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韻律的世界【1】

【1】序─世界の基底としての韻律

 韻律という現象をめぐって、文献渉猟と素材蒐集、想像と理論化の試みに興じたいと思います。着地点の見通しは立っていないので、関心と偶然と運にまかせて、行き詰ったら迂回路を探し、見つからなければ中断して最初から出直すといったやり方で臨みます。

 私が韻律に惹かれるようになったのは、王朝和歌に関心を寄せたことがきっかけです。古今、新古今の和歌集、貫之、定家といった歌匠の世界に足を踏み入れて最初に感じたのは、ほとんどの作品が内容空疎、レトリックも古拙または稚拙、退屈で面白くないということでした。
 その後、丸谷才一著『新々百人一首』を読み、和歌がいかに多層重層に組み立てられているかを知って驚嘆し、丸山圭三郎の(ということはソシュールの、そしてラカンの)深層の言語学に親しんで、意味に先立つ音(声)の類似性が持つ力に目(耳?)を開かされ、吉本隆明の『言語にとって美とはなにか』や『初期歌謡論』に接して和歌的ロゴスの凄みに心を奪われました。

 吉本隆明が三浦つとむ著『日本語はどういう言語か』(講談社学術文庫)の解説に次のように書いています。
 いわく、ある種の古典詩歌の作品が、意味をたどれば「ここに美しい花が咲いています」といった単純なことしか云ってないのにどうして感銘を与えるのか。この疑問をめぐる俊成、宣長その他の多くの評者の議論は語義の解釈と声調(リズムと歌柄[たけ])に限られて、すこしも感銘の総体には到達しなかった。
 これに対して吉本は「表現された言葉は、‘むこう側’にあるが、認識の動きは、その都度、‘こちら側’にある」という三浦つとむの「示唆」を受けて、詩歌の美を保証しているのは「わずか三十一文字といった表現が、めまぐるしいほどの、認識の〈転換〉からできあがっていること」にあると気づき、これを緒口に「場面・撰択・転換・喩」(『言語にとって美とはなにか』では「場面」ではなく「韻律」の語が採用されている)の四項が言語で表現された作品の美を成り立たせているという理論の根幹を形成した。

 私の作業は、したがって当面は詩歌、とりわけ和歌や俳諧における韻律の周辺をめぐることになるでしょうが、しかしその場合であっても「声調」の段階にとどまらず韻律の総体に、すなわち吉本が「詩歌の本質」と指摘した「場面(韻律)・撰択・転換・喩」を含めた詩歌制作の規律、文法、原理のごときものに迫っていければと思っています。
 さらには言語芸術の分野を超えて、人間社会や文化の動態や歴史といった、およそ言語による(もしくは言語を重要な要素として成立する)あらゆる事象の基底として[*]──大風呂敷を広げるならば、おそらく人類が言語を獲得するはるか以前(宇宙創成の頃?)から、言語誕生の枢要なファクターとなる韻律的世界が存在していたという、それくらいの拡がりと深さをもったものとして──韻律を考えてみたいとも思っているのです。

[*]坂部恵著『不在の歌──九鬼周造の世界』の「日本詩の押韻」を論じた文章中に、著者は次のように書き記している。「マラルメやヴァレリーに深く学んだ周造にあって、<押韻>の問題が、単なる詩や歌の問題、あるいは単に文学の問題ではなく、むしろ、よりひろく、文化の基底としての生の律動(はずみ)の問題、あるいは、共同の生の基底としての自己と他者のさらには宇宙の‘いのち’との共感や、共鳴の可能性の問題として、生きられ、捉えられ、あるいは捉え返されていたことはたしかであるようにわたくしにはおもわれる」(201頁)。

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