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韻律的世界【2】

【2】序─私を支えてくれたものは韻律である[*]

 中井正一は「リズムの構造」の冒頭に、次のように書いています。

《『レ・ミゼラブル』の中に次のような一節がある。「もはや希望がなくなったところには、ただ歌だけが残るという。マルタ島の海では、一つの漕刑船が近づく時、櫂の音が聞える前にまず歌の声が聞えていた。シャートレの地牢を通って来た憐れな密猟者スユルヴァンサンは『私を支えてくれたものは韻律である』と告げている。」》

 岩波文庫『中井正一評論集』(105頁)からの引用ですが、便利なもので、中井のこの論考はインターネット上の「青空文庫」で読むことができます。もっと便利なことに、青空文庫の先輩「プロジェクト・グーテンベルク」にアクセスすれば、『レ・ミゼラブル』の原文を検索することまでできます。
 孫引きの文中に出てくる「韻律」の原語が気になって調べてみると、「rime」(英語では「rhyme」)でした。[https://www.gutenberg.org/files/17518/17518-h/17518-h.htm]

  私を支えてくれたものは韻律である。
  Ce sont les rimes qui m'ont soutenu.

 「リズムの構造」で「韻律」の語が用いられているのは残り3個所、それらは同じ段落の中で、「リズム」と対のかたちで現われます。たとえば「リズムならびに韻律」といったように。
 ちなみに萩原朔太郎の「詩の原理」には、韻律の語が49回出現し、「リズム」のルビが振られています。「詩とは韻律[リズム]によって書かれた文学、即ち「韻文」である」のように。
 中井正一(韻律=ライム)と萩原朔太郎(韻律=リズム)とで「韻律」への訳語の当て方が異なっていますが、これは概念の定義の違いではなく、重点の置き方もしくはリズムやライムの語感の違いと考えていいと思います。
 この二つの用語法を組み合わせると、「韻律=ライム+リズム」。九鬼周造の「日本詩の押韻」における次の分類が、まさにそれにあたります(『九鬼周造全集 第4巻』224-226頁)。

     韻 Reim  :音の特殊な質的関係
   /       ※真の韻=こころの音色
 韻律
   \
      律 Rhytmus:言語の有する音の連続に基く量的関係
           ※真の律=感情の律動
                 
 私はここに「形の特殊な質的関係」、いわば「形の韻」のごときものを加えるべきではないかと考えています。

[*]2022年5月29日付朝日新聞の読書欄に、島村一平著『憑依と抵抗──現代モンゴルにおける宗教とナショナリズム』をめぐる柄谷行人氏の書評が掲載されている。その中に次の一節があった。

《モンゴルでは「韻を踏むという身体技法」が社会を変革する語りを生む、という指摘も興味深い。シャーマニズムだけでなく、社会主義以降に急激に発展したヒップホップも、韻律を伴った言葉によってトランス状態(憑依)に入っていき、別の人格(精霊)を招き寄せる。チンギス・ハーンを題材としたナショナリズムも、とくに詩の形で普及した。》

 いま一つ『独自成類的人間 哲学日記2014-2021』から関連する議論を引く。
 永井均氏は「吉本隆明の罵倒文の力 2016.10.13」の項で、清水幾太郎の「棄教」を非難し嘲笑した丸山眞男らに対する吉本の「罵倒の文体」を問題にしている。

《当時の私の心を打ったのは、「何が可笑しいのだ、……よ、……よ、……よ」の部分と、それに続く「……が、どうして……のだ」が繰り返される部分の、いわば韻律であった。私はそれに説得されて、吉本とともにこの三人を侮蔑した。おそらく、同じ内容であってもこの文体でなければ、そんなことは起こらなかったであろう。》(『独自成類的人間』39頁)

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