『悪は存在しない』について

 率直に言って『悪は存在しない』(濱口竜介、2024)のような映画について語ることには、あまり気乗りがしません。なぜかというと、それは私がよく感想を書いている美少女アニメなどとは違い、ヨーロッパの古色蒼然たる権威によって、既に価値が確定している映画だからです。映画批評家ならともかく、我々がそんな映画について何を語ろうと、そんなものは権威のお墨付きへの追従以外のものにはなりようがありません。
 とはいえ、たとえ権威の後追いであったとしても、この映画について何か語りたいという気持ちが、私の中にあるのも事実ではあります。ここでは、議論が集中しているであろう物語上の箇所に論点を絞り、手短に書きます。

 よく話題になる『悪は存在しない』の結末部じたいは、それほど難解なものではないと思います。ああいう結末に至った理由は、「手負いの鹿」をめぐる会話において明示されているからです。それは個人の内面から惹起されるのではなく、外在的な力学がもたらす必然です。したがって、そこではもはや道徳的判断じたいが意味を持ちえない、つまり悪は存在しない。
 しかし、作中人物である高橋を中心に据えてこの映画の物語を観てみると、また違った読み解きをしてみたくなります。つまりあのラストシーンは、あの町で生きるにあたり、彼がどうしても経験しなければならないイニシエーションのようなものだったのではないか、と考えてみたくなるわけです。

 高橋という人物が初めて登場するのは、中盤のグランピング場建設にまつわる住民説明会のシーンです。そこで彼は、どうにも子供じみた鈍感で無神経な男として印象付けられています。しかし車内における黛という女性との会話を通して、彼が決して記号的な「悪しき都会人」ではなく、彼なりの事情を抱えた等身大の人間であることが、少しずつ開示されていく。高橋は単なる道化や犠牲者ではなく、紛れもなくこの映画の中心人物です。
 水挽町なる町に再び足を踏み入れた高橋と黛は、再び巧と出会います。巧は高橋に薪割りを教え(このシーンがすごくいい)、高橋は感動をあらわにする。グランピング場の管理人を頼みに来た彼は、いまや自分がこの町の住民になり、ひいては管理人になってもいいと思っているようです。
 そんな高橋に対し、巧は決して拒絶的にも否定的にも接してはいません。鹿はどこへ行くんだ、と問うたとき、高橋が「別の場所へ」と答えたことに対して、幾らか苦々しげな反応をしたくらいです。巧は彼らと食事を共にしますし、水を運ばせもします。村の敵対者から、村の協力者へ――そのような推移を、観客の誰もが思い描きます。

 終盤、娘の捜索に出た巧の後ろを、高橋はあまり意味もなく追っていきます。私だったら「ついてくるなバカ、お前は別の場所を探せ!」と怒鳴りつけたくなるところですが、もちろん巧は、彼の同道を許しています。
 もしかすると高橋は、巧の後を継ぐ人間なのではないでしょうか。グランピング施設の管理者になるということは、良かれ悪しかれ生まれ変わるであろうこの町において、中心的な立場になるということでもあるはずです。しかし、彼にはまだその資質が十分に備わっていません。彼の心性はまだ、田舎の風景を観光の対象としている都会人のそれにとどまっています。だから、鹿との共生についてきちんと考えることができずにいる。そんな彼に、突発的な暴力として襲いかかるのが「手負いの鹿」です。

 殺されかけながらどうにか起き上がり、霧に満ちた森の中で「何なんだ」と問う高橋は、もはや観光に来た都会人ではありません。彼はそのとき、自然との抜き差しならない関係の世界を否応なく生きています。すなわち娯楽としての自然ではなく、我々の生と死の条件をなすものとしての自然へと。そのまがまがしい変化を、身をもって経験しない限り、自然と共に生きることなどできはしない。いま「管理人」になろうとしている一人の都会人に対する、それは意図せざる教育であるかのようです。
 そのように考えるとき、住民説明会からこの結末に至るまで、巧は高橋に対して、自覚的か無自覚的かはさておき、一貫して教育者として振る舞っていることがわかります。浄水装置が機能しえないことを教え、町の知識を教え、薪割りを教え、自然と生きることが何であるかを教えている。
 もちろん、巧はみずからの娘に対してもそう振る舞おうとします。彼は娘に植物の生態や分類を教えます。しかし娘はあまりにも自然に近い存在であり、自らを危険にさらして自然と接しようとしてしまう。そういう点で言うと、高橋は人為の論理にいささか寄り過ぎています。では、その「バランス」は、いかに保たれるべきなのか。いずれにせよ『悪は存在しない』が、教育という主題をめぐる映画であることは間違いないように私は思います。
 


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