに明らかだろう。私は「言文一致」の本質は「漢字御廃止」[前島密の建白]にあるのだと述べた。音声から文字が作られたのではない。文字はもともと音声とは別個に存在するのである。大脳に文字中枢があるということは、人類が生まれたときから文字能力をもっていたということを意味する。たとえば、ルロワ=グーランがいうように、絵から文字が生じたのではなく、表意文字から絵が生じたのである。そのような文字の根源性あるいはデリダのいうアルシエクリチュールをみえなくさせてきたのは、文字を音声をあらわすものとみなす音声中心主義の考えである。
 漢字においては、形象が‘直接’に意味としてある。それは、形象としての顔が‘直接’に意味であるのと同じだ。しかし、表音主義になると、たとえ漢字をもちいても、それは音声に従属するものでしかない。同様に、「顔」はいまや素顔という一種の音声的文字となる。それはそこに写される(表現される)べき‘内的な音声’=意味を存在させる。「言文一致」としての表音主義は「写実」や「内面」の発見と根源的に連関しているのである。》(『定本 日本近代文学の起源』52-55頁)

 私はこの文章をこれまで何度も、数年おきに繰り返し読み返してきた。そしてそのたびスリリングな知的眩暈を覚え、なにか今まで見たことも考えたこともなかった新しい世界がそこから開けてくるのを感じた。しかしそれでいながらどうしても、なにかしら咀嚼しきれきないものが沈澱物のように澱むのだった。
 それはおそらく、次のような事情によるものだろう。つまり、柄谷氏によって暴かれた「記号論的な布置の転倒」の前と後とでは、世界の見え方はもちろん世界を見るこの私自身の「記号論的パースペクティヴ」がまるきり異なっている。そうであるにもかかわらず、私は、転倒後の(言文一致がもたらした)枠組みでしか物事を見たり考えたりすることができない。このギャップが、頭で理解したことと体(心)が納得することとの乖離をもたらすのではないかと。

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