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文字的世界【9】

【9】フィギュールとしての洞窟壁画

 中沢新一氏は、「あらゆる宗教現象の土台をなしている人類の心の構造というものが、今日私たちが楽しんでいる映画というものをつくりあげている構造と、そっくりだという事実」の確認から始まる集中講義の記録『狩猟と編み籠──対称性人類学Ⅱ』のなかで、次のように語っています。
「映画が「洞窟的芸術」であることには、別の意味もこめられています。映画的イメージは美学の理論で言うところの「フィギュール figure」としての特徴をそなえています。これは「ディスクール discours」という言語学の概念に対立する概念で、ディスクールが主に情報の経済的な伝達をめざすコミュニケーション行為であるのにたいして、フィギュールはむしろ情報の経済的伝達を阻害したり歪曲したりする、非コミュニケーション的な表現行為です。旧石器のホモサピエンスが洞窟内に描き残したイメージ群は、あきらかにこのうちのフィギュールとしての特徴をそなえています。」(272-273頁)
 中沢氏によると、旧石器及び新石器のホモサピエンスが洞窟内に描き残したイメージ群は、次の三つのグループに分類されます[*1]。

【第一群】
・非物体的・非表象的な抽象的イメージ群(はじまりのイメージ)。無意識の物質的プロセスに直接触れている唯物論的な層(現実界)。
・暗闇の中に長時間いると視神経が自己励起しておこる内部光学[entoptic]と呼ばれる現象(「無から無へ」向かうイメージの氾濫、素粒子のようにはかない精霊たちの立ち現われ)がヒトの心の内側に開く超越的領域にかかわるイメージ群。
・映画の構造として見ると、このレベルのイメージ群は底なしの暗闇に向かって映写される。そこにはスクリーンにあたるものが欠けている。

【第二群】
・動物やヒトを具体的に描いた具象的イメージ群。
・ヒトの認知能力を超えた領域に触れている第一イメージ群の「おそるべき力」(ヌーメン)が現実の物質的世界との境界面に触れたときに意味が発生する、その(「無から有へ」向かう、「有」と「無」を転換させる)垂直的な運動の過程を保存しようとしているのがこの第二イメージ群。
・それは同時に記号的世界の発生をも意味している。これらのイメージ(イコン)は洞窟の壁画をスクリーンとしてモンタージュの詩的効果とともに映写される。

【第三群】
・言語的な意味を発生させ物語と結びつくイメージ群。
・垂直的な意味発生のプロセスによってあらわれてきた具象的イメージを(「有から有へ」と自律的にメタモルフォーシスをくり返す横滑りの運動によって)水平的に結合し、物語(神話やイデオロギー)を通じてこれを統御するイメージ群。
・こうして第二群のイメージを組織的に組み合わせた「娯楽映画」(幻想界)が発生する。身体(三次元の動くスクリーン)が演じる儀礼が発生する。

 洞窟壁画の世界は、これらのイメージ群が層状に積み重ねられてつくられている。表面に近い層では言語的コミュニケーションに適したイメージ群が全体を覆い、その直下には非言語的・非表象的な別のイメージ群が活発な働きを行っている(274頁)。──こうした構成を踏まえて、中沢氏は、旧石器の洞窟画の本質を「フィギュール」として捉えているのです[*2]。
「フィギュールは層状をした表現物の内部を、垂直方向に横断して、言語的な意味作用を離れた無意識の領域に、通路を開いていこうとしています。その無意識は、フロイトの「一次プロセス」やガタリの「機械状無意識」や私たちの「対称性無意識」などと、重なり合っています。視覚的イメージはほんらい、このようなフィギュールとしての層状のなりたちとしてつくられていますから、心の内部空間を動かす流動的知性にまで(物質的な神経組織をなかだちにして)直結していく、横断性がはらまれていることになります。
 そのことが、ホモサピエンスである人類が洞窟の中で最初におこなった、宗教的・芸術的な表現活動に、はっきりとしめされていることを、私たちはこの講義の中で確認してきました。そして、二十世紀になってようやく発明された映画において、このとてつもなく古い起源をもつフィギュールの精神が、驚くべきよみがえりをとげていたことも、見届けてきました。映画はまぎれもなく、近代に復活した「洞窟的実践」[*3]の一形態にほかなりません。」(276-277頁)

