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生きることについて考える

はじめに

 今回、アドベントカレンダーの12月13日を担当することになった海です。
初めてこうやってnoteを使って記事を書くので、使い方もままならず多分文章もぐちゃぐちゃになってしまうことをご容赦ください。
そして、これから多分、自分のことについて話すことになるので「そんなん興味ねえ!」という人は、マジで超退屈なので読まんほうがいいと思います。あと、結構真剣で暗い話になるので、そういうの勘弁ていう方も読まんほうがいいです。

 なぜ急に真面目な話をしようと思ったのか、それは深夜テンションで後先考えれなくなってるのもありますが、これは僕が自分の人生の中で心のうちに隠して、悩み続けてきたことで、どこかのタイミングで人に打ち明けられればいいなと思っていたからです。めちゃめちゃ自分のことについて書いていて、多分後から自分で読んで死ぬほど後悔すると思いますが、気合いで乗り切ります。

僕の人生は、中1の冬に大きく変わった

 まず、「生きること」について考える前に僕のこれまでの人生を振り返りたいと思う。
 僕の人生は中1の冬を境に、それ以前と以降で二つに分かれている。端的に言う。
僕は中学1年生の冬に、母を亡くした。

僕の家族構成はこうだ。父と母、双子の兄、そして弟の僕である。僕の名前は「海」、双子の兄の名前は「航」だ。二人セットで「航海」と読み、「いつか立派になって、雄大な海を、勇敢に航るような人になってほしい。」という意味が込められている。
 航は、幼い頃から賢かった。幼稚園児のくせに、迎えにきた友達の母親と対等に会話していたことを覚えている。対して僕は、等身大の子どもだった。人見知りは凄かったが、だからこそ一度打ち解けた人には家族以上に自分を曝け出すことがある。
小学校に上がると、僕はスポーツを始めた。野球だ。少年野球団では多くのこと、いいことも悪いことも学んだ。入っていたことがある人ならわかると思うが、スポーツ少年団は、日本社会を子どもの世界に縮めたようなところである。監督や先輩の顔色を窺って過ごさなければならないし、ミスをすればとんでもなく怒鳴られる。同級生にはガキ大将がいて、逆らえばボコボコにされる。また、保護者たちの水面下のマウント取り合いもある。「うちの子はスタメンだから…etc」「あの子は下手くそなのに、母親は偉そう…etc」みたいなやつである。
 反対に、いいこともたくさんある。野球は楽しかったし、野球で繋がった仲間や先輩後輩もたくさんできる。大会で決勝タイムリーヒットを打って、達成感に満たされる日もある。

反抗期

 双子の子育てというのは大変だ。兄弟なら片方が成長すれば手がかからなくなるし、弟の世話を任せることもできるだろう。ただし、双子だと別である。まず産むのが大変だし、その後の世話も大変。母乳は二人分必要だし、寝かしつけも二人分、風呂も二人分…etc。そして、反抗期も二人分、同時に襲ってくる。

 夫婦仲は良くなかった。むしろ悪い方だ。いつも口喧嘩をしていたことを覚えている。僕は、母を罵る父が嫌いで、母の味方であり大好きだった。だが、そんな母に暴言を吐いてしまうようになる。それも、航と僕、二人同時にだ。
反抗期は小学校6年生ごろから始まったと思う。しょうもない理由だ。口うるさく言ってくることに不満を持ったり、自分のミスの腹いせといったことが原因だ。父は恐ろしかったので、優しい母に当たってしまった。反抗期は長かった。そして中1の冬がやってきた。

中一の冬

それは、朝学校に行く前の出来事だった。朝ごはんが用意されていないことに違和感を覚えたが、そんなに気にならなかった。7時前、父が仕事に出発するとき、大きな声を上げた。

母が玄関で倒れていた。

救急車を呼んだ。父がパニックになって叫んでいた。こんな父は初めてだ。
病院に向かったが、すでに手遅れだ。僕と航は、胸の辺りで手を組んだ母の亡骸の横で泣き崩れた。何度も母を呼び続けたが、声は虚しく響くだけで、目を覚ますことはなかった。

その日は学校を休んだ。親戚が知らせを聞いて家に来た。おばさんが無言で抱きしめてくれた。食事も食べる気にならなかった。母の最後の手作り弁当を食べれなかったことが、心残りだ。

 二日後に葬式を取り行った。多分100人以上もの人が参列したと思う。僕はここで、自分の母の人望の厚さと偉大さに気づいた。同時に、もうその人がこの世にはいないことを理解した。これからどう生きればいいのかわからず、僕と航、父の三人は絶望の淵にいた。
病院での、父と航と話した会話を今でも覚えている。

「航、海、これからどうやって生きていけばいいんや… どうする?」父が言った。
「どうするって言っても、生きていくしかないやろ。」航が言う。
「そうやな。生きるしかないわ。どうするんかは知らんけど。」僕。

この時、僕は何があっても絶対に自分で自分自身を殺すことはしないと決意した。なぜなら、もし自分が死んだ時、どれだけの人を悲しませるか、残された人はどう思うのかを知っているからだ。世界で一番好きだった母親の死を味わい、残された人の苦労と悲しみを味わい、娘に先立たれた祖父母の姿を見て、身に染みるほど痛感しているからである。

父が嫌いだ

父のことが嫌いだ。父が母に暴言を吐くようになったのは、小学校高学年の時からだ。理不尽な言葉の暴力を投げかける父に怒りが湧いていたが、当時の僕は父がとても怖く、注意することもできなかった。
 母が亡くなった時、これからこの死ぬほど嫌いな父と生きていかなければならないことに絶望していた。

