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ペルソナ的世界【7】

【7】物と心が通底し地続きになる潜在性の場─クオリアとペルソナ・又々

 クオリアとペルソナが「通底」する回路もしくは理路をめぐって、以下、「哥とクオリア/ペルソナと哥」第69章第2節から、入不二基義、永井均両氏の議論を援用した箇所を自己引用します。
 込み入った(あるいは“混乱”した)物言いになりますが、私は、ここに出てくる「クオリア」(心)を「形相なきマテリアル」もしくは「形相なき質料的現実」(物)と重ねあわせ、これを「深度」もしくは「潜在性」の場として捉えました。一方、「無内包の現実」へ向かう方向に「ペルソナ(コギト)」の概念を位置づけ、これを「高度」もしくは「現実性」(広義の「潜在性」)の場として捉えています。前節の図は、このような概念的関係を念頭において製作したものでした。

 ……入不二氏は『現実性の問題』第7章「無内包・脱内包・マイナス内包」において、クオリアを第〇次内包として捉えた永井氏の説を拡張し、「マイナス内包としてのクオリア」という概念を呈示する。
 いわく、マイナス内包としてのクオリアとは、特定の概念による明確な括りの下で(たとえば赤の赤らしさとして)感じられるようになる(ありありと現前するようになる)より「以前」の、「(概念なき)潜在的なクオリア」あるいは「クオリアの潜在態」を言う。もしくは「クオリアの闇」であって、そこから無数の顕在的な(ありありとした)クオリアが発現してくると想定される存在論的な「無尽蔵」である。(261頁、279頁、292-293頁)

《マイナス内包のクオリアは、第〇次内包に残る「概念」の括りを解かれた、概念化されない「何らかの感じ」であり、さらにその感じの「潜在的な原質」であった。クオリアのこの潜在的な次元は、「物」のほうの潜在的な次元──形相なきマテリアル──と地続きである…。概念による区画化以前であるという点で、マイナス内包と形相なきマテリアルは、同じ一つの潜在性の場である。その場は‘物でも心でもなく’、そこから心と物の区別やその領域間の緊張関係が創発するような源泉である。
 物理主義・機能主義が依拠する「物質や情報(第一次内包や第二次内包)」は、すでに科学的な概念による区画化がなされた「形相を持つ何ものか」である。それは、第〇次内包としての「心的状態」が心的な概念の括りの下で「感じられるもの」であることと、パラレルである。そのパラレルな水準から「奥底」へと降りていくと、「物と心」はそれぞれの(物としての/心としての)形相を失っていき、潜在性の場において通底する。》(『現実性の問題』295頁)

 文中の「形相なきマテリアル」は「形相なき質料的現実」[*1]とも言い換えられる。人間の(諸)言語の稼働帯域は、この「形相なきマテリアル=形相なき質料的現実」と「マイナス内包=無尽蔵のクオリアの潜在態」が同じ一つのものになる場、つまり物と心が通底し地続きになる「潜在性の場」[*2・3]に根差している。

[*1]「形相なき質料的現実」には次の註が付いている。「私がここで念頭においているのは、永井均が「物理学主義(physicalism)」と対比させて述べた「究極の唯物論(materialism)」である。」(337頁)
 入不二氏が「念頭においている」永井均の議論(「聖家族──ゾンビ一家の神学的構成」)を引用する。

《『なぜ意識は実在しないのか』で私が使った「第二次内包」という語はチャーマーズに由来しているが、そのもとになっているのは『名指しと必然性』におけるクリプキの理論である。クリプキによれば、ある種の語が指している対象の本質は、その語に関してわれわれの側が持つ概念(さしあたっては第一次内包)によってではなく、世界の現実のあり方の側によって決まっている。われわれは「水」の何であるかを知らずに水を指し(指示を固定し)ており、水の何であるかはそれに関するわれわれの概念とは独立に世界の側で決まっているのだ。だが、クリプキに反して、世界の側で決まっている‘それ’に、われわれが辿り着ける保証はどこにもない(第二次内包といえども単に「第二次」であるにすぎない)。
 にもかかわらず、‘それ’は在る。と考えるとき、この強い実在論が要請しているのは、第二次内包の方向に、第〇次内包に対するマイナス内包に相当するものを想定することだろう。ビンゾ[引用者註──「完全にフィジカルな存在者」であるゾンビの逆、すなわち意識は存在しているが身体が存在しない「完全にメンタルな(フェノメナルな)存在者」(204頁)]は、概念としてはそれを持つが、にもかかわらず、現実のそれを欠く。第一次内包から出発して、第〇次の方向にも、第二次の方向にも、ともに到達できない「彼方」が在ることになる。しかし、そのように考えるとき、「痛み」や「酸っぱさ」や「赤さ」のマイナス内包の想定が実は無内包の〈私〉の現存在から生じていたように、「水」や「金」や「熱」に関するその「マイナス内包に相当するもの」の想定もまた、じつは無内包の現実世界の現存在から生じていることになるだろう。この究極の唯物論(materialism)は物理学主義(physicalism)と徹底的に対立する。そして、[ゾンビに欠けているのが「質的な意識」(概念としてではなく現実の)であったのに対して]ビンゾに欠けているのはまさに‘それ’(materia)である。》(『〈私〉の哲学 を哲学する』(春秋社)225-276頁)