[*1]中沢氏は「現代の考古学者たちは、そこ[旧石器時代の洞窟の岩壁]に描き出されたイメージが、大きく分類すると構造の違う三種類のイメージ群でできていることを見いだしてきました」(86頁)と記し、参考文献としてデヴィッド・ルイス=ウィリアムズの『洞窟のなかの心』(港千尋訳)を挙げている。
 ちなみに、中沢氏が第一群から第三群のイメージの例として挙げている図(『狩猟と編み籠』40頁)は、ルイス=ウィリアムズが神経心理学的モデルに基づき「意識変容状態」における視覚的なイメージ(幻覚)の三つのステージを論じた箇所に付した図(『洞窟のなかの心』214頁)と同じものである。

■『狩猟と編み籠』
■『洞窟のなかの心』

[*2]中沢氏によると、こうした「フィギュール=洞窟」的活動は、誕生以来変わらぬ人類の「心」のトポロジーに基づくものであり、また、旧石器のホモサピエンスによって発明された「結社=組合」(アソシエーション)も、フィギュール化された社会にほかならない。
 結社=組合の成員は、洞窟でのイニシエーションを通じて、古い個体としては死に、新しい主体としてのよみがえりを果たす。

《新しい主体は「フィギュール」として、生まれ変わるのだ、と言いかえることもできるでしょう。フィギュールと呼ばれる美学的対象は、自分の内部に流動的知性につながっている無意識への通路を保ったまま、意味表現の世界に立ち上がってくる、特異な表現です。フィギュールは意味を破壊したりするのではなく、意味表現をそれが生まれてくる根源の場所である無意識という強度の場から、新しくよみがえらせようとしています。このようなフィギュールの原理が、社会的な構成の場では、結社=組合[アソシエーション]として表現されるわけです。
 じっさい美学で言う「フィギュール」は、洞窟的結社にそなわった①[脱テリトリー化]②[抽象化]③[新しい主体の生み出し]の三つの条件すべてを満たした表現となっています。フィギュールは、社会的慣習によって狭い意味内容に閉じ込められていた意味表現を、自由に解き放とうとします。意味内容からの脱テリトリー化が図られるのです。そのために、フィギュールは自分の身体にたくさんの穴を穿ち(フラクタル化をおこない、と言うこともできるでしょう)、そこから固定層を突き破って横断的な力が、流動的知性が表面へ向かって浮上してくる状態をつくりだします。流動的知性は、異なる意味領域を自由に横断する能力をもっています。それはどの領域やジャンルにも所属しない、抽象的な力なのです。そしてその抽象的な力の中から、いままで存在しなかった新しい意味が立ちあらわれてくるのを、フィギュールは手助けしようとしています。お気づきのように、フィギュールと詩的であることとは、ほとんど同義なのです。》(『狩猟と編み籠』285-286頁)

[*3]河合俊雄氏が『ジオサイコロジー──聖地の層構造とこころの古層』で次のように語っている。
「『アースダイバー 神社編』は、考古学的・人類学的観点はなかなか評価しにくいのではないかと思います。この本を読んだ人からけっこう聞いたのは、「話としては面白いけど、これって本当なの?」と(笑)。でも、ここに書かれていることは、心理療法の経験からは、納得できること、裏付けできること、あるいは、展開できることがけっこうあるんですよね。だから、それは考古学的に見たらどうかわからないけれども、心理学的に見ると、あるいはこころのリアリティからすると、「ああ、これは確かに当たっているな」と思うことが多い。」
 心理療法の経験から、あるいは「こころのリアリティ」からすると確かに当たっていて展開できること。そのような、「学知」としては評価しにくい知見のことを、私は「文学知」と呼んでみたい。深い洞窟の奥でくりひろげられる密儀の主宰者(シャーマン)が意識変容状態に陥って発する言葉とのつながりを考慮して「洞窟的実践知」と名づけていいかもしれない。

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