 父は努力していた。母がいないので、代わりに毎日朝5時に起きて弁当を作ってくれた。僕より早く仕事に行って、僕より遅く仕事から帰ってきた。それから、夕食と次の日の朝ごはんを準備して洗濯物を朝2時まで起きてやって、寝た。それを毎日繰り返していた。
僕は、そんな父の努力を知りながらも、嫌いな気持ちを拭えなかった。母を失った思春期真っ只中の中学生の僕は、父に感謝できるほどの心の余裕はない。まずくて酷い見た目の弁当を食う気にはならなかったし、洗濯を手伝うこともなかった。睡眠不足とストレスが溜まった父と、大嫌いな父を手伝うことができない未熟な僕とでよく言い争った。学校の成績も下がり、ずるずる下がって下から6番目になった。

唯一の逃げ場所 学校と友達

 多分学校がなければ自分は生きていないと思う。母の死と嫌いな父が重くのしかかる家には、できるだけ帰らなかった。学校で友達と話すときや部活で汗を垂らしているときが幸せだった。学校では、母の死は秘密にしていた。友達との関係が変化して壊れてしまうことを恐れたからだ。
 友達のおかげで、勉強も頑張るようになり成績も回を重ねるごとによくなっていった。中学2年の時は下から6番目だったのが、高校に入る頃には上の方になった。筑波大学に入れたのも、その時友達と一緒に勉強を頑張れたのがきっかけだろう。

塞がらない心の穴

いくら学校で友達と楽しい時を過ごしても、空いた大きな心の穴は塞がらない。経験したことがある人もいるかもしれないが、人は大切な何かを永遠になくしたとき、本当に心に穴が空く。心臓にぽっかりと空洞ができる。楽しい時を過ごせば気まぎれるが、ふとした瞬間に思いだす。一人になればズキズキと痛む。この大きな穴は、時を重ねて楽しい思い出を作るごとに徐々に小さくはなっていく。でも、多分塞がることはないだろう。

初めて他人に打ち明けた

 初めて他人に打ち明けたのは、大学に入ってからだ。だいぶ月日を経たのと、地元と離れた地なので、当時の友達に知られることもないこと、自分の中で心の整理がつき始め、受け入れることができていたこともあるだろう。初めて話したときは、震えて涙が止まらなかった。今まで心に封じ込めていた記憶と、苦しい経験、苦悩が一気に溢れ出たからだ。だが、その時やっと自分は母の死と向き合うことができたと感じた。

大学3年の夏、父と飲んだ

「母の死と向き合うことができた。じゃあ、今度は父と向き合う番だ。」と、夏休みで実家に帰る前に心に決めた。父は自分のことをよく気にかけてくれる。定期的に電話をかけてくれるし、金銭面での援助もしっかりしてくれる。だが、心の溝はあの時のままぽっかりと空いたままだ。高校生、大学生になるにつれて父と喧嘩になったり怒鳴られたりすることはほとんどなくなったが、僕は父への嫌いというレッテルを剥がすことはできなかった。電話の時も直接会って会話する時も他人行儀で、心を打ち明けない。
 父との飲みは、実家を発つ前の番に、僕から誘った。近くの居酒屋に行った。はじめは他愛無い会話から始まった。大学生活や、高校の友達、地元の友達、野球少年団の話などである。話題が尽きてきたころ、ついに僕はあのことについて触れた。

「お母さんのことについてどう思ってる?」僕。

それから、父は目に涙を浮かべて語り始めた。あの時、何があったか、父と母の間に何が起こったのか、中学生の僕と航には伝えることができなかった真実、父の思いや後悔…
そして、最後に僕は、父に最も聞きたかったことを尋ねた。

「お母さんを愛していたの?」

お父さんは小さく頷いた。思い返せば、父は母が亡くなった後、毎週欠かさず日曜日に母の墓参りに行っていた。また、僕がつくばから滋賀に帰る時は、事故が起きないように、無事に実家に帰れるように母の墓の前で手を合わせたという。
僕は涙をこぼした。父を泣かせるつもりが、僕が泣いてしまった。

こうして僕は父と、21歳になって生まれて初めて向き合うことができた。

『すずめの戸締り』

「すずめの戸締り」の劇中に、こんなセリフが登場する。(*まだ鑑賞していない人は注意!!)

大人になった主人公が、心に大きな傷を負ったかつての自分に向かって言う。

「今は真っ暗闇に思えるかもしれないけれど、いつか必ず朝が来る。
あなたは、光の中で大人になっていく。」

この言葉を劇場で聞いた僕は、思わず涙をこぼした。中学1年の冬に母を亡くし、今まで辛い経験や悲しい過去を抱えて生きてきた。でも、この言葉が、自分の今までの人生を肯定してくれたようでとても感動を覚えた。

最後に

 ここまで読んでくださってありがとうございます。自分の話ばかりで、しかも暗い話が延々と続くような内容でしたが、自分が今一番書きたい内容を言葉にしました。
もしあなたが、失意のどん底におち、希望を見出せなくなり、未来の自分を思い描くことができなくなったとしても、決して投げ出さないでください。そして、そういう時は周りの人に遠慮なく頼ってください。きっとあなたの助けになるはずです。自分の場合、そういう時は音楽や映画を見たり聞いたりして、歌の歌詞や物語の主人公に自分を重ねたりします。コロナ禍の影響で友達がいなくて苦しい時は、Justin Bieberの歌に救われました。
 そういった逃避する手段を見つければ、大丈夫です。そして、自分の心に受け入れる準備ができたら、向き合ってみたらどうでしょうか。きっと大きな成長につながるはずです。

ありがとうございました。海でした。





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