[*2]入不二氏によると、「現実性(actuality)」と「潜在性(potentiality)」の対照には、認識論的な水準と存在論的な水準がある(76頁)。認識論的な水準における現実性は潜在性の発現(manifestation,realization)・現前(presence,appearance)としてあり、そこでは現実性と潜在性は相互排他的である。これに対して存在論的な水準におけるそれは一番外側で透明に働く現実性であり、発現・現前するしないに関わらない「純粋現実」である。そこでは潜在性は現実性の働きの内にあって「‘現に’潜在している」のである。

《一番外側で透明に働く現実性こそ、内容化・様相化から退避する仕方で、最も潜在的に働いている。また、どれほど「深度」の大きい潜在性であっても、発現・現前としての現実性からは退却できるとしても、それでもなお現実性のうちで働いている。つまり、‘現実性はどこまでも潜在的であり、潜在性はどこまでも現実的である’。現実性と潜在性は、相互に排他的であるどころか、純粋であればあるほど(深くなればなるほど)接近し合い、互いに似てくる。
 一番外側で透明に働く現実性が、自己顕現化(現実性の受肉化)を行うやり方は、特定の命題内容(e.g.ソクラテスは哲学者である)や個別的な輪郭(e.g.可能世界)を身に纏って、一定の制約された姿で現れることである。…現実性の転落とその逆の遡行が、現実性の「受肉化」とその逆の「脱受肉化」に相当する。
 同様に、潜在[性]とその発現・現前の間の関係にも、自己限定による顕現化と(その逆の)退隠化、すなわち潜在性の受肉化と脱受肉化を見て取ることができる。潜在性の「深度」の深まりが脱受肉化に、その反対(発現との結合度の高まり)が受肉化に相当する。現実性と潜在性それぞれの「受肉化」は、認識論的な水準へと差し戻されることに相当し、現実性と潜在性それぞれの「脱受肉化」は、存在論的な水準へと差し戻されることに相当する。》(『現実性の問題』79頁)

[*3]「形相なき質料的現実」(潜在性の場)と「無内包の現実」(一番外側で透明に働く現実性)の違いについて、入不二氏は次のように論じている。

《…「形相なき質料的現実」とは、「物質」[すでに言語を介して概念化・差異化を被っているもの]もまたそこから切り出されてくるしかない「〈地〉としてのマテリアル」である。そのような…「生[なま]の原質」は「ただ一つの現実」である。(略)
 とはいえ、この「形相なき質料的現実」は、概念化・差異化に対して開かれてはいて、概念化・差異化を‘待っている’。その意味で、「形相なき質料的現実」は、概念化・差異化以前の存在ではあっても、概念化・差異化が原理的に可能な何かであり、概念化・差異化のための原・素材を提供する。
 それに対して、…「「現に」という現実性の力」「無内包の現実」は、質料的現実のように「概念化・差異化を‘待って’」などいない。むしろ、「概念化・差異化」とは無関係に働く力が、「現に」である(たとえ、「現に」というこの書記自体は概念化を被るとしても)。…「マテリアルな現実」も…「無内包の現実」も、ともに「区別なきベタ(無差異)」という点では同じである。しかし、その「ベタ性」自体が異なっている。区別(境界・差異)が‘まだ入っていない’という「ベタ」と、区別(境界・差異)は‘入りようがなく意味がない’「ベタ」との違いである。…「現に」という現実性の力は、一番外側で働く力であることによって、区別(境界・差異)とは無関係に遍在する「透明なベタ」である(一方、…[マテリアルな現実]は「塗り潰されたベタ」である)。》(『現実性の問題』338-239頁)……